2012年1月30日月曜日

レッド・ツェッペリンの陰鬱

以前に書いたように、今年の私の音楽生活はレッド・ツェッペリンから始まった。その後いろいろ聴いては、またツェッペリンに戻ってヘビー・ローテーションとなる。結局今月はツェッペリン月間となってしまった。
ツェッペリン「存命」時に、リアルタイムで聴いていた青少年たちの中に、オヤジとなった今もなお日常的に聴いている人っているんだろうか?

当時のロック少年たちは、顔を合わせるとすぐに「このバンドのアルバムで一番いいのはどれか」談義を始めるのが常だった。
ツェッペリンに関しては、4枚目のノン・タイトルの通称『フォー・シンボルズ』が最高傑作だというのが大方の意見だった。その次が2枚目の『レッド・ツェッペリンⅡ』。ついでに言うと3枚目の『レッド・ツェッペリンⅢ』は、当時は「駄作」ということになっていた(そのアコースティカルな音ゆえに)。
私は大勢の意見に反して、1枚目『レッド・ツェッペリン』と3枚目が好きだった。ちなみに、私の高校時代には、まだ4枚目までしか発表されていなかった。
その後に出た5枚目の『ハウス・オブ・ザ・ホーリー』も大好きなアルバムで、結局ツェッペリンは奇数枚目がよいというのが私見である。そして、ツェッペリンのピークはこの頃まで。この時期のライブを収めたアルバム『ザ・ソング・リメインズ・ザ・セイム』と、新旧セッションからなる次作『フィジカル・グラフィティー』までが、ぎりぎりツェッペリンのマジックが輝いていた時期だろう。
その後、9枚目のアルバムを発表した後、ドラムスのジョン・ボーナムが死に、それを理由にバンドは解散した。しかし、ほんとはそのずっと前にツェッペリンは、もう私の中では終わっていたのだった。

ところで、「ヘヴィメタル(つまり重い金属)」という音楽のジャンル名の語源て、てっきり「レッド・ツェッペリン(鉛の飛行船ツェッペリン号)」だと思っていたら、どうやらそうじゃないらしいね。
「ヘヴィメタル」のあのラウドで暗くて陰湿な音が、ツエッペリン・サウンドとの関係を連想させて、そうとばかり思い込んでしまっていた。

今回ツェッペリンをじっくり聴いてみて、あらためて感じたのは、その音の「ラウドで暗くて陰湿な」ことである。とくに、1枚目から3枚目くらいまでのアルバムの音が。
当時、つまり1960年代末から、70年代初めの音楽の世界の中で、こんな音はかなり特異であった。
ギターの音の人工的でメタリックなゆがんだ音色、それと「老婆の金切り声」系高音ボーカル(その後ロック界ではひとつの定型となるボーカル・スタイル)なども特徴的だが、他で聴けないわけではない。しかし、それによって作り出される、ダークで陰湿でひしゃげた音世界はかなり独特だ。

ブルースをやっても黒人音楽としてのブルースの持つ暗さとは別種の陰鬱さがある。たとえば、1枚目の3曲目、ウィリー・ディクスンのブルース「ユー・シュック・ミー」。
曲中「…オール・ナイト・ローン」という歌詞とともに下降していくスライド・ギターのフレーズにのって、こちらの気持ちも滅入りそうだ。
同じこの曲を、ジェフ・ベック・グループも取り上げているので(彼らの1枚目で)、比較して聴くと、ツェッペリンの非ブルース的な暗さがよくわかる。
2枚目の「レモン・ソング」(ハウリン・ウルフの「キリング・フロア」)なんかも、独自に隠微で原曲より暗い。

それとツェッペリンに特徴的なのは、音色だけでなく彼らのビート感もまた人工的ということだ。つまり肉体的でないビート感覚。これはたぶん意外に思う人も多いに違いない。
たとえば「コミュニケーション・ブレイクダウン」のイントロのリフである。リズムは立てノリで、いわゆるグルーブというものがない。これでは踊れない。肉体ではなく頭の中で刻んでいるリズムといった感じ。「アイム・ゴナ・リーブ・ユー」のサビのリフなども同様だ。
初期の彼らのライブ映像を観ると、体でリズムを取るということをしていない。ジミー・ペイジは、棒立ちのまま手だけでリフを刻んでいる。その後のバンドが体でリズムをとりながら弾いたり歌ったりしている姿を見慣れた目には、かなり異様に映る。

誤解しないで欲しい。つまり、この暗くて人工的でいびつな音世界。この唯一無二のツェッペリン・サウンドこそが、つまりカッコよくて最高だったのだ。

初期のツェッペリンは、ジミー・ペイジのワンマン・バンドだった。ペイジが、ヤードバーズから独立してツェッペリンを結成したとき、バンドのサウンドとして目指していたのは、よく知られているように、かつてヤードバーズの同僚だったジェフ・ベックのグループの音だった。
ツェッペリンの1枚目の音は、その前年に出たジェフ・ベック・グループの1枚目の音にかなり近い。というか、ほとんどマネといっていい。
この第1期のジェフ・ベック・グループのライブをブートレグで聴くと、ロッド・スチュワートのボーカルが、ワイルドに炸裂していて、ときどきツェッペリンと区別がつかなくなる瞬間がある。
しかし、ベックのグループとツェッペリンとは、決定的に音の感触が違う。ツッペリンの方がゆがんでいて暗いのである。それは、たぶんジミー・ペイジの戦略であると同時に、彼の鬱屈がそこに反映されているからだ。

ヤードバーズに在籍した三人のギタリスト、エリック・クラプトンとジェフ・ベックとジミー・ペイジを、「三大ギタリスト」という。このうち、クラプトンとベックは、天才肌のプレイヤーである。これに対しペイジは、たぶん努力型であると同時に「はったりをきめる」のが得意な人なのだと思う。
ギターのソロも、クラプトンやベックは流麗で、ひらめきと開放感があるのに、ペイジにはそれがない。たとえば誰もがコピーした「ハートブレイカー」の間奏のギターソロ。文句なくカッコいい早弾きだ。けれど、手癖だけで弾いていてけっして流麗ではない。

ツェッペリンのダークな音色には、ペイジの鬱屈と野心が反映されている。しかしそこには同時にその鬱屈を破壊するようなエネルギーがあった。そのエネルギーがたぶんあの時代の若者の心と共鳴したのだと思う。
日本においても同様だ。鬱屈した青少年(私もその中の一人だった)は、ツェッペリンの陰鬱な音と踊れないビートに共感し夢中になったのだった。
こんな音楽が、大きなセールスを記録したというのも考えてみれば、大変な時代だったよね。

その後ペイジは5枚目で「更正」して、前向きで肯定的な世界観の「ザ・ソング・リメインズ・ザ・セイム」を作る。明るい方へ抜けていく解放感が感動的だったし、続く「レイン・ソング」も、硬質な叙情が心にしみた。
しかし結果的に観ると、まあそれで終わってしまったということなのかもしれない。

0 件のコメント:

コメントを投稿