2012年1月13日金曜日

質素倹約と資本主義(!)

「無駄遣いしてはいけません」と言われて育ってきた。「ものは大切にしなさい」と言われて育ってきた。そして「まだ使えるものを捨ててはもったいない」とも言われてきた。
日本人なら誰もみんなそんなふうに言われながら大人になったはずだ。今だってたぶんそうなんでしょう?
他の国のことは知らないけど、ともかくこういう質素倹約の姿勢が「日本の美徳」であることは間違いない。

そんなふうにして培われた私の心の中の価値観。それを逆なでするものがある。他でもない。われわれがその中で生きているところの「資本主義の論理」というやつだ。
「資本主義の論理」は「お金をどんどん使いましょう」と呼びかけてくる。お金を使い、物を買い、それを捨ててまた別の物を買うのが「良いこと」なのだ。そうすれば世の中にお金が回って、景気がよくなり、みんなの給料が増えて幸せになるというわけ。これが「資本主義の論理」である。私がわざわざ言う必要もないけど。

でもこれって質素倹約とどう両立するわけ?そもそも両立するものなの?
「資本主義」側は何とかこの「もったいない」という心の防壁を打ち崩し、日本の人々にお金を使わせよう使わせようとやっきになってきた。まだ使えるものをどうやって捨てさせて、新しいものを買わせるか。
そのキーワードが少し前までは、「地球に優しい」であり、今は「省エネ」だ。より「地球に優しい(CO2排出が少ない)」からとか、「省エネ」だからという口実を与えて、まだ使えるものを捨てる抵抗感(もったいないと思う気持ち)を乗り越えさせようとしているわけだ。
でも、大きい目で見てみよう。いくらCO2の少ない車でも、省エネの製品でも、それを生産するときに莫大なエネルギーを使っているわけだ。それに、だいたいこれまで以上に量産して世の中に出回ったら(現実にそうなっているけど)、結局トータルのCO2やエネルギー消費は増えてるんじゃないの。

資本主義の描く人間の幸福とは、お金があって、何でも必要なものが買える生活である。しかし、資本主義というフォースのダークサイドがそこに口をあけて待ち構えているのだ。
それは、「拝金主義」と「物質主義」だ。
本来生活に必要なものを買うためのものだったはずのお金。それがだんだんお金を手に入れることそのものが目的化していく。稼いでいくらお金が手に入っても満足できなくなる。もっともっと欲しいと思う。
そして「物質主義」。本来精神的なものであるはずの幸福を、物の豊かさで手に入れようとすること。高価なもの、高級なものを買えば幸せになれると思ってしまう。そしてそういう物を買うことそのものが目的になり、やっと買ってもまた次の物が欲しくなる。
これじゃ無限に続く飢餓地獄である。そんなところに、幸せはない。でも、少なくともバブルの頃まで、日本人はみんなこんなふうだった。戦後の早い時期に、日本の人はみんなこのフォースの暗黒面に踏み迷ってしまったのだった。そして、結果あちこちにそのほころびが見えているのが今の日本だ。

程よい生活が大事だ。それはたぶん誰もわかっていることである。しかし、資本主義のタチの悪いところは、収入が増加していくなかで、ほどほどの豊かさの段階と、それ以上の必要のない過剰な豊かさの段階がシームレスにつながっていて、その一線が当事者には判らないことである。振り返ってみてはじめて判る。
『三丁目の夕日』の時代の日本を振り返って、あの頃は幸せだったと思う。あのくらいで十分だったと思う人だっているかもしれない。でも、あの時はわからなかったのだ。もう十分幸せなことに気づかず、もっともっと豊かになりたいと思って、みんながんばっちゃったのだ。

仕事を辞め「専業主夫」となって、まったく無収入の身の上となった。
いやおうなく質素倹約の日常である。でもみじめということはない。どうしようもなく染み付いていた資本主義的な幸福感から解放されたせいでもある。
この間、歩いているときに、はいていたスニーカーの甲の部分と底が分解した。こんなになるまではいたことに、とても満足感を覚えた。
昔から踊らされたくないとは思ってきた。もうお金がないのであんまり踊れないけど。やっぱり「省エネ」だからといって、みだりに家電の買い替えはしないつもりだ。

0 件のコメント:

コメントを投稿