2015年9月11日金曜日

キース・ジャレットのマラソン・セッション


■キース・ジャレットのソロ・コンサート事件

近年のキース・ジャレットの大きな話題と言えば、どうしてもソロ・コンサートの中断事件を挙げないわけにはいかない。
たとえば昨年(2014年)の大阪公演。キース・ジャレットは観客の咳に気分を害して演奏を数度中断、ついにはそのままコンサートを終了してしまい騒ぎになった。本人いわく、観客の咳で演奏への集中が妨げられたからだという。しかもこのようなトラブルは、これが初めてではなくて、2005年の来日時や2010年のパリ公演でも起こしている。また、この大阪のすぐ後のパリ公演でも、同じことが起きたらしい。

その場の状況はわからない。しかし、話だけ聞くとこのトラブルは、ミュージシャン側のエゴとしか思われない。観客のせいにしているけれど、ようするに演奏する側の集中力が衰えたことが原因なのではないのか?だって彼の若い頃のソロ・コンサートでは、全然そんな問題は起きなかったでしょ。

そんなわけで、近年のキースのコンサート会場には、主催者側による「静かに聴くように」という注意書きが貼り出され、観客も非常な緊張を強いられるらしい。観客にそんな思いまでさせないと集中できないというのなら、そもそもコンサート活動はもう無理なんじゃないのか。しかし、それでも彼の演奏を聴きに行く人がいるのだから驚いてしまう。私だったら、そんな場所に行くのは絶対にご免だ。

80年代以降のキース・ジャレット

しかしさいわいなことに、私は現在のキース・ジャレットには全然興味がない。今、ジャズ・ファンの間では、キース・ジャレットという人は、どういう位置付けなのだろう。もちろん「名ピアニスト」であり、ジャズの「巨匠」ではあるのだろうけど…。
そう言えば2011年にポール・モチアンが亡くなったときのこと、私がたまたま目にした訃報の略歴は、モチアンがビル・エヴァンス・トリオのドラマーを務めたことには触れていたが、キース・ジャレットのグループにいたことは省かれていた。キースとの付き合いの方が長かったのにね。
してみると客観的にみてもキースの評価は下降気味なのではなかろうか。べつにコンサート事件が足を引っ張っているわけでもないのだろうが。

私は70年代からキース・ジャレットを聴き始め、ソロやアメリカン・カルテット、ヨーロピアン・カルテットのアルバムを聴いてきた。しかし、1983年のスタンダーズから全然興味が無くなってしまった。
これまでのキースのキャリアの中で、一般的にはむしろ、このスタンダーズの評価と人気が圧倒的に高いようだ。これは、ゲイリー・ピーコックと、ジャック・ディジョネットと共に、スタンダード曲を演奏するというコンセプトのトリオだ。
私もその評判を聞きつけて、来日コンサートに行ってみたことがある。しかし、高度に洗練されてはいるけれども、全然スリルや面白みのない演奏だった。アルバムで聴いてもそう思う。
だいたいこのトリオは、それぞれピークを過ぎたミュージシャンの再利用として、マンフレート・アイヒャー(ECM)が仕掛けた苦肉の策なのではないか、というのが当時も、そして今も変わらない私の考えだ。ちょうどかつての人気歌手が、オリジナル曲ではなくて、他人の曲のカヴァーを集めたアルバムを出すのに似ている。

ただしスタンダーズ結成に先立つ1977年、このメンバーが初顔合わせしたゲイリー・ピーコックのソロ・アルバム『テイルズ・オブ・アナザー(Tales of Another)』は、とてもよいアルバムだ。魅力的なソロがあり、スリリングなインタープレイもあって、ちゃんとしたジャズをやっている。この路線で進んでいってくれればよかったのにね。

キース・ジャレットは1996年に慢性疲労症候群を発症し、98年まで闘病生活を送っている。その後、回復して復帰したわけだが、復帰後の作品の一般的評価は、以前ほどではないようだ。私も復帰作でベストセラーとなった『メロディ・アット・ナイト・ウィズ・ユー(The Melody at Night with You)』を買ってみたが、この人らしいひらめきのない平板でつまらないアルバムだった。以来、私はこの人の新作を聴く気になれないでいる。

■キース・ジャレットの時代とソロ・ピアノ

かつてキース・ジャレットが一世を風靡していた時代があった。1970年代の中盤から後半にかけてのことだ。私の手元にあるスイングジャーナル誌の臨時増刊「ジャズ・レコード百科’79」の表紙は、キース・ジャレットの顔だった。70年代のジャズを象徴する存在として扱われていたわけだ。
あの頃のジャズ界におけるキースの勢いと存在感は、現在では想像もつかないほどだった。ジャズ評論家たちは口をそろえて彼の作品を絶賛したし、ジャズ・ファンの間での人気も絶大だった。1978年にはジャズのピアニストとしては異例の日本武道館での単独公演を行い、ピアノ・ソロのコンサートで12000人を動員した。

その勢いのすごさは、たとえば彼のソロ・アルバムの組枚数ひとつを見てもわかる。最初のソロ・アルバム『フェイシング・ユー』(1971)は当然(?LPレコード1枚のシングル・アルバムだった。ところがその2年後の『ソロ・コンサート」(1973)が、いきなりのLP3枚組。その2年後の『ケルン・コンサート』(1975)がLP2枚組。さらにその翌年の『サン・ベア・コンサート』(1976)は、何と怒涛のLP10枚組ときた。
よっぽどの自信がなければこんな出し方はできない。しかも、これらのアルバムは、たしかに大いに売れたのだ。『ケルン・コンサート』は、ジャズ・アルバムとしては大ヒットを記録し、巨大ボックス『サン・ベア・コンサート』もけっこう売れたらしい。

私にとっては、ソロ2作目の『ソロ・コンサート(Solo Concerts:Bremen and Lausanne)』のLP3枚組というヴォリュームと美麗なボックスが衝撃的で、つい手を出してしまった。
前代未聞の10枚組『サン・ベア・コンサート(Sun Bear Concerts )』も欲しかったのだが、さすがにこれには手が届かなかった。ちなみにこれを買えなかったことがトラウマとなり、その30年後、CD6枚組となっていた『サン・ベア…』のボックスを中古店で見つけた私は、思わず買ってしまったのだった。

キースがもてはやされていた70年代は、ちょうど私の青年期にぴったりと重なっている。ロック少年ではあったが、少しばかり背伸びしてジャズもかじっていた私にとって、キース・ジャレットは光り輝く存在だった。前述のように、なけなしの金で『ソロ・コンサート』 3枚組ボックスを買って聴いたりもした。
しかし、今振り返ってみると、そんな時代の風潮に、私も少しばかり乗せられていたような気もしている。夢中になっていた自分が今は何だが少し恥ずかしい。

今では彼のソロ・アルバムを面と向かって聴く気には、なかなかなれない。せっかく買った『サン・ベア・コンサート』も、手に入れただけで満足して、しまい込んだままだ。
あの耽美的で、ナルシスティックな音の世界に入っていくのが何となくおっくうなのだ。かといってぼんやり耳を傾けると、どれも同じに聴こえてしまう。
かつて脚本家の山田太一が『サン・ベア・コンサート』を聴いて次のように述べていたのを思い出す。「即興がきり拓く音楽の領域は、それほど広いものではない」、むしろ「綿密に構築し、書き直しを重ねた譜面」の演奏にこそ、即興とは「別の自由感」があるというのだ(雑誌『カイエ』1979年1月号)。なるほど、即興演奏は完全に自由とはいえ、その世界が無限に広がっていくわけではない。一歩引いて俯瞰してみれば、そのテクスチャーがどれも似たように見えてしまうのも、やむを得ないということだ。

というわけでキースのソロ・ピアノのアルバムは、もうたまにBGMとして聴くだけだ。コンサートで観客にも集中を要求する彼が知ったら、きっと怒るだろうな()
ソロ・ピアノでは、何といっても第1作目の『フェイシング・ユー(Facing You)』(1971)がよい。1曲1曲がコンパクトで、瑞々しく、しかもジャズ心に溢れているからだ。

■キース・ジャレットのマラソン・セッション

そんな私が今キース・ジャレットのアルバムを一通り聴き返している。やはりキースの絶頂期は70年代ということになる。それも時代を初期に遡ればさかのぼるほど面白い、というのが私の感想だ。
70年代のキースの代表作は、ソロなら『ケルン・コンサート(The Köln Concert )』(1975,)、グループならアメリカン・カルテットによる『生と死の幻想(Death and the Flower)』 (1974)と、『残氓(The Survivor's Suite)』(1976)、ヨーロピアン・カルテットによる『マイ・ソング(My Song )』(1977)ということになっている。
しかし、これらはどれも大仰過ぎる感じだ(『マイ・ソング』はとりあえず別)。肩肘張っていて重厚で長大。

それよりも今聴きなおして私が面白いと感じるのは、もっと初期の作品だ。
インパルスでの初期2枚『Fort Yawuh 』(1973)、『宝島(Treasure Island)』 (1974)や、その前のコロンビアでの唯一の作品『エクスペクテイションズ(Expectations 』(1972)も良い。軽快で伸び伸びしている
しかしその前のアトランティックでの最後のマラソン・セッションから生まれた3枚がさらに面白い。その3枚とは、『流星(The Mourning of a Star)』、『誕生(Birth)』、『エル・ジュイシオ(El Juicio)』(いずれも1971)だ。

キース・ジャレットのマラソン・セッションはあまり有名ではない。マラソン・セッションと言えば、何といてもマイルス・デイヴィスだ。1956年、当時コロンビアに移籍したかったマイルスは、それまで所属していたプレステッジとの残りの契約を果たすため、2日間でアルバム4枚分の録音をしたのだった。

キースの場合は、19717月の891516日の4日間にわたってセッションを行っている。この録音からは、今のところ3枚のアルバムが作られている。
どうしてセッションがマラソンになったのかは調べてないのでわからない。マイルス同様、それまで所属していたアトランティックとの契約を、消化して縁を切るためだったのかもしれない。

789日は、ピアノ・トリオによるセッションで、メンバーは、デヴュー・アルバム以来のチャーリー・ヘイデン(ベース)とポール・モチアン(ドラムス)。この両日の録音が『流星』に収録されている。
1516日は、上のトリオにデューイ・レッドマン(サックス)が加わったカルテットによるセッション。キースとレッドマンは、このときが初顔合わせだった。このメンバーがそのまま後のアメリカン・カルテットになるわけだが、そのきっかけとなったのがこのセッションだったことになる。このときの録音が『誕生』に収録されている。
この4日間のセッションのうちアルバム未収録だった曲を収めたのが少し後になって発売された『エル・ジュイシオ』だ。ただし、まだ未収録曲は残っているらしい。

これらのアルバムは、普通のキース・ファンからはあきらかに嫌われている。その気持ちはよくわかる。その後のアルバムのような洗練された感じがないからだ。グダグダとわけのわからないことをやっている。そのためこれらのアルバムはずいぶん邪険に扱われてきた。長く再発されなかったし、今は二束三文で投げ売り状態だ。
ここには、叙情的な曲もあるが、8ビートのフォーク・ロック調の曲や、フリー・ジャズっぽい曲、さらに前衛的で奇怪な演奏もある。これ以後のアルバムでもフリーの要素はずっと続いていくわけだが、じょじょにもっと整理され洗練されていく。
ところがまだこの時点では、いろいろな要素が雑然と同居しているだけだ。この状態を「ごった煮」と評している人がいたが、私としてはもっと強く「混沌」とでも呼びたい。生々しくどろどろとした表現欲求が、方向が定まらないまま噴出しているように見える。そして、まさにそこが私にとっては何とも言えない魅力なのだ。

キース・ジャレットは、そもそもビル・エヴァンスとオーネット・コールマンになりたかったのだ。だからビル・エヴァンス・トリオにいたポール・モチアンと、オーネット・コールマンのカルテットにいたチャーリー・ヘイデンをパートナーに選んで、トリオを組んだのだろう。
その後、71年のマラソン・セッションの際に招集し、その後アメリカン・カルテットのメンバーとなるサックスのデューイ・レッドマンもまたヘイデンと同様、オーネット・コールマンのカルテットにいた人だ。
またこのセッションでは、オーネットに捧げた「ピース・フォー・オーネット」という曲(2ヴァージョンある)も演奏されていて、これは『エル・ジュイシオ』に収録されている。

ポール・モチアンとチャーリー・ヘイデンを呼んで作られたキースの初リーダー作『人生の二つの扉(Life Between the Exit Signs)』(1967)には、まさにビル・エヴァンスを思わせるリリシズムと、オーネットを思わせるフリーな演奏が唐突に併置されている。結局そうした2面性がその後の彼の70年代のアルバムのすべてに通底していくことになる。

マラソン・セッションの面白さは、そうしたキースのいくつもの音楽的な方向性が、洗いざらい吐き出されているところにある。彼の頭の中の混沌が、混沌のままさらけ出されている。リリカルで洗練されたピアノ・トリオ演奏もあれば、フォーク・ロックぽい曲や、ゴスペル調の土臭い演奏もあり、さらにオーネット風の完全フリーの曲、またヴォーカルも聴こえる異様な現代音楽風の演奏もある。
興味があること、試してみたいと思っていたことに、果敢にチャレンジして、すべてやってみましたという感じだ。実験精神が横溢している。もちろん、そのすべてが成功しているわけではない。しかしその自由な感じが魅力的なのだ。
その代わり、このセッションから生まれた3枚のアルバムは、どれもアルバムとして統一感が無いし、バランスも悪い。はっきり言ってどれもいまひとつの出来だ。でもそれはしょうがない。

ところで、こうしたキースのチャレンジの遠い背景には、マイルス・グループでの体験があったのかもしれない。
前年の1970年の6月、キース・ジャレットは~マイルス・デイヴィスに請われて、マイルス・グループに参加する。
当初はチック・コリアがピアノを担当していたので、キースはオルガンを弾いていた。その後まもなくチックが抜けたため、キースがエレクトリック・ピアノを担当することになる。マイルスのアルバム『ライヴ・イヴル(Live=Evil)』などでは、キースのアグレッシヴなプレイを聴くことができる。
キースがマイルスのグループを去るのは、1971年の末だから、71年夏のマラソン・セッションの時点では、まだマイルス・グループのメンバーでもあったことになる。マラソン・セッションにおけるキースの実験的な試みの背景には、彼のマイルス・グループ体験、および独自の道を突き進むマイルスという巨人からの影響があったことは当然考えられることだ。
それにしても、マイルスは、キースのどこを見込んで、自分のバンドに招いたのだろうか。

キース・ジャレットの音楽は、その後、さまざまな可能性が刈り込まれ、きれいに整理され、どんどん洗練されていく。叙情性と前衛性は、一つの演奏の中で有機的に融合されることになる。そのついでに、彼の曲はどんどん重厚化し長大化してもいく。
今聴くとキースの生なましく、また得体の知れない人間的な魅力は、圧倒的に彼の初期の作品にあると思うのだ。