2012年12月25日火曜日

キング・クリムゾン『太陽と戦慄』への道のり(第4回)


<『太陽と戦慄』への道から見えてくるもの>

この1972年年末の英国ツアーのセット・リストは、アルバム『太陽と戦慄』のための新曲6曲と過去の曲「21世紀のスキッツォイド・マン」、そして2曲の即興曲から成り立っていた。
『太陽と戦慄』収録曲と即興曲とは、何となく別ものというイメージが私にはあった。アルバム収録曲の細部まで緻密に練り込まれた音と、ライヴの場で成り行きにまかせて演奏された即興の曲とでは、成り立ち方が全然違うような気がしたからだ。

しかし、それは我々がすでにアルバム『太陽と戦慄』を先に聴いた上で、それに先立つこのツアーの音源を聴いているためなのだろう。
あらためてこれらのライヴ音源を白紙に戻って聴いてみると、アルバム収録曲と即興曲との間にはそれほど大きな隔たりはないということがわかる。

このツアーに足を運んだ観客の立場になってみよう。アルバム『太陽と戦慄』はこの時点ではまだ発表されていない。だからステージで演奏されるのは、「21世紀の…」を除いてすべて未知の曲ばかりだ。
とくにツアー後半からつながって演奏されるようになった「土曜日の本」~即興曲~「放浪者」のパートなど、どこからが即興でどこからが事前に出来上がっている曲なのか、観客はわからないまま一つの流れとして聴いていたことだろう。
「イージー・マネー」~即興曲のパートも同じ。「イージー・マネー」の間奏部など、観客はたぶん即興として聴いていたに違いない。

そんなことを考えていたら、『太陽と戦慄』というアルバムのそこここに即興的な要素が聴かれることにあらためて気がついた。
もちろんこのアルバムにライヴでやっていたような即興の曲そのものは収録されていない。しかし、それぞれの曲の中に即興的な要素があるのだ。きっちり構成されている中に、いわば即興的な要素を内包しているように見える。
たとえば、「太陽と戦慄 パート1」の動から静へと展開する中間部や「イージー・マネー」のじわじわと迫る間奏部分、そして「トーキング・ドラム」の全体だ。そこでは、ライヴの場で鍛えられた即興演奏のエネルギーが、一定の枠の中で噴出している。

このような練り上げられた構成の中での生々しいパワーの発露こそ、新生クリムゾンでフリップが実現したかった音なのではなかろうか。
手堅いテクニシャンぞろいのメンバーに加えて、破天荒なミューアを起用したのは、こうした生なパワーの実現の意図によるものであったと思われるのだ。

このツアーの音源を聴いていると、ミューアの演奏が必ずしもいつも前面に出ているわけではない。それを期待して多くの人はこの時期のブートレグに手を出したわけだが、その期待は裏切られたはずだ。
しかしミューアは、自分が発する音だけではなく、インプロヴィゼーション全体を煽(あお)るという点で、サウンドに貢献していたのではないかと思われる。

今回このツアーの音源を順に通して聴いてみてあらためて思うのは、彼らの即興演奏におけるインター・プレイというものが、どんどん進化&深化していることだ。
ズーム・クラブでの混沌とした世界から、即興演奏は次第に一体感を増してゆく。リズムを軸としたインタープレイは、ときどきジャム・バンド的な様相を見せることもあった。
それが、さらにツアー終盤には、現代音楽あるいは、フリー・ジャズ的にも聴こえるフリー・フォームな即興へと進化している。リズムに頼らない、無調、無ビートのフリーな展開は、緊迫感のみで成立しているより高次なインタープレイと言えるだろう。
ちなみに、ジェイミー・ミューアがクリムゾンの前に参加していたザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニーは、まさにそのようなフリー・フォームのインタープレイを追及していたバンドだった。

<『太陽と戦慄』というアルバム>

このアルバムの曲は、基本的なアレンジは、ここまでのライヴでの演奏と同じだ。ただ、たとえば次のような点が新たにスタジオで付け加えられている。
「太陽と戦慄パート1」では、ラストにドラマの台詞のような人の声が多重に重ねられたSEが入っている。長くドラマティックな展開の曲の終盤に不思議な余韻を添えている。
「土曜日の本」では、テープの逆回転による奇妙なギターのメロディが聴こえる。あっさりしたヴォーカル・チューンに不思議な陰影が付け加えられている。最後の方でヴォーカルにコーラスも重ねられている。
「イージー・マネー」では冒頭からジェイミー・ミューアが大活躍だ。とくに間奏では、ミューアの奇抜でかつデリケートなプレイをじっくり聴くことができる。

ツアーのライヴ音源と比較するために、久しぶりに何度も繰り返しこの『太陽と戦慄』を聴きなおした。
『クリムゾン・キングの宮殿』とはまったく違ったコンセプトであることが、あらためてよくわかった そして、ここからが現在に続くフリップのクリムゾンの始まりであったことも。
さらにそれまでのサウンドと大きな隔たりを感じたディシプリン期のクリムゾンが、フリップにとってはそれ以前から連続しているものであったことも何となくわかったような気がする

ところで、今回の『ボックス』や、それに先立つ『コレクターズ・キング・クリムゾン』シリーズによって、この過去のライヴ音源がオフィシャル化された際に、それぞれの即興曲にタイトルが付されている。
ビート・クラブのときの即興曲につけられた「The Rich Tapestry Of Life」のように、特別のいわくのあるもの(ミューアからフリップに宛てた葉書の一節による)もある。しかし、大半はたぶんちょっとした言葉遊びといった感じのものだ。

そこから想像するに、ミューアのアイデアによるという曲タイトル(アルバム・タイトルでもある)「Larks' Tongues in Aspic」も、そんな言葉遊び的なノリでつけられたものと思えてくる。
ロックのライターたちが昔からしたり顔で引用してきたこのタイトルについてのブラッフォードのコメントがある。すなわち「ひばりの舌=優美さ、繊細さ」、「アスピック=荒々しさ」の象徴という絵解きだ。これはまあ話半分くらいに聞いておけばいいのではないか。
この辺のニュアンスについて触れた『レコ・コレ』誌2012年12月号『太陽と戦慄』特集の木下聡「英国人の言語感覚から再考する」が。舌足らずのまま、尻すぼみに終わっているのは残念だ。

<おわりに>

今回私は『太陽と戦慄 40周年記念エディション』CD+DVD版を手に入れた。このCDの方には、3曲のボーナス・トラックが入っている。「太陽と戦慄 パート1」と「トーキング・ドラム」のオルタネート・ミックス、そして「土曜日の本」のオルタネート・テイクだ。
ボーナス・トラックというのは面白かったためしがない。所詮は「おまけ」だからね。しかし今回のこの3曲は、意外にもどれも素晴らしく良かった。

「太陽と戦慄 パート1」と「トーキング・ドラム」は、フリップのギターとミューアのプレイが強調されている感じ。
「土曜日の本」は、ヴァイオリンと逆回転ギターの入っていない、ヴォーカルとギターだけのシンプルな演奏。繊細さが際立っている。
どれもオリジナルの曲に新しい光を当てると同時に、それぞれのテイク自体もオリジナルに匹敵するくらいの良い出来だと思う。

それにしても1972年年末ツアーの音源を良い音で聴きたい。ほとぼりが冷めた頃、こっそりとこの『40周年記念ボックス』のディスクがバラ売りされる、なんてことはないのだろうか。そうなることを心から祈っている。

2012年12月22日土曜日

キング・クリムゾン『太陽と戦慄』への道のり(第3回)

<1972年末の英国国内ツアー>

1972年10月にドイツでのウォームアップ的な演奏を終えて新生キング・クリムゾンは帰国する。そして、翌11月から12月にかけて英国国内ツアーに突入した。
この英国ツアーは、11月10日のハル・テクニカル・カレッジから12月15日のポーツマス・ギルドホールまで一ヶ月ちょっとの間に27箇所を巡るという相当にタイトなスケジュールだった。
彼らはこの間ほとんど毎日のように演奏を続けたことになる。
フリップはこの時期を振り返って、「魔法のような雰囲気」が漂い「希望と可能性」に満ち溢れていた、と語っている(『レコ・コレ』誌2012年12月号p.77)。メンバーたちにとっては、おそらく緊張と陶酔の日々だったのではなかったろうか。

■ 1972年11月10日 ハル・テクニカル・カレッジ公演(Hull Technical College

『太陽と戦慄 40周年記念ボックス』では、このツアーの初日、11月10日のハル・テクニカル・カレッジ公演が、ディスク4と5に収録されている。
コンサートのコンプリート収録ということもありぜひ聴いてみたいが残念ながら私には聴く方法がない。

このディスクの曲目表によると、アルバム『太陽と旋律』のための新曲6曲と即興曲2曲、そして注目されるのは最後に「21世紀のスキッツォイド・マンTwenty First Century Schizoid Man)」が演奏されていることだ。
ツアー最終日のポーツマス・ギルドホール公演も曲の並びがまったく同じなので、これがこのツアーの固定的なセット・リストだったと思われる。

■ 1972年11月13日 ギルドフォード・シヴィック・ホール公演(Guildford Civic Hall

『40周年記念ボックス』のディスク6に収録されている。内容は『コレクターズ・キング・クリムゾン』シリーズとして既発だ。

上のハル公演の後、ヨークでの公演をはさんで、ツアー3箇所めとなる公演。この音源は、コンサートのコンプリート収録ではなく、一部分のみの収録だ。「太陽と戦慄パート1Larks' Tongues in Aspic, Part One)」、「土曜日の本(Book of Saturday」、「放浪者(Exiles」の3曲と即興が1曲。

『記念ボックス』のディスクの曲目表記が、私の持っている『コレクターズ・…』シリーズ盤より一曲多い。新規の音源かとちょっとどきっとした。しかし、これは「放浪者」の後に収録されていたノンクレジットの即興曲の断片を、あらためて一曲に数えただけと思われる。
というわけでセット・リストト的には不完全な音源だが、音質は『コレクターズ・…』シリーズとしては、非常に良好だ。しかも演奏の内容も素晴らしい。

「太陽と戦慄パート1」は、ズーム・クラブの演奏と同様ヘヴィかつ混沌とした印象。生々しい緊迫感があって、この曲のこの時期のライヴとしては最高の演奏ではないかと思う。

「土曜日の本」は、フリップのアナウンスで、「Dairy Games」と紹介されている。この時期にはまだこのタイトルで呼ばれていたことがわかる。

インプロヴィゼーションは、珍しくメロトロンとリズム隊による怒涛のような音の洪水から始まるパターン。
そのまま前半はリズム隊がリードしてダイナミックな空間を作る。それにのってギターも例のストローク・プレイで何度か爆発。
その後いったんヴァイオリン・ソロによる静かなパートになるが、そこにまたギターが絡んでじわじわと再び盛り上がっていく。メンバーの表現意欲がふつふつとたぎっているような充実した演奏だ。

「放浪者」は録音が途中でぶつっと途切れ、その後に即興曲の断片が入ってCDは終わる。ブートレガーに何か演出意図があったのだろうか。

というわけで現在聴くことのできるこのツアーの演奏の中ではこれが最高のできだと思う。コンサートのコンプリート収録なら最高だったのだが。

■ 1972年11月25日 オックスフォード・ニュー・シアター公演(Oxford New Theatre

『40周年記念ボックス』のディスク7に収録されている。これまでダウンロードのみで流通していた音源とのこと。
私はブートレグで所有している。タイトルは『The Ultimate Live Rarities Volume.2』というもの。ちなみにこれの『…Volume.1』は、下の12月15日のポーツマス公演の音源だ。
このブートの音質は悲しいくらいにお粗末。LPから直接CDに起こしたいわゆる「皿落とし」もの。けっこうスクラッチ・ノイズが入る。あんまり音がひどいので、手に入れたもののあんまり聴いていなかった。

収録の曲目は上のギルドフォード音源と、どういうわけかまったく同じ。「太陽と…パート1」、「土曜日の本」、「放浪者」の3曲と即興1曲。『記念ボックス』のディスク7も曲目が同じなので、このブートと同じ音源なのだろう。どのくらい音は良くなっているのだろうか。

「太陽と戦慄パート1」は、中間部の間奏はいつもより長め。フリップがリズム隊と張り合うように終始細かいフレーズを弾き続ける。全員がもつれ合いながら突進していく壮絶な展開が聴ける。

「土曜日の本」から連続して即興曲へ。これはこれ以前の音源ではなかったつなぎ方だ。即興曲は『記念ボックス』の曲目表記で「Booiean Melody Medley」というタイトルであることがわかった。
最初はギターとヴァイオリンによる素朴で静かなメロディーから始まる。まるで「土曜日の本」の間奏のようだ。というか、これは本当に「土曜日の本」の後半部なのかも。
 やがて中盤、変則エイト・ビートのスペースが延々と続く。ミューアの打ち鳴らす音の断片を浴び、メロトロンの風にゆるゆるとあおられながらのジャム・バンド風展開は、何とも気持ちよい。
その後はテンポを落としてヴァイオリン中心のパートになるのだが、何となく収拾のつかないまま次の「放浪者」へと続いていく。

ツアー開始から2週間。このオックスフォード公演は良くも悪くもかなりこなれた演奏と言えるだろう。

■ 1972年12月1日 グラスゴー・グリーンズ・プレイハウス公演(Glasgow Greens Playhouse

『40周年記念ボックス』のディスク8に収録されている。これまで未発表だった音源。
私はブートレグで所有している。タイトルは『Mad King Crimson』。2枚組で、そのディスク1がこの音源だ。ちなみにディスク2は、下の12月15日のポーツマス公演。だからタイトルの「Mad」は、当然「マッド」なミューアの在籍していたクリムゾンとう意味だろう。

収録曲はこれもコンサートのコンプリートではない。アルバム『太陽と戦慄』収録の最後の2曲を除いた4曲と即興曲が2曲。これも、曲目から見て『記念ボックス』と同音源と思われる。

このブートも音はひどい。オーディエンス録音で、「太陽と…パート1」の中間部などは音がモコモコして何をやっているのかほとんどわからない状態だ。

即興曲「A Viniyl Hobby Job」は 「土曜日の本」から連続していて、しかも前曲の雰囲気を引き継いで始まる。上のオックスフォードのときと同じパターンだ。
ディレイを使った一人多重奏を含むヴァイオリン中心の長い演奏が続く。そこから全員が一丸となって盛り上がっていく中盤は見事。
後半は一転してゆっくりしたリズムになり、そこにメロトロンの無調的なひょろひょろ音が絡んだりして、ちょっと現代音楽的な雰囲気。そこから何となく盛り上がりきらないまま「放浪者」に移っていく。

「イージー・マネー」の中盤の間奏は、メロトロンに乗ったゆったりとした空間で、ほとんど即興演奏の趣(おもむき)だ。

その次の即興曲「Behold! Blond Bedlam」は東洋的な響きで、打楽器も入るがビートは刻まない。弦楽器中心の叙情性を強く感じさせる展開。後のアルバム『暗黒の世界』の「トリオ(Trio)」を思わせる曲だ。
最後の方でほんのちょっとミューアのソロ・パフォーマンスらしき音が聴こえる。

ツアーも後半に入り、毎回違う即興演奏を繰り返す中で、さまざまなインタープレイの形を模索していることが感じられる。

■ 1972年12月15日 ポーツマス・ギルドホール公演(Portsmouth Guildhall

『40周年記念ボックス』のディスク9に収録されている。これもこれまで未発表だった音源。
私はブートレグで所有している。上にも書いたが2種あって、ひとつは、『The Ultimate Live Rarities Volume.1』。もうひとつは、『Mad King Crimson』のディスク2だ。後者の方が少しだけ音質は良い。オーディエンス録音と思われるが、オックスフォードやグラスゴーに比べると、かなりマシな音質。

収録曲はやはりコンプリートではないが、欠落はオープニングの「太陽と戦慄 パート1」一曲のみ(惜しいなあ)。2曲目以降はそのまま収録されている。即興曲2曲と最後に「21世紀のスキッツォイド・マン」が演奏される。

どの曲もほぼ完成形になっていて、この翌月に録音されるスタジオ・ヴァージョンと細かいアレンジまでほぼ同じ形で演奏されている。そのせいもあり、またツアー最終日ということもあるのかもしれないが、「土曜日の本」、「放浪者」、「イージー・マネー」など、どの曲も確信に満ちた演奏というふうに聴こえる。
とくに、「イージー・マネー」の間奏のメロトロンの音などまるで吹きすさぶ嵐のよう。

演奏はこれまでと同様「土曜日の本」から即興曲につながり、そのまま「放浪者」へと間断なく連続している。

即興曲「An Edible Bovine Dynamo」は、打楽器入りの「トリオ」といった感じの叙情性あふれるパートから始まる。その後ミディアムなテンポにのってギターが鳴り続け、どっしりと重戦車が進んでいくような展開。これまでときどきあった一丸となってつんのめっていくようなところはない。

「イージー・マネー」に続く即興曲「Ahoy! Modal Mania」はアブストラクトな現代音楽的展開。ミューアも大活躍だ。終始アグレッシヴで緊張感あふれる刺激的な演奏が続く。
 ツアーを通じて鍛えてきた集団即興演奏の極限の姿といった感じ。

次の「トーキング・ドラム」との間には、ミューアがラッパを吹きながら雄たけびをあげるヘンテコなソロ・パフォーマンスのパートもある。
「太陽と戦慄 パート2」の中盤で聴こえるたぶんミューアの発しているのであろうバンッ、バンッという爆発音(?)が何とも暴力的。

唯一の過去の曲「21世紀の…」は、アルバム『太陽と戦慄』のための新曲と意外なほどに違和感を感じさせない。
ジョン・ウェットンがグレッグ・レイクと同タイプの「大仰系」ヴォーカだからということもあるだろう。ウェットンのヴォーカルは、この曲にぴったりとはまっている。
またビル・ブラッフォードがオリジナル・ドラマーのマイケル・ジャイルスと同タイプのドラマーであるせいもある。二人は、変拍子でスイングする知的で鋭角的なドラミングという点で共通している。

このポーツマス公演は、まさにツアーの最後を締めくくるにふさわしい充実した演奏と言えるだろう。
こうして、怒涛の英国ツアーは終了し、翌月、クリムゾンはいよいよスタジオへ入ったのだった。

このツアーのまとめなどを、次回に書いてみたい。というわけで、次回につづく。

2012年12月20日木曜日

キング・クリムゾン『太陽と戦慄』への道のり(第2回)

<「アイランズ」期の終わりと「太陽と戦慄」期の始まり>

1972年の4月1日、キング・クリムゾンは北米ツアーの終点であるアラバマ州バーミンガムで最終公演を行った。そしてこれを最後に、アイランズ期のクリムゾンは、空中分解のように消滅したのだった。

ロバート・フリップは、さっそく新規のメンバーを探し始める。
そして、3ヶ月後の7月には、新メンバーのラインナップが確定。9月にはそのメンバーでのリハーサルに入っている。
次のアルバム『太陽と戦慄』の録音は、翌年1973年の1月から2月にかけてのこと。それに先立つこの時期、新生クリムゾンはライヴ活動を開始するのだ。
10月にはドイツで数回の演奏を行い、11月から12月にかけては英国国内を巡るツアーを行っている。

このときのライヴ音源を聴くと、9月のリハーサルの時点で、アルバム『太陽と戦慄』の収録曲はもうすべて完成していたことがわかる。さらに何よりも、ロバート・フリップによる新しいクリムゾンのサウンド・コンセプトが、きっちりと固まっていることもわかってくる。
翌年初頭のアルバム制作に向けて、クリムゾンはライヴの場においで新しいコンセプトによる新曲を、いわばぐつぐつと濃縮していったのだった。

今回の『太陽と戦慄 40周年記念ボックス』のライヴ音源部分(ディスク1~9)は、この1972年のリハーサルの後、翌年1月のスタジオでの録音に到るまでのライヴ音源を集成したものだ。
前回書いたように、このボックス・セットの趣旨に沿いながら、しかしあくまでこのボックスは買わずに、手元の音源で代用して、この時期のクリムゾンの足跡を辿ってみたいと思う。
なお、2012年12月号の『レコ・コレ』誌の『太陽と戦慄』特集には「40周年記念ボックス解説」という記事が掲載されている。その中で筆者の石川真一氏により、上記のライヴ音源部分についても要領よくと紹介されている。なので、ここではなるべく私なりの感想にしぼって述べていきたい。

<ドイツでのウォームアップ・ギグ>

■ 1972年10月13日 フランクフルト、ズーム・クラブ(The Zoom ClubFrankfurt

『40周年記念ボックス』のディスク1、2に収録されている。この内容は、『コレクターズ・キング・クリムゾン』シリーズとして既に発売済み。

9月からリハーサルを行っていた新生クリムゾンは、翌10月13日から15日までの3日間、ドイツのフランクフルトにあるズーム・クラブで、初めて人前に姿を現わす。これは、その初日13日の演奏をコンプリートに収録したものとのことだ。

『コレクターズ・…』シリーズ盤のライナーには、ロバート・フリップの記録用の録音とある。しかし、客の声が手前にはっきり聴こえるので、オーディエンス録音のブートレグが元になっているのではないかと思われる。
ちなみに、私は『コレクターズ・…』シリーズ盤の他に、このときのブートレグも持っている。両者は明らかに同音源だ。
この日の『コレクターズ・…』シリーズ盤は、音質が良くないと言われているが、それでもやっぱりブートレグよりは多少ながら音質が向上している。
以下に述べる他の日の音源についても、この『40周年記念ボックス』で、ブートレグよりどの程度音が良くなっているかはかなり気にかかるところだ。

さてアルバム『太陽と戦慄』の曲は、もうこの時点で出来上がっていて、収録曲6曲すべてがこの日のステージで演奏されている。しかもアルバムの曲順のとおりに。
そして、この6曲の合い間に、4曲の即興曲が演奏される。即興曲は曲名の前に「Improv(インプロヴィゼーションの略)」と表記されているものとそうでないものがある。たぶん表記なしのものは、おおまかな構成と展開がある程度事前に決められた上での即興演奏ということなのではないだろうか。ということは、あとの曲はまったく何も決めないでのぞんだ即興と言うことになるわけだが。

セット・リストで特徴的なのは、それ以前のクリムゾンの曲はいっさい演奏していないということだ。過去のクリムゾンと決別しようとするフリップの決意が感じられる。
しかしこの日ズーム・クラブに足を運んだ客たちは、当然以前のクリムゾンの曲を期待していたであろうに。
ただし、この後の11月からはじまる英国ツアーでは、コンサートの最後に「21世紀のスキッツォイド・マンTwenty First Century Schizoid Man)」が演奏されていたようだ。

 それでは気がついたことと感じたことをいくつか。
「太陽と戦慄パート1Larks' Tongues in Aspic, Part One)」は、最終的なスタジオ版より、かなりハードかつヘヴィな演奏。スタジオ版のようにタイトではなく、ゴツゴツとしていて混沌とした感じだが、そこがまた生々しくて魅力的でもある。
この曲はイントロにつづいて、ヴァイオリンによるメイン・テーマ(10拍子)からヘヴィなリフ(7拍子)へという展開が2回繰り返される。この時期の初期ヴァージョンでは、2回目のメインテーマは、ヴァイオリンではなくギターで激しく弾かれていて、その分よりハードな印象が増している。

「土曜日の本(Book of Saturday)」は、ドラムレスのスタジオ版と違ってドラムが入っている。ヴァイオリンの代わりにクロスが吹くフルートが軽快で、全体にフォーキーな味わいだ。

「イージー・マネー(Easy Money)」はヴァイオリンが前面に出たバッキングで、間奏でのヴァイオリンのメジャー系の響きによって、曲の印象はスタジオ版とかなり違っている。

即興曲「Zoom」では、後の「人々の嘆き(Lament)」や「ドクター・ダイアモンド(Doctor Diamond)」といった曲の断片が聴ける。
途中でウェットンのファズ・ベース&ヴォーカル主導のブルース展開になるが、リキみ過ぎでちょっと冗長。この人がこのバンドのロック的側面を担っていたことがよくわかる。
2曲目の即興曲「Zoom Zoom」は、長い演奏で、静かな冒頭から徐々に徐々に盛り上がっていく。メンバーが一体となってメラメラと燃え上がっていくような感じがたまらない。

■ 1972年10月17日 ブレーメン、「ビート・クラブ」スタジオ・ライヴ(Live In he tudioBremen

『40周年記念ボックス』のディスク3に収録されている。内容は『コレクターズ・キング・クリムゾン』シリーズとして既発。

ドイツのTV番組「ビート・クラブ」のためのスタジオ・ライヴ。即興曲1曲と「放浪者(Exiles)」と「太陽と戦慄パート1」の3曲を演奏している。今回の『40周年記念エディション』ではDVDにこの映像版が収録されている。

即興曲のタイトル「The Rich Tapestry Of Life」は、翌年に失踪するミューアがその後にフリップに宛てたはがきに書き付けてあった言葉とのこと(『コレクターズ・…』シリーズ盤のフリップによるライナー・ノーツ)。

この映像には思わず引き込まれてしまう。
映像の主役は、ヴァイオリンを弾くクロスだ。端正な顔立ちと、多彩なヴァイオリン・プレイはたしかにテレビ的には絵になる。
しかし何といっても注目は狂人ジェイミー・ミュ-アだ。毛皮をまとい楽器の間をうろうろと動き回るミュ-アの異様な姿のインパクトは強烈。
また冷静なフリップが、怒涛のストローク・プレイのときに思わず体を浮かしてしまう没入ぶりも印象的だ。

演奏は、各人のテンションは高いが、それがうまく絡み合っていかずに全体としては混沌とした印象。しかし、そこが不思議に魅力的でもある。

ドイツでのギグを終えた新生クリムゾンは、翌月の11月からいよいよ英国国内ツアーに突入する。
長くなってしまったので、以下は次回。

2012年12月17日月曜日

実食「一汁無菜」 「ごはんですよ!」でご飯

今回は「ごはんですよ!」でご飯を食べる。
「ごはんですよ!」は、あらためて言うまでもないだろうけど、桃屋の海苔の佃煮の商品名。
前々回の玉子、前回の納豆に比べると、値段はそれらよりもそれなりに高いのに、微妙に地味なイメージが漂う。
玉子と納豆については、いろいろ自分なりに手間をかけたけれども、ここは初心に帰って、そのもの本来の味をじっくりと味わってみることにした。

ところで海苔の佃煮というのは、今のこの時代にそんなに需要があるものなのだろうか。生活パターンの変化や食事の洋風化などで、ご飯の消費量がどんどん減る一方の昨今。さらに加えて、誰も彼もがダイエットを気にしていて、なるべくご飯は食べないように食べないようにしている。
こんな時代に、ご飯をたくさん食べるための(違う?)海苔の佃煮や、ふりかけがそんなに必要とされているのだろうか。
桃屋は海苔の佃煮を、いろいろな料理の素材として使うレシピを紹介している。パンに塗るなんて食べ方まで勧めている。需要拡大をはかるというより、こんな時代を何とか生き抜こうとする涙ぐましい努力と見えてしまう。

まあこういう時代の事情は置いておくとして、私が海苔の佃煮というものについてどう感じているかといえば…、とくに好きでもないし、かといって嫌いというわけでもない、というところだ。
海苔の佃煮には、おかずとしての期待感がわかない。おかずとしての「華(はな)」がないと言ってもよいだろう。たぶん大半の人は、こんな感じではないのだろうか。

でも何しろ原料は海苔(けっこう高価)だし、それを旨さの王道である甘辛(あまから)味で煮ているわけだから、じっくり味わえば美味しいのはまちがいない。
というわけでスーパーで「ごはんですよ!」を買って来た。海苔の佃煮なら何でもよかったのだが、「ごはんですよでご飯」というタイトルにしたら語呂がいいかな、とつい思ってしまったもので…。
スーパーの棚にはそれなりの幅をとって海苔の佃煮コーナーが設けてあった。ちょっと意外。けっこう買う人がいるらしい。

「ごはんですよ!」は桃屋の海苔の佃煮「江戸むらさき」シリーズの一つだそうで、現在のこのシリーズの基幹商品とのこと。
ただシリーズの他の商品と、どこがどう違うのかは、桃屋のホーム・ページを見てもあまりよくわからない。そういう違いを売りにはしていないのだろうか。
ところでそのホーム・ページによると、この海苔の佃煮は、原料の海苔や製法にそれなりのこだわりがあるとのこと。
桃屋の製品には、ときどきネーミングに独特のオヤジ的なセンスを感じるものがある。この「ごはんですよ!」もそうだし、例の大ヒット商品「辛そうで辛くない少し辛いラー油」なんかもそう。でも今回ホーム・ページを見ていて、あらためてちゃんとしたまじめな会社(?)なんだなという印象を受けた。

では、今回のメニューを紹介。
お米は茨城産の「あきたこまち」。近所のスーパーでこれが一番安かった。
味噌汁の味噌は、「糀(こうじ)屋のみそ」というもの。熊本県水俣市の緒方こうじ屋製。ときどき通販で買っているお味噌だ。やや高いし、送料もかかるけれど、とにかくすごく美味しい。
今日の味噌汁の具材は白菜と油揚げ。
あとは桃屋の「ごはんですよ!」。中びんで145グラム入り。

それでは、実食。
いつものようにご飯を1.5合炊いて、これをお茶碗に四杯で食べることにする。しかし、これだけのご飯を食べるのに、このいかにも地味なおかずだけで飽きないか、ちょっと心配にはなる。まあこの試みは、一つの味をとことん味わいつくすというのが本来の目的なのだが。

ご飯と味噌汁をそれぞれの椀によそう。
テーブルの上には、ご飯茶碗と、汁椀と「ごはんですよ!」のびんのみ。質素を絵に描いたような風景だ。しかし、シンプル・メニューは、逆に私の食欲をそそるのだ。だんだん私の気持はアガッてくる。

まず味噌汁をすすってから、ご飯だけ一口、二口食べてみる。この「あきたこまち」はこの間買ってきたばかり。やはり、コシヒカリに比べるとちょっとネバリ気が足りない。銘柄のせいだけでなく、値段が安いせいもあるのだろう。
いよいよ海苔の佃煮を瓶から箸でひとすくいして、お茶碗のご飯の中ほどに乗せる。佃煮は思ったよりもけっこう粘度がある。ご飯の白と海苔のつやつやした濃い黒が、じつにいいコントラスト。
海苔の佃煮をできるだけご飯の上に広げて、その端の方からご飯と一緒にすくって口に運ぶ。
海苔の風味と濃厚な甘辛味が口の中に広がっていく。思ったより美味しいじゃないの。ただけっこうしょっぱい。保存料を使ってないので、塩分がそれなりに強くしてあるのだろう。
しょっぱいので、ご飯の上で佃煮をさらに細かく散らしつつ少しずつご飯に乗せては食べる。噛んでいると、甘辛の味が口の中でご飯の甘さを引き出してくれる。ご飯が美味しい。これは「ご飯のお供」の優等生と言えるだろう。
おかげでどんどんご飯が進んでいく。

二杯目、三杯目とおかわりするが、意外に佃煮の味に飽きるということはない。味が単調ではなく、豊かで濃厚な風味があるからなのかもしれない。こういうのを本来の「おかず力」というんだろうな。たんにしょっぱいだけでは、ご飯は進むけれども満足感は薄い。
そして難なく四杯目も完食。これでご飯は終了。最後まで、美味しく味わえた。

食べる前後の海苔の佃煮のびんの重さを比較する。食べた量は、21グラムだった。ご飯一杯では約5グラム。
びんに記載の栄養成分値では、一食分を10グラムとしている。たぶんご飯1.5合は2食分くらいではないだろうか。とすると10グラム×2食分で20グラムだから、だいたん標準量どおりに食べたことになる。
この量だと塩分は合計で約1.5グラム。これだけ食べても余裕で許容範囲内ということになる(詳細は省略)。

お腹はちょうどいい具合に満たされている。そして美味しいものを食べたという満足感もある。海苔の佃煮をあらためて見直してしまった。桃屋さんはエラい。
でもやっぱりおかずとしての「華」はないなあ。
「ごはんですよ!」のびんのデザインがカラフルなのは、もしかして明るいイメージにするため?

2012年12月13日木曜日

実食「一汁無菜」 納豆でご飯

今回は納豆でご飯を食べる。
前回の「玉子でご飯」のときにも書いたように、私はご飯に納豆をかけるのは、あんまり好きではない。でも「好きなごはんのお供ランキング」(gooランキング、2011年5月)で、納豆は辛子明太子に続いて第2位。みんな納豆が大好きなのだ。
ということで今回は生玉子に続いて「みんなは大好きだけど、私はあまり好きじゃないので、ちょっとだけ手を加えて食べてみる」シリーズ(?)の第2回目。純粋納豆主義者のみなさんは御容赦を。

私がなぜご飯に納豆をかけるのがいやかというと、それはご飯を汚したくないからだ。ご飯はあくまで白いままで食べたい。
ネットを見ていると、同じようなことを感じている人はたくさんいるようだ。納豆は嫌いではないけれど、ご飯を汚すのがイヤで、納豆だけを別に食べる、という人がかなりの割合でいるらしい。私だけじゃなかったのだ。

しかし、こんなことを口に出すのは非常にはばかられる。何しろ私の住んでいるこの水戸を中心とする一帯は、言わずと知れた「納豆王国」だからだ。納豆を食べる量は全国で一位。その上にこの地方が全国に誇れるアイテムといったら「水戸黄門」とこの納豆くらいしかない。その意味でも納豆様々(さまさま)なのだ。
こんな土地で、もし「納豆はあんまり好きじゃない」なんてことを言ったらたいへんなことになる(…わけないか)。

納豆というのは、言うまでもないが強烈な個性を持った食べ物だ。ねばねばの食感とあの独特の発酵臭。人によって好き嫌いの差が激しいのも当然だ。何とか私が納豆を嫌いにならずに済んだのは、ひとえに「納豆王国」の住人であったからかもしれない。
とところでここで話は少し横道にそれる。「納豆料理」というものについてだ。
「納豆王国」に住んでいるせいで、いろいろな「納豆料理」というものを見聞きしてきたし、また実際に食べてもきた。何しろ当地には納豆料理の専門店まであるくらいだ。
たとえば、納豆チャーハン、納豆オムレツ、納豆の天ぷら、納豆のから揚げ、納豆餃子、納豆カレーなどなど。変わったところでは納豆の酢の物。さらに和え物系として、イカ納豆、タコ納豆、マグロ納豆、キムチ納豆等々とさまざまある。
また、茨城県北部はそばの産地でもあるのだが、この辺のそば屋には、ざるそばのツユに納豆を入れる「納豆そば」といメニューがある。さらに水戸駅のホームの立ち食いそば屋では、かけそばに納豆をのせた「納豆そば」というのも見かけた。
ついでにこれは料理ではないが、お土産品として、納豆飴、納豆せんべい、納豆スナック(うまか棒)なんかもある。

しかしこうした納豆料理についてつねづね感じていることがある。それは、納豆を料理するのは、そもそも無駄なんじゃはないかということだ。
納豆料理が美味しくないというわけではない。そうではなくて、たとえどんなふうに調理しようと、またどんなものと混ぜようと、ひと口食べれば、納豆の味が前面に出てきてしまうからだ。口の中はネバネバになり、あの独特の風味が口いっぱいに広がる。
納豆は個性が強烈過ぎるのだ。他の味はその陰にすっかりかくされてしまう。つまりは何を食べても同じ味。これじゃあ手間をかけても、あんまり意味がないのでは。

納豆料理としてではなくて、納豆単品のときも同じようなことが起こる。何品かあるおかずの中に納豆があると、その納豆を食べたとたん、口の中はネバネバでヌルヌル、ついでに箸もヌルヌル。食事は納豆の味だけになってしまう。
だから、私は納豆がある場合は、食事のいちばん最後に食べることにしているのだ。
納豆の食感というのは、そういう意味で他の食材と協調しない。だから結局、納豆はあくまでそのままで食べるべき、というか食べるしかないものなのだと思う。

納豆についてそんなことを感じている私が、ちょっと興味をそそられる話題が最近あった。今回もラジオなのだが、ちょっと面白いレシピを聴いたのだ。
日曜日の夕方のTBSラジオの番組「食卓応援隊」でのこと(11月25日放送)。この日のゲストの「幸せ料理研究家」相田幸二さんが次のようなレシピを紹介していた。番組のホーム・ページからそのまま引用してみる。

<塩納豆丼>

【作り方】
    熱々ご飯の上に納豆を混ぜずに乗せる
    その上にゴマ油と"こだわりの塩"をお好みの量かける
    ブラックペッパーと白い煎りゴマをかけて出来上がり!

ポイントは絶対に混ぜないこと。
ごはんの上に納豆とゴマ油と塩を乗せてたべること。
ゴマ油の風味を黒胡椒が引き締めて、新たな味わいが口の中に広がります。
納豆が苦手な方にもオススメですよ~! 

引用は以上。

ポイントとして「絶対に混ぜないこと」を強調しているのに注目だ。ネバリとか糸引きをなるべく抑えようという意図がわかる。
ネットで調べてみたらクック・パッドにもほぼ同様のレシピが紹介されていたが、そちらはこれらの材料をよく混ぜ合わせることになっていて、そこが決定的に違っている。

これならご飯の旨ささを損なうことなく納豆を美味しく食べられそうだ。というわけで、さっそく試してみることにした。
勢い込んだ私は、わざわざこのために新しく塩とごま油を買ってきた。いつも使っているものより少し値段が高めのものだ(上のレシピには「こだわりの塩」と書いてあったので)。
しかし、この二つは近所のスーパーでも上を見るとけっこういい値段のものがある。ふだんはあまり注目していないので、そんな「高級品」がスーパーに置いてあることにちょっと驚いた。

では、今回のメニューを紹介。
お米は富山産のコシヒカリ。近所のスーパーで売っていたもの。一番安い茨城産のコシヒカリが売り切れだったので、その次に安かったこれを買った。
味噌汁は、このところおなじみの「無添加・円熟こうじみそ」という名前のもの。長野県下諏訪町のひかり味噌製の信州味噌。近所のスーパーで安売りしていた。
今日の味噌汁の具材は小松菜とお豆腐。
かんじんの納豆は、「天狗納豆 大粒」という名前のもの。天狗納豆と言えば、水戸では有名な納豆メーカー(「総本家」と「水戸元祖」の2社あり)。てっきりそその製品かと思ったら、茨城県土浦市のひげた食品㈱の製品だった。
水戸のメーカーにそっくりな天狗の絵も描いてあって紛らわしい。商標上の問題はないのだろうか。
ちなみに水戸納豆と言えば「小粒」が特徴の一つ。なのに、「大粒」とうたっていて何か変だなあとは思ったのだ。50グラムのパックが2個のセット。当然安売りしていたもの。

塩は「和の豊塩(てしお)」(㈱日本海水製)。国産原料100パーセント使用が売りらしい。いつもはもっと安いものを使っているのだが、上に書いたように、ちょっといいものというつもりで買ってきた。
ごま油は「九鬼純正ヤマ七胡麻油」(三重県四日市市の九鬼産業㈱製)。いつもは「かどやの純正ごま油」を使っているのだが、これよりちょっとだけ値段が高めのものを選んでみた。
瓶のラベルを見ると九鬼産業は創業明治19年を誇っている。ついでに見てみたら、いつもの「純正ごま油」のメーカーであるかどや製油の方は、何とさらに古い安政5年創業とのこと。堂々たる老舗だったのだ。恐れいりました。

それではいよいよ実食。
ご飯は前回と同様に1.5合炊いてそれを二等分する。一回分のご飯は約240グラム。
納豆は40グラムのパックを三つセットにして売っているのが普通だが、今回買ったのは50グラムが2パックのセット。ご飯240グラムに納豆40グラムではちょっと少ないと思ったからだ。これでもまだややさびしい量かもしれない。

ただ前回の玉子のときにも感じたことだが、この場合の「おかず力」は結局、塩加減次第。
例によって事前に塩の分量を決めておこうと思った。前回の学習によると、ご飯のどんぶり一杯分として塩1グラムくらいまでなら許容範囲。
そこで、キッチン・スケールで試しに計ってみたら、1グラムの塩というのは見た目では相当の量だ。こんなにはいらないだろうと思ったので、様子を見て適宜にかけることにする。ごま油も同様に適宜ということに。

今日も前回に使ったちょっと大き目の深型の器をどんぶり代わりに使用する。
この器にご飯を盛りつける。キッチン・スケールで、1.5合のちょうど半分、240グラムをちゃんと計る。
ご飯の表面を平らにならし、そこへ、パックから納豆をあける。パックの形のまますっぽりと四角い納豆をご飯の上にのせるつもりだった。ところが粘り気が強くてパックからはがすようにしないと離れない。ご飯の上にぐずぐずと散った納豆をまん中辺に集める。名前のとおりかなりの大粒納豆だ。
その納豆にまずごま油をたらす。ご飯には直接かからないようにする。ご飯にかかると、たんなる「油めし」になってしまいそうなので。
次にその納豆の上に、塩を指でつまんで三回ほどまわしかけた。
さらにその上に、黒コショウと白ゴマをふりかける。この二つは、多少ご飯にかかっても気にしないでたっぷりとかける。納豆が、コショウとごまにまぶされて見えなくなるくらい。

では食べ始める。味噌汁をひとすすり。
納豆の周囲の白いご飯の部分から箸を入れ、納豆部分をそれにのせようとする。しかし粘り気が強力で、なかなかうまくのらない。
そこで納豆を少しずつほぐしてご飯と一緒に口に運ぶ。
まあ当然だけど、やっぱりこれは納豆だった。
たしかにごま油の風味が効いている。荒挽きの黒コショウと白ゴマの香りと食感が、プチプチ、サクサクとよいアクセントになっている。そして塩にはほのかな旨みを感じる。
でも結局、納豆の風味がそれらに勝ってしまっている。やっぱりこれは納豆ご飯だ。

たぶんごま油は風味を付け加えるだけではなく、納豆の匂いとネバネバをコーティングするはずなのだろう。だが、今回のこの納豆にはかなわなかったようだ。ネバネバに加えて、口の中はベタベタになる。
ただこの油は、ごま油にしては、かなりさらっとしている(少し高級品だからか?)。そして、やっぱり油と塩気のコンビには、ジャンク的な旨さがある。
結局、納豆ご飯の美味しさに、油と塩の旨みを足して食べている感じになった。

いつものようにどんぶり飯のペースはどんどん加速してしまう。何しろ油で口の中は滑らかになっているからなおさらだ。
食べ進んでいくと、やはり納豆が先になくなってしまった。
あとはご飯と器の底のほうごま油が少したまっているだけ。仕方がないので、この「油めし」にコショウをかけて、味噌汁をおかずに食べる。まあ、これもなかなかオツな味ではあるのだが。
ちなみにこちらもTBSラジオ「食卓応援隊」で以前に聞いた話だが、あるシェフが「ご飯のお供」のひとつとして、コショウを挙げていた。ご飯にかけると、ご飯の甘みが引き立つのだとか(私はあんまり感じないけど)。
そうこうしながら一杯目は完食。

さっそく炊飯器から残りのご飯を全部よそって二杯目を作成。
一杯目と同じに作った後、その上に刻みネギを散らしてみる。
納豆とごま油のせいでもたっとしている口の中を、少しでもシャッキリさせたかったのだ。

一杯目を反省して納豆が最後まで足りなくならないよう配分を考えながら食べる。ネギは香りはもちろん、歯応えのシャキシャキ感がなかなかよい。
もちろんご飯と納豆は出来るだけ混ぜないように心掛けているのだが、食べ進むと納豆がご飯の上に散ってしまう。無駄な抵抗はやめて、後半は「かっこむ」ことにする。
そして最後は口の周りまで油で汚しつつ二杯目も完食。

今回の結論。納豆は煮ても焼いても、どう転んでもやっぱり納豆だということ。
とにかく納豆は美味しくいただけた。とくに塩味なので、ストレートに豆の旨さを感じることができた。
ただこの食べ方、ご飯は納豆で汚さなかったものの、結局は油で汚してしまったことになる。まさに「塩油めし」状態。でもそれはそれで美味しかったので、ょしということにしよう。

2012年12月4日火曜日

実食「一汁無菜」 玉子でご飯(後編)

前回紹介した二つのきっかけがあって、今回は二つの方法で玉子かけご飯を食べてみることにした。魯山人風とカルボナーラ風だ。

ご飯はこれまでどおり1.5合。このシリーズでは、いつもならはこれをお茶碗四杯に分けて食べている。しかし、ご飯一杯に玉子一個で、計四個というのではいくら何でも多過ぎる。三個でもちょっと多いような気がする。そこで、玉子は二個ということにした。
したがってご飯は二等分にする。そうすると一回分のご飯は約240グラム。
ちなみに吉野家の牛丼並盛のご飯の量は260グラムとか。それよりはちょっと少ないが、これを玉子一個で食べるのはちょっとさびしいかもしれない。

レンジで加熱するカルボナーラ風玉子かけご飯については、じつは事前に何回か実験を繰り返した。その結果ベストと思われる作り方が次のようなものだ。

〔カルボナーラ風玉子かけご飯のレシピ〕

① 玉子(1個)は黄身と白身に分ける。
② 白身をボールに入れて、箸でよく溶いて出来るだけサラサラにしておく。
③ どんぶりに盛り付けたご飯(240グラム)のまん中にくぼみを作り、そこへ白身をそっと流し入れる。
その白身をくぼみの周りに箸で広げながら表面に近い部分のご飯と軽く混ぜてなじませる。
④ ここへしょう油(小さじ1)をかける。
⑤ この後、どんぶりごと電子レンジに入れて加熱する。
500ワットで30秒ほど(短時間なのでラップは不要)。
⑥ 加熱後、その上に黄身を落とす。
これで完成。

なお、しょう油の量はいくつかのレシピで、ご飯一杯、卵一個につき小さじ1となっていたのでこれに従うことにした。しかし、今回の場合ご飯の量が多いので、このしょう油の量ではもの足りないかもしれない。
塩分的にはしょう油小さじ1は塩分0.9グラム。これを二杯食べるわけだから塩分は合計1.8グラム。みそ汁と合わせて一食で2.8グラム。一日の塩分の基準値は10グラム以下(男性の場合)だから、十分一食分の許容範囲内ということになる。

では、今回のメニューを紹介。
お米は富山産のコシヒカリ。近所のスーパーで売っていたもの。一番安い茨城産のコシヒカリが売り切れだったので、その次に安かったこれを買った。
味噌汁は、前回同様味噌が「無添加・円熟こうじみそ」という名前のもの。長野県下諏訪町のひかり味噌製。いわゆる信州味噌で米味噌。近所のスーパーで安売りしていたものだが、けっこう美味しい。
今日の味噌汁の具材は長ネギと油揚げ。
玉子は やっぱり安売りしていた10個160円くらいのもの。
しょう油はヤマサの「有機丸大豆の吟選しょうゆ」。これもスーパーで安売り。全部安売りばかりだったな。

それではいよいよ実食だ。
まずは魯山人風玉子かけご飯から。
今日はちょっと大き目の深型の器をどんぶり代わりにする。ちょうどいいどんぶりは、去年の地震で割れてしまってないのだ。 
この器にご飯を盛りつける。分量の感じが分らないのでキッチン・スケールでご飯をちゃんと計った。1.5合のちょうど半分は240グラム。
ご飯の表面を平らにならし、さらにお箸で中央に玉子を入れるくぼみを作っておく。

お湯を沸かして沸騰させておいた鍋の火を止めて、お玉にのせた玉子をそっとお湯の中に入れる。玉子はあらかじめ室温に戻しておいたので、入れるのは50秒ほど(冷蔵庫から出したばかりの場合は1分間とのこと)。
引き上げた玉子を、ご飯のくぼみに割り入れた。殻に接していたあたりの白身は熱で少し白っぽくなっている。

箸で玉子をそっと崩し、くぼみの周囲に少しだけ広げる。あんまりご飯と混ぜたくないのだ。
しょう油を玉子の真ん中に注ぐ。ご飯にかかるとそのまま下にしみていってしまいそうだからだ。
上から見るとどんぶりの周囲に白いご飯がそのままあり、玉子があるのは真ん中あたりだけ。このままなるべく混ぜないようにして食べていくことにする。

周囲の白いご飯からまん中にむけて箸を入れる。白いご飯と玉子混じりのご飯を一緒にすくって口に運ぶ。
ふんわりした感じ。黄身がややとろっとしている。白身は混ぜていないのに、箸にのせたご飯から逃げていかない。なるほどなかなかおいしい。
玉子ご飯を白いご飯にのせるようにして食べ続ける。あえて混ぜないので、そのつど味が微妙に違って飽きない。かなり濃厚なねっとり感が口の中に広がる。ときどきすする味噌汁が、ちょうどいい口直しになる。
しかし、どんぶり飯というのは、やっぱりいつの間にか食べるペースが早くなってしまうな。あっという間に残り少なくなる。玉子が先になくなるのがちょっと心配だったが、底の方にしょう油が少したまっていて、この塩気できれいに食べきってしまった。

続いて二杯目。今度はカルボナーラ風玉子かけご飯だ。炊飯器から残りのご飯を全部器によそう。
ご飯の表面を平らにならし、まん中にくぼみを作るのは前と同じだ。
そこへあらかじめ黄身と分けてボールで溶いておいた白身を流し込む。白身はにょろにょろがないように、かなりしつこく切るように混ぜておいた。そうしておかないと、この後ご飯とよくなじまない。
いったんくぼみに収まった白身を、箸で周囲に広げながら表面のご飯と混ぜる。こうしないと、加熱したとき白身がまとまったまま固まってしまうことがある。かといって、ご飯全体と混ぜ合わせてしまうと、ご飯がひとつに固まってしまう心配がある。

それから広げた白身の部分に、しょう油を小さくまわしかける。ご飯にはかけないようにする。こうすると、加熱したときしょう油の香ばしい香りがたつのだ。
先にしょう油を白身と混ぜてしまうとこの香りがしないし、加熱後にかけると香りのたち方が弱い。
なお先に紹介した「たまごソムリエ」の小林さんは、この香りを楽しむためには、先に熱いご飯に直接しょう油をかけることを推奨しているが、私の場合そうするとご飯がべちゃべちゃになるのでいやなのだ。

そして、器ごと電子レンジで30秒加熱する。取り出すとしょう油の香りが香ばしく漂ってくる。白身は部分的にやや白くなりかけているが、全体としてはとろっとした感じになっている。
 ここへ、分けておいた黄身を落とす。そしてそれを箸でそっと割って少し広げる。こうするとご飯も加熱して熱くなっているので、黄身がやや半熟状態になっていくのだ。

これも周囲の白いご飯に、中央の玉子と混じったご飯を乗せるようにして箸ですくいながら口に運ぶ。あつあつで美味しい。黄身がとろっとして、かなり濃厚なコクがある。ちょっと温めるだけで、こんなに豊かで濃厚な風味になるのだなあと感心する。
玉子混じりのご飯をおかずに、白いご飯を食べている感じ。これでしょう油が高級品ならもっともっと美味しいだろうけど…。
どんぶり飯はあいかわらずするすると進んでいく。器の底の方にたまりかけていたしょう油と黄身のしみたご飯を、かき込むようにしてあっという間に二杯目も完食してしまった。美味しかった。
私としては、加熱度が高くてその分とろみの強い二杯目のカルボナーラ風の方がより美味しいと感じた。
とにかく玉子の濃厚でねっとりしたコクをとことん堪能した感じだ。口の中がけっこうべっとりする。でもとにかく満足。