2013年5月24日金曜日

水谷公生 『A PATH THROUGH HAZE』

  今回は水谷公生(みずたに・きみお)のソロ・アルバムについて。一応、これまで何回か書いてきたフード・ブレインのDNAシリーズの番外編ということで。

水谷公生は1970年代初頭の日本の初期のロック・シーンにおいて、スタジオ・ミュージシャンとして数々のセッションに参加し異彩を放ったギタリストだ。
私はこれまで彼の名をまったく知らなかった。しかし、GSのタイガースの大半の曲のギターを弾くなど、歌謡曲の世界でも幅広く活躍していたとのことで、それと知らずに彼のプレイを当時、私も耳にしていたらしい。

そんな私をいきなり驚愕させたのは、柳田ヒロのソロ作『ミルク・タイム』においての水谷のプレイだった。
フード・ブレインのメンバー達のアルバムを辿っていく中で、この柳田の初ソロ作を聴いたのは、じつはつい最近のこと。このアルバムの中で、めぼしい曲と言えば、「RUNNING SHIRTS LONG」とFINGERS OF A RED TYPE-WRITER」の2曲のみなのだが、ここでの水谷のプレイがすごい。

RUNNING…」のソロなど英米のロックの誰にも似ていない独自のスタイルだ。柳田のオルガン・ソロのときのギターのバッキングの入れ方もかなりエキセントリック。
FINGERS OF…」では、スムーズな白熱のソロのあと、ブレイクを挟んでのソロ後半で、一転エフェクトをはずして奇妙にねじれたフレーズで意表をついてくる。まるでフランク・ザッパだと思った。
当時としては珍しくブルースをベースにしていないエキセントリックなスタイルの異能の人という印象を受けたのだった。

田口史人は水谷公生を「70年代初頭の日本で最も歪んだ音を奏でていたギタリスト」と評している(『ロック・クロニクル・ジャパンVol.1』音楽出版社1999年)。
また日本の初期のロックについてマニアックに語った『ジャップ・ロック・サンプラー』で知られるジュリアン・コープは、水谷を「日本のフランク・ザッパ」として高く評価しているとのことだ。

そんな水谷が1971年に発表した唯一のソロ作が、『A PATH THROUGH HAZE』だ。一般的には名盤と言われているようだが、中には「怪盤」と呼ぶ人もいる。
水谷は海外での評価が高く、このアルバムも何年か前に海外でブートレグが出回ったということだ。
水谷に興味を持った私はさっそくこのアルバムを手に入れた。ちなみにユニオンにて、紙ジャケの中古盤で600円也だった。で、実際に聴いてみると、これはやっぱり正直なところ名盤というほどのものではない。中途半端で、全体としてどこを向いているのかわからないところがある。「怪盤」と呼ばれるのもよくわかる気がする。いずれにせよ、いい曲もあるが、今ひとつの曲の方が多くて、結局中身が薄過ぎる。
良かったのは、「TELL ME WHAT YOU SAW」と「ONE FOR JANIS」の2曲くらい。それでも『ミルク・タイム』の2曲にはエキセントリックという点では及ばない。

いくら自身のソロ・アルバムであっても水谷の異能ぶりは、このアルバムだけでは伝わらないだろう。その片鱗は発揮されているとしても。
やはりこの人も当時の日本の初期のロックの担い手たちと同様、優れたプレイヤーではあっても、優れたクリエイターではなかったのだろう。セッション・プレイヤーとして与えられた一定の枠の中で、最高のプレイをすることは出来る。しかし、英米のロック・マスターたちのように、新たな表現の枠組みを作り出すことはしなかったのだ。
水谷は後年、歌謡曲の世界で作曲家・編曲家として活躍することになる。だから、彼がクリエイターではなったというのは、少なくともこのソロ・アルバムの制作時点では、という限定付きの話にしておこう。
ともあれもちろん彼がプレイヤーとして残した最高のプレイの数々は、この後もずっとその素晴らしい輝きを失うことはないだろう。

以下、アルバムについて。

□ 『A PATH THROUGH HAZE』(1971.11

このアルバムには、佐藤允彦、鈴木宏昌、猪俣猛といったバリバリのジャズ畑の人たちが演奏で参加している。加えて佐藤と鈴木は、曲も2曲ずつ提供している。そのためアルバム全体にジャズっぽいテイストがある。いわゆるジャズ・ロックだ。当時の日本の初期のロックが、ブリティッシュ・ハード・ロックをベースにしていた中で、明らかにここで聴ける音は系統が違っている。
ジャズとロックの混ざり具合によっては、一部でハット・フィールド&ノースとかナショナル・ヘルスみたいな英国のカンタベリー系に似た感触の音も聴ける。 
それからアルバム全体の印象としては、ギターの音は歪んでいるが、ジャズ・プレイヤーたちの演奏が端正で、ちょうどフランク・ザッパの『ホット・ラッツ』を思わせるようなところもある。

作曲者としては他に当時ハプニングス・フォーのクニ河内が2曲提供している。これは水谷が一時、ハプニングス・フォーに在籍していた縁からなのだろう。
アルバム・ジャケットの内側の絵もクニ河内が描いていて、この絵はなかなか良い。しかし、彼が提供した2曲は、ひどくつまらない。安っぽい歌謡ポップスといった感じ。

そんな曲もあるせいで、水谷の炸裂する歪んだギターは、アルバムを聴き始めてもなかなか出てこない。
 やっとそんなギターが登場するのが、4曲目の「TELL ME WHAT YOU SAW」。それとかろうじて次の「ONE FOR JANIS」。
そして、もうそれでおしまいなのだ。その後はまたいまひとつの曲が続いてアルバムは終わってしまう。
何とも物足りない内容というしかない。

以下、各曲について。

1 「A PATH THROUGH HAZE

水谷と佐藤允彦の共作によるアルバム・タイトル曲。
地味な曲だ。アルバム全体の序曲ということなのか。と同時にこの曲自体が、曲の中盤に大音量で一瞬だけ登場するディストーション・ギターのための長い序奏と長い後奏とも言える。
いずれにしても、抑えめの演奏で、炸裂するギター・サウンドを期待しているこちらとしては何とも肩透かしのオープニング。

2 「SAIL IN THE SKY

鈴木宏昌の作曲で、ジャズというよりフュージョンぽい曲だ。この時代はまだクロス・オーバーと呼んでいたわけだけど。
クラシカルな前奏に続いて、フュージョン風の軽快なドラムスとエレクトリック・ピアノとフルートのアンサンブル。それに乗って、軽めにディストーションのかかったギターが、ソロを展開する。ギター・ソロはあくまでライトでクールで抑えめ。
ちょうどカンタベリー系の音、たとえばハット・フィールド&ノースとかナショナル・ヘルスにかなり近い感触だ。もっともどちらのバンドもこの時点ではまだ存在していなかったわけだが。
というわけで2曲目になってもまだギターは期待していたように爆発してくれないのだった。

3 「TURNING POINT

これは「歌のない歌謡曲」でしょ。クニ河内作。歌ものっぽいメロディをギターがただなぞっているような感じ。しかもそのメロディが凡庸。取り得のない曲だ。

4 「TELL ME WHAT YOU SAW

4曲目にしてやっと水谷の単独自作曲。そしてやっと彼のギターが爆発する。
ギターとドラムスがかなり執拗に絡むテーマ部がひどく偏執的。いかにもキング・クリムゾン風で、その後の展開に期待が膨らんでくる。
初めと終わりにこのテーマ部があって、それにはさまれて演奏されるインプロヴィゼーション・パートが素晴らしい。
フリー・ジャズっぽい集団即興だ。ギターが引きつったようなフレーズでフリーキーに暴れまくる。ディストーションのかかったベースが唸り、ピアノが沸騰する。
トータル4分52秒。あっという間に終わってしまう。もっと長くやってほしかった。

5 「ONE FOR JANIS

佐藤允彦作。タイトルのジャニスは、ジャニス・ジョプリンのことか。ジャニス・ジョプリンはこのセッションの前年に亡くなったばかり。そう言えばこの曲のテーマは、何となくジャニスの「ムーヴ・オーヴァー」に似ているような似ていないような…。

シンセサイザーでちょっと味付けされているが、ロック・ビートの曲。ジャム・バンド的な展開で、水谷ののた打ち回るギター・ソロを堪能できる。しかし、期待したよじれ具合は今ひとつか。でももっともっと聴きたい。
佐藤允彦のシンセサイザー・ソロは、今の時点で聴くと骨董品。

6 「SABBATH DAY’S SABLE

これもまたクニ河内作の「歌のない歌謡曲」。ストリングス入りのアレンジも歌謡曲的。で、やっぱりメロディがつまらない。こういう曲のせいでアルバム全体の水増し感が増幅。

7 「A BOTTLE OF CODEINE

コデインとは阿片から作った鎮静剤とのこと。
 鈴木宏昌の曲だが、これも「ONE FOR JANIS」同様基本的にロック・ビートの曲。粘っこいミディアムのテンポに乗って這いずり回るようなタメの効いたギターのソロが延々と展開される。が、長いわりに盛り上がらないまま不発に終わってしまう感も。この陰鬱でダウナーな感じが、それなりによいと言えばよいのだが。

8 「WAY OUT

水谷の自作曲。女性のスキャット入りの静かな曲。同じフレーズがぐるぐると繰り返され、これも盛り上がらないまま終わる作り。1曲目のタイトル曲に対応したこのアルバムの終曲という趣向なのか。

〔フード・ブレインのDNA関連記事〕

2013年5月22日水曜日

東京散歩 「懐かしい仮想の東京を歩く」 江戸東京たてもの園訪問

ゴールデン・ウイークの一日、家族と連れ立って小金井公園の中にある江戸東京たてもの園を訪ねた。
江戸東京たてもの園は、都内に建っていた歴史的に貴重だが現地での保存が難しい建築物を、移築・復元して集めた野外展示施設だ。愛知県にある明治村の東京都版と言ったらいいか。
集められた建物は、江戸時代から昭和までのもので、全部で30棟。ここは都立の施設で江戸東京博物館の分館になっている。
私は、神社仏閣などよりも、実際に人が住んでいた昔の家を訪ねて見学するのが好きだ。それで以前からこのたてもの園を訪ねてみたいと思っていたのだ。

JR武蔵小金井駅からバスに乗って小金井街道を北へ進むと、5分ほどで小金井公園の西口に到着。
小金井公園は広々とゆったりしていて、木立も多いきれいな公園だ。昼時なので、まずベンチを見つけてお昼を広げる。さっき駅前の西友で調理パンやお稲荷さんを買い込んできておいたのだ。もうすっかりピクニック気分。お天気のよい公園は、のんびりとのどかで気持がよかった。

少し歩いてたてもの園の入り口に着く。園の入り口になっている建物が、もう光華殿という由緒ある歴史的建造物だ。中に入るとチケットのカウンターやショップがあるが、休日とはいえ混み方はそこそこといった感じ。
建物奥の敷地内への入り口脇には展示室があって、園内に建っている建物の設計図面や建築家の資料などが展示してある。ここで予習をして、いよいよ園の中へ。

園内は思ったより緑が多くて広々としている。「展示」というと何となく展示物がぎっちりと並んでいるような印象を持ってしまうが、このあたりは建物と建物の間にけっこう緑がある。
入り口でいただいた園内マップを見て、まず西ゾーンの方へ歩いていく。

このたてもの園が興味深いところは、ただ古い建物を集めただけではなく、それらを下町と山の手の街並みを再現するように配置してあることだ。西ゾーンが下町、東ゾーンが山の手、そしてその先が武蔵野の農村といった構成になっている。
ちょうど昔の東京をそのままミニチュア化したような配置だ。つまり、昔の東京をテーマにしたテーマ・パークとも言える。そう考えると、何だかちょっとワクワクしてくる。

西ゾーンは、下町中通りという通りが中心にあって、その通りの両側に建物がいろいろと並んでいる。なかなか良い風情。通りの突き当たりには、りっぱな銭湯の建物がある。まずはこの銭湯の中に入る。
この銭湯は、宮崎駿の『千と千尋の神隠し』に出てくる風呂屋のモデルになったとか。あれはたしか道後温泉もモデルにしているはずだけど。
靴を脱いで脱衣場からその奥のタイル張りの浴場まで入れるようになっている。本来は裸で入るところに、服を着て入るのはちょっとだけ違和感を感じる。でもとにかく何だか懐かしい。

銭湯の隣に仕立て屋と居酒屋がある。居酒屋の中は狭いカウンターの前に桶で作った椅子が並んでいて、なかなかいい感じだ。こんなところで飲んでみたいな。
下町中通りをぶらぶらとあっちへ行ったりこっちへ行ったりしながら、建物を一軒ずつのぞいていく。
お醤油&酒屋、宿屋、和傘の問屋、乾物屋、文房具屋、花屋、荒物屋、小間物屋といったお店が並んでいる。
それぞれの建物は外観や内装まで再現してあるのはもちろんだが、そこで売っていた商品まで並べて店内の様子を再現している。

とにかく、どれも懐かしい、というか懐かしいような気がする。
売り場の面積は、どこもそんなに広くない。その売り場の空間を天井の方まで上手に工夫して使って品物を収めている。
それにしても現在に比べたら扱っている品物の種類はすごく少ない。でもこれで人々の生活には十分だったのだろうし、その生活は幸せだったのだろうと思えてくる。今だって、本当はここに並んでいるくらいの品物で十分なのだとも思う。

売り場の裏の居住部分ものぞくことが出来た。お醤油屋や和傘の問屋は、やっぱり金持ちだったらしく、部屋も広いし部屋数も多い。たぶん使用人を使っていたせいもあるのだろう。
しかし、その他の個人商店の居住スペースはどこも狭い。商いをしながらのつましい生活がしのばれた。ここにも『三丁目の夕日』に描かれているような、夢と希望と幸せがあったのだろうな、などと想像してしまう。

その他このゾーンで印象に残ったのは、万世橋交番の建物。小さいながら石造りの立派な造りだ。この構えにはたぶん国家権力を誇示する意図があるのだろうが、それと対照的に中の空間がとにかく狭くて、いかにも窮屈。ここで任務を果たしていたおまわりさんはお気の毒でした。

そこから木々の間を抜けながら、高橋是清邸(2.26事件の暗殺現場!)や、まるでミニ日光東照宮のような旧自証院霊屋などを巡る。
そして今度は東ゾーンの山の手通りへ。ここには、写真館の他、有名無名の個人の邸宅が並んでいる。それぞれその中に上がって見学ができる。靴を脱いだり履いたりしながら順番に見てまわった。
蔵も併設された財閥三井家のお屋敷はさすがに豪邸。さっき見てきた高橋是清邸も立派な邸宅だった。しかし結局いちばん印象的で、住んでみたいなと思ったのは、そんな豪邸ではなく、もっと小さな家だ。
中でも、建築家前川國男の自邸と「田園調布の家」と呼ばれている家が良かった。けっして広くはないが、センスが感じられて、住んでいて心地よさそうだ。しかし、こういう家をきれいに住みこなすには、そこに住む人の暮らし方にもセンスが求められるんだろうな。私は大丈夫かな、ちょっと自信がない。

くたびれてきたので、デ・ラランデ邸を見学したところで、その中にある武蔵野茶房というお店で休憩することにする。
デ・ラランデ邸は、デ・ラランデというドイツ人建築家の洋館で、今年の4月20日から公開されたばかり。そのせいもあってか、けっこう混んでいる。
こんな貴重な建物の中で、お茶なんて飲んでいいのだろうかと思いつつコーヒーを注文。オープン直後で段取りがよくないのか、出てくるまでだいぶ待たされたが、おかげでゆっくりと座って休憩することが出来た。

休憩後、山の手エリアのさらに先にある武蔵野の農家を見てまわる。どれも立派な造りだ。茅葺で、土間があって、上がると広い畳の部屋がいくつもつながっている。こんなに立派ではなかったが、私が子供の頃、何度か泊まった祖父の家を思い出して懐かしかった。
しかし、日本人はこういう暮らし方がイヤで、洋風の快適な暮らしにあこがれた。そしてその結果、現在のような家の形になったわけだ。だから、今さらこんな暮らしもいいなんてのんきに言ってはいけないような気もする。

こうして園内を巡り終える。ゆっくりと半日かけて、懐かしい昔の日本を堪能することが出来た。昔の人々の地味で慎ましい暮らしにぶりを肌で感じて、自分の生活を振り返るよい機会にもなったような気がする。
ともかく家族と過ごした楽しい連休の一日だった。

2013年5月20日月曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製らーめん」+「バター」 2013

すがすがしい陽気に誘われて、ラーメンを食べに水戸に出かけた。前回からほぼ一ヶ月ぶりの「つけ麺 坊主」さん訪問。今月になってからは、これが初めてだ。先月は、3回も行ったのにね。じつはこの間に一度寄ってみたのだったが、あいにくの休店日だった。

土曜日の午前11時10分に入店。すると先客が5人もいる。その内カウンターに座っている人が2人で、あとの3人は券売機の前に並んでいる。この人たちは、みんな11時の開店に合わせ、このお店を目指して来たのだろう。つまりこのお店のファン。本当に人気があるなあ。

券売機の順番が回ってきて、例によって「特製らーめん」と「白めし」と「ビール」、そして今日はトッピングに「バター」のボタンを押す。
出てきた食券を取って店内を見回すと、カウンターの両はじはすでにふさがっていた。今私の前で食券を買った人たちは、知り合いでもないのに端から順に間をおかずに詰めて座っている。マニアだな。混むお店のマナーを心得ている。間をおいて座ると、後からグループで来た客が一緒に座れなくなる。だからラーメン・マニアは端から詰めて座るのだ。
しかし、私は後客はまだそんなに来ないだろうとたかをくくり詰めずにカウンターのコーナー付近に座る。結局、後客は6人だった。

いつものように「麺とめしは普通盛りで」とお願いする。ビールがすぐ来る。ありがたい。厨房はまだ一人目の注文を作っている途中のようで、これは自分のが出てくるまで、けっこう時間がかかるぞと覚悟する。まあ、ビールがあれば大丈夫なのだが。

前回からトッピング全種類制覇シリーズというのを始めた。これは、私の定番メニューである「特製らーめん」と組み合わせて、このお店のトッピング・メニューを全部食べてやろうというもの。今日は、その2回目だ。
前回のトッピングは「ネギ」だったが、今日は「バター」にした。この順番に意味はない。券売機のトッピングの列のボタンを、左から順に攻めているだけだ。

25分ほどで、特製らーめんが到着。相変わらずどんぶり中央にもやしと豚肉と刻みネギの小山が、こんもりと盛り上がっている。一ヶ月ぶりのその姿にちょっと感激。小山の隣には、一辺が2.5センチはありそうなサイコロ型のバターが、ごろんと転がっている。
何はともあれレンゲでスープをすくって飲む。今日は全体にいつもよりあっさりした感じ。甘さ、脂、コク、いずれもあっさり気味なのだ。偶然だけど今日バターを頼んだのは大正解だったことになる。

そのままスープを飲む。ひたすら飲み続ける。旨いなあ。
しばらくして一息ついたところで、ご飯を口へ運ぶ。ご飯も旨い。それからまたスープ。スープの水面がかなり低下したころ、やっと人心地が付く。
そこで本日の針を確認。最近いつも辛さが多少物足りないのだが、今日は久しぶりでもあるので、卓上の唐辛子の追加はしないことにする。
それから、トッピングのバターは、自然に溶けるのに任せ、あえていっさい手を触れないこととする。混ぜると味が一様になってつまらないからだ。

さてスープを堪能したので、いよいよ麺に取り掛かる。中央のもやしやネギの山を崩して周囲に散らす。そして真ん中付近を掘り返し、下の方から麺を引き出して口へ。熱っ。旨っ。辛っ。
今度はひたすらまん中の穴から麺を食べる。具材はあえてよけて、麺だけを食べ続ける。スープの味も強いけれど、この麺の存在感もかなり強いとあらためて思う。

だんだん辛くなってきて、例によって鼻水をかむのに忙しくなる。しかし、汗はあまり出ない。
麺だけを食べ続けていると、ときおり少しずつ溶け出してきたバターが麺に絡んできて、マイルドかつリッチな風味が加わる。その風味が残る口の中へ、ときどきご飯を入れる。脂とご飯の組み合わせもかなりよい。ご飯が進む。
そろそろこの辺から、もやしや豚肉も麺とあわせて食べることにする。スープと麺と具材たちに、じわじわと溶け出してきたバターが絡んで、何とも言えないぜいたくな気分になる。

後から来た客は、つけ麺だったので私より先に食べ終わって出でていった。ラーメン系は、熱いので時間がかかる。でもその分長く美味しい時間を堪能できるのでうれしい。
じっくりと楽しんでいるうちに、やがてご飯が先になくなり、最後にスープをゆっくりと飲み干して幸せな時間は終わる。満腹&満足だ。
唐辛子の追加投入はしなかったのだが、まあまあ辛かった。しかし、辛さのために我を忘れるというほどではなくて、その点がちょっと残念だ。ごちそうさま。

店を出たあと、五月の晴天の下、千波湖をぶらぶら一回り散歩してから帰った。

2013年5月18日土曜日

公園日記 「新宿御苑」

ゴールデン・ウイーク後半の5月4日に新宿御苑に散歩に出かけた。
ここを訪ねるのはこれで2度目。新宿にはよく行くのに、この公園はなかなか訪ねる機会がなかった。そのうちゆっくり歩いてみたいとずっと思っていたのだ。

新宿三丁目の駅を降りて新宿通りを四谷方面に1ブロックほど歩き、画材の世界堂の角を右に曲がる。すると、もうその先に新宿御苑の一画が見えている。そちらに向って歩いている人もけっこういる。
新宿門から園内に入った。知らなかったが今日はみどりの日なので、入園料(200円)は無料とのこと。ちょっと得した気分になる。
時間はお昼ちょっと前。やはり休日なので、ゲート付近はかなりにぎわっている。
とりあえず園内をぐるりと一周してみようと思い、門からそのまま左方向へぶらぶら歩いていく。樹木の数が多くて、密に植えてある。さっきまで都会の真ん中を歩いていたのに、急に深い森の中に入ったような感じだ。

歩き出してすぐに、そういえば園内に貴重な洋館があることを思い出した。私は洋館を見るのが好きで、あちこち見て回っている。しかし、今日は事前によく調べてきていなかった。うろ覚えだが、その洋館はたしか昔の休憩所の建物だったような記憶がある。
そこで園内のマップを見て、「中央休憩所」と書いてあるのがそれではないかと思った。マップを頼りに木々の間を抜け、レストランの前を通り、翔天亭という茶室のわきを抜けて、そこにたどり着く。しかしそれはコンクリートの本当の休憩所。洋館などでは全然ない。あらためてマップをよく見てみると、「旧洋館御休所」というのがちゃんと別にある。早とちりだった。

しかし、この中央休憩所の前はじつに気持の良い一画だった。緩やかな起伏があるのがいい。そこに木立と芝生がほどよく配されている。奥には日本庭園の池と深い林が見える。芝生のそこここにシートを広げて幾組もの人々がのんびりと座っている。いかにもゆったりとした時間が流れていた。

洋館をめざしてそこから北の方向へ歩いていく。途中イギリス風景式庭園というのを横切った。高い木々に囲まれて芝生が広々と広がっている。まあ、ただそれだけの場所だ。だから最初そこがイギリス式の庭園とは思わなかった。しかし、マップをよく見ると「イギリス式」ではなく「イギリス風景式」と書いてある。なるほど、これがイギリス風景なのかと納得がいく。
ここにも広々とした芝生の上にシートを広げて座っている人たちがたくさんいる。しかし、かなりの広さなので、混みあっている感じはない。

そして目的の「旧洋館御休所」に無事到着。
ここも今日は無料で公開しているとのこと。うれしい。
この建物は、昔この公園が皇室の庭園だった時代に、皇族方が休憩する場所として建てられたものとのことで、現在は重要文化財に指定されている。
靴を脱いで上がり、中をひとわたり見学する。タイル張りのバスルームが幾つもある。内部の細かい造りや装飾に、ここを利用した当時の人々の息遣いを感じる。これが洋館ウォッチの醍醐味だ。

洋館に漂う雰囲気を十分に味わって外に出ると、先のほうにガラス張りの大きな現代的な建物が見える。あれは温室らしい。ついでにこれも見ていくことにする。
近づいていくと、総ガラス張りで曲線を生かした超現代的なピカピカの建物だ。中に入ると温かい地方の植物がぎっしり植えられている。
私は、洋館に加えて温室とか水族館も好きなのだ。べつに熱帯の植物や魚に特別の興味があるわけではない。そのワクワクするような雰囲気が好きなのだ。
この温室の建物は、外も中も新品なので帰ってから調べてみたら、長らくの休館のあと、昨年の11月にリニューアル・オープンしたばかりとのこと。ちっとも知らなかった。
よく整備されていて、池があったり滝があったりと中の順路もよく出来ている。建物の外に細長い堤を作って、内側から見える景観もうまく整えてあった。
ここの内部の空間の仕切りの壁がちょっと変わっている。鉄筋のような金属を荒い格子状に組んで壁の表面を作り、その中に石を入れているのだ。モダンでしかも自然な感じがいい。
 ゆっくり南方の植物を堪能して外へ出る。

温室を出たところで、隣を歩いていたグループから「バラを見に行こうよ」という声が聴こえてきた。園内にバラの咲いているところがあるらしい。マップを見ると、一番奥のフランス式整形庭園というというところにバラの花壇があることがわかる。

そこへ向って大木戸休憩所から玉藻池を渡る。暗い木立の間を抜けると急に大きく空間が開けた。そこにプラタナスの並木にはさまれて広大なフランス式整形庭園があった。幾何学的に整形された庭園の周囲が、バラの花壇になっている。
ぐるっと一周しながら見て回る。いろいろな品種のバラが植えてあったが、時期的にはまだちょっと早い感じだった。それでも早咲きのものは満開に近い状態で、その前には人が集まっていた。

そこから南側の日本庭園に入り、長く続いている池のほとりを歩いていく。木立が深くて、日陰に入るとちょっと涼しいくらいだ。
池のほとりにある中国風の旧御涼亭から景色を眺めた。この向かい側に、さっきまちがえた中央休憩所がある。先ほどよりさらに芝生の人が増えている。
そこを出たところにある藤棚の前のベンチで少し休憩した。

そして、樹木の間をくぐって、再び入ってきた新宿門に戻った。約一時間半の気持の良い散歩だった。洋館から温室、そしてバラ園と行き当たりばったりだったけれど、そこがまた楽しかった。そして何より、広々とした空間でみんながのんびりと過ごしている。この何とも平和で穏やかな雰囲気がよかった。

公園を出て新宿3丁目の交差点辺りまで来ると、街はいつものように人の波であふれていた。やっぱり休日は公園に限るな。

2013年5月10日金曜日

フライド・エッグ 『グッバイ・フライド・エッグ』

今回も前回に続いてフライド・エッグのお話。今回は、彼らのセカンド・アルバムにしてラスト・アルバムの『グッバイ・フライド・エッグ』について。

1971年8月の野外フェス<箱根アフロディーテ>への出演を機に、成毛滋、角田ヒロ、高中正義の三人はフライド・エッグを結成。翌1972年の4月にファースト・アルバムフ『Dr.シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』をリリースする。このアルバムについては、前回に取り上げた。

フライド・エッグはその後、5月から6月にかけて京都、大阪、東京、名古屋の4ヶ所を巡るコンサート・ツアーを行い成功をおさめた。
『ミュージック・ライフ』誌の1972年度の人気投票を見ても、当時の彼らの人気の高さが窺える。
グループ部門でフライド・エッグは第5位(ちなみに第1位はモップス)。ギタリスト部門で成毛が第1位(ちなみに陳信輝は第5位)、成毛はキーボード部門でも第3位に入っている。そしてドラマー部門で角田が第1位。なお高中はベーシスト部門の5位までには入っていない。
ついでにフライド・エッグ解散後の同誌1973年度の人気投票でも、成毛のギタリスト部門1位と角田のドラマー部門1位は変わっていない。さらに成毛はキーボード部門で前年の第3位から第2位に上昇、またベーシスト第6位には高中の名前も見える。

まさに、フライド・エッグは勢いに乗っているように見えた。
『グッバイ・フライド・エッグ』のライナーによると、上のフライド・エッグのツアーは、PAシステムを完備していた点で、当時としては画期的なものだったという。しかし機材はもちろん、そのためのスタッフも同行させる必要があり、経済的にはまったくの赤字だったらしい。
そうした経済的な問題に加えて、人気の高まりとともにメンバー各人が独自の道を目指し始めたこともあったようで、結局バンドは解散を迎えることになる。結成から約1年間の活動だった。そして解散ライヴを9月19日に日比谷野音で開催したのだった。

バンド解散後のこの年の12月にラスト・アルバム『グッバイ・フライド・エッグ』が発売された。内容は、9月の解散ライヴの音源とスタジオ録音の音源を片面ずつに配したものだ。
このタイトルといいライヴとスタジオの音源をあわせた構成といい、何だかクリームのラスト・アルバム『グッバイ・クリーム(原題 Goodbye』(1969年)をそっくりなぞった感じだ。何もそこまでマネしなくても…。
ともあれこのアルバムでフライド・エッグの怒涛のライヴが聴けるのはうれしい。成毛と角田のパフォーマーとしての素晴らしさが、生の形で記録されている。それに比べると、スタジオ・サイドの曲はどれもショボイ。一枚丸ごとライヴというわけにはいかなかったのだろうか。
しかし、このアルバムでのライヴとスタジオ曲の出来ばえの落差が、おのずと彼らのミュージシャンとしての限界を示しているとも言える。すなわち、プレイヤーとしては最高、でもクリエイターとしてはいまひとつということだ。

当時ギタリストとして絶大な人気を誇った成毛滋だったが、結局オフィシャルな形で制作したアルバムは、ストロベリー・パスの1枚とフライド・エッグの2枚の計3枚のみだったことになる(何枚か出た「ソロ・アルバム」には当人は関知していないという)。何とも物足りない。
そんな音源の少なさもあり、また前回述べたように、あきらかに漂う英米ロックのモノマネっぽさのせいもあるのだろう、現在における成毛の評価はそれほど高くないように見える。
たとえば、『レコード・コレクターズ』誌2013年1月号の「ニッポンのギタリスト名鑑」特集でも、3段階に分かれている取り上げ方の中で、成毛はいちばん下のランクだ。ブルース・クリエイションの竹田和夫やフラワー・トラヴェリング・バンドの石間英機が、そのひとつ上のランクで扱われていて、彼らより成毛は下の扱いだ。当時の人気とは完全に逆転していることになる。ちょっとさみしい話だ。

さてフライド・エッグ解散後、成毛は再び渡英。角田と高中は、加藤和彦のサディスティック・ミカ・バンドの結成に加わっている(角田はすぐ脱退した)。

フライド・エッグの解散と、そしてもうひとつのバンド、ブルース・クリエイションの同時期の解散をもって、初期の日本のロックのある一つの流れは消滅したのだった。
その流れとは、本場の英米のロックに、ひたすら真正面から憧れ、自分の手で愚直にそれを再現しようとしたシリアスで硬派な人たちだ。この人たちはあまりに愚直過ぎて、歌詞まで英語で歌ってしまったのだった。でもそのようなストレートな憧れ方に、私は共感を覚えるのだ。
近年このような日本のロックを指して「ニュー・ロック」というタームが使われているらしい。私はこの使い方に非常な違和感がある。だって、もともとこの言葉は、当時の日本の人たちが真似した英米のロックそのものを指していたはず。それを日本のロックを限定的に指す意味で使うのは本末転倒だからだ。時代は変わったのか。

これ以後の日本のロックは、もっと身近な感覚を、オシャレで気が利いた形で表現するものへと変質していく。もうそれは本当はロックとは言えない。吉田拓郎や荒井由美や井上陽水やキャロルやサディスティック・ミカ・バンドの時代になっていくのだ。
その意味で、フライド・エッグの角田と高中が、サディスティック・ミカ・バンドに移ったことは、そんな時代の変わり目を象徴するような出来事のように見える。

フード・ブレインから始まって、そのDNAを辿りながら初期の日本のロックについて書いてきた。しかしいよいよそれも今回でおしまい。そのDNAは、ここで消滅してしまったからだ。
ところで英国のロック・ミュージシャン、ジュリアン・コ-プの書いた『ジャップ・ロック・サンプラー』を読んでみたいと思っている。
日本人も知らないような日本のロックの奥の細道をマニアックに辿った奇書だという。英米のロックに憧れて作られた日本のロックに、モノマネというだけではないどんな独自の価値を彼が見つけたのか、ちょっと気になる。

以下アルバムについて。

□ フライド・エッグ『グッバイ・フライド・エッグ』(1,97212

A面がライヴ、B面がスタジオ録音という構成のアルバム。
ジャケットのデザインは、モノトーンのタイトル文字だけ。表裏のポジネガの対比は、ライヴとスタジオという内容に対応しているのか。しかし、これまでの凝ったジャケットに比べると、シンプルというより何となく投げやりな印象。もう解散だからどうでもいいやってことなのかも。

ライヴとスタジオという構成自体は、そんなに珍しくはない。クリームの『グッバイ・クリーム』とか、マウンテンの『悪の華』などがそうだし、2枚組だがクリームの『ホイールズ・オブ・ファイア』や、当時出たばかりだったオールマン・ブラザース・バンドの『イート・ア・ピーチ』なんかもこの仲間に入るかもしれない。
フライド・エッグは、この内あきらかにクリームのラスト・アルバム『グッバイ・クリーム』を意識していると思われる。タイトルと構成の点で。

ライヴ・サイドは1972年9月19日に日比谷野音で行われた解散ライヴからの4曲。曲の内訳はストロベリー・パス時代の『大烏が地球にやって来た日』から2曲、フライド・エッグになってからの前作『Dr.シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』から1曲、そしてB..キングのカヴァー1曲。リリースしたばかりの前作からの曲が少ないのがちょっと不思議。

冒頭、バンドを紹介するMCが英語だ。「レディース・アンド・ジェントルメン…」ときた。当時のライヴは、みんなこんな調子だった。客は日本人ばかりなのに、カッコつけてるわけだ。何とも懐かしく、そして恥ずかしい。

それはともかく怒涛の熱いステージの様子が伝わってくる。スタジオ作だと、音を重ねたりして凝ったつくりになっていたが、ここではシンプルに各人のプレイを堪能できるのがうれしい。もっと他の曲も聴きたかった。

これに対してスタジオ・サイドは、どれも曲の出来が良くない。成毛作の2曲、角田作1曲、高中作1曲という内訳。
B面1曲目の成毛作は性懲りもなくまた柳譲治(柳ジョージ)の一本調子ヴォーカル曲。2曲目は高中作のキング・クリムゾン「エピタフ」モロ似。3曲目の角田作は、例によってのバラード凡作。ラストの成毛作が大仰なだけの大作。といった具合。

こうしてライヴ音源とスタジオ曲が並ぶと、彼らがいかにプレイヤーとして優れているか、そしていかに作曲者、クリエイターとしてイマイチであるかが際立ってしまう。

ところで、スタジオ音源の方ははっきりした録音データがないらしく、そのためこれまでの録音のアウト・テイクと考えられているらしい。しかしライナーで田口史人は、それを否定しその完成度の高さから、このアルバムのための新録ではないかと推定している。

しかし、私はやはり旧録のアウト・テイクの可能性も高いと思う。
B面1曲目「ビフォア・ユー・ディセント」は柳譲治が参加しているから、ストロベリー・パスの『大烏が…』のセッションのあまりかもしれない。
B面の残り3曲は前作『Dr.シーゲルの…』にそれぞれ同傾向の曲がある。
高中の「アウト・トゥー・ザ・シー」は、「エピタフ」似という点で前作の「プウラスティック・ファンタジー」とかぶる。角田の「グッドバイ・マイ・フレンド」も、前作のバラードとかぶる。そしてまた成毛のラスト曲「…シンフォニー」は、やっぱり大仰な曲調という点で前作の「ガイド・ミー・トゥー・ザ・クワイエットネス」とかぶっている。
前作の収録曲に似ているということから、これらの曲が前作のセッションのときに録音されたが、アウト・テイクになったという可能性も考えられるのではないだろうか。何しろ前作は制作に3ヶ月もかけたのだから、たくさんのアウト・テイクがあってもおかしくないはずだし…。

以下、各曲について。

1 「リーブ・ミー・ウーマン(LEAVE ME WOMAN)」

ストロベリー・パス時代の『大烏が地球にやって来た日』収録曲。
オリジナルのスタジオ版は、オルガンも入っているわりに、コンパクトにまとまっていて地味な感じだった。が、このライヴ・ヴァージョンでは、よりヘヴィでかつスピード感もアップして見違えるような出来だ。
ラスト付近のギター・ソロやドラムスのフィル・インなどツェッペリンっぽくて好きだ。

2 「ローリング・ダウン・ザ・ブロードウェイ(ROLLING DOWN THE BROADWAY)」

前作『Dr.シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』からの曲。
スタジオ版は、多重録音でぶ厚いサウンドをだしていたが、このライヴではオルガン抜きでも十分厚くてヘヴィな音になっている。リズムに、スタジオ版にはなかったうねり感があるのもいい。
ギター・ソロは、スタジオ版でじゃまだったサイド・ギターがない分たっぷり楽しめるかと思いきや、意外と短い上にやっぱりハイトーンのコーラスがかぶさってきて今ひとつ。

3 「ロック・ミー・ベイビー(ROCK ME BABY)」

..キングの曲だが、1967年のモンタレー・ポップ フェスティバル'でジミ・ヘンドリックスがカヴァーしていたことでも知られる。近年、エリック・クラプトンも本家B..キングとの競演でこの曲を吹き込んでいた。
モンタレーでのジミ・ヘンは例によってヘヴィな爆走サウンドでの演奏。ここでのフライド・エッグは、オリジナルのB..キングとも、ジミ・ヘンのアレンジとも違うブリティッシュ風のハードなロックン・ロールだ。

角田の歌う歌詞は「ロック・ミー・ベイビー(またはハネー)、ロック・ミー・オールナイト・ロング」だけで、あとの歌詞は全部省略している。ジミ・ヘンもかなり省略して歌っていたから、この点はジミ・ヘンにならったか。

4 「ファイブ・モア・ペニー(FIVE MORE PENI)」

これもストロベリー・パス時代の『大烏が…』からの曲。ギターのソロの前に、ベースとドラムスのソロ・パートもはさまって、オリジナルの2倍の長尺の演奏だ。
ただし、ベースとドラムスのソロというものは、本来余興みたいなもの。実際ここで聴ける二人のソロ・プレイもまあそれなりだ。

高中のベース・ソロの終盤では、グランド・ファンク・レイルロードの「Got This Thing on the Move」(1969年のセカンド・アルバム『グランド・ファンク』に収録)で、メル・サッチャーが弾いているベース・ラインが引用されている。たぶんこれが、ドラムスにソロをわたす合図なっているようだ。

ドラムソロに続いて始まるギター・ソロはスタジオ版と同様前半が無伴奏で、そのあとベースとドラムが入ってバンド・サウンドでのソロになる。
無伴奏パートの中ほどでは、ジミ・ヘンドリックスの「ヴードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」(『エレクトリック・レディランド』に収録)のイントロのフレーズが繰り返されている。
ちなみにこのフレーズはウッド・ストック・フェスのオムニバス・アルバムでも聴くことができる。
このオムニバスに収録されているジミ・ヘンの曲は、あの有名な「スター・スパングルド・バナー(星条旗)」と「パープル・ヘイズ(紫のけむり)」の2曲のみだ。しかし、「スター・スパングルド…」は、実際のステージで直前に演奏された「ヴードゥー・チャイルド(スライト・リターン)」のアウトロ部分から収録されていて、そこでこのフレーズが弾かれている。ちょうど「スター・スパングルド…」のイントロのようにも聴こえて、とても印象的だった。
ウッド・ストック・フェスの現場にいた成毛にとって、ジミ・ヘンのステージは見なかったにしても、このメロディはとりわけ思い入れの深いフレーズだったのではないか。

そのあとギターはワウを効かせた早弾きのメロディになるが、ここは何かクラシックの元ネタがあるのかもしれない。

ソロ後半のベースとドラムスがバックに入ってのギターのソロは、スタジオ版同様切れ味鋭いシャープな展開で素晴らしい。このアルバムのハイライトと言えるだろう。

5 「ビフォア・ユー・ディセント(BEFORE YOU DESCENT)」

ヴォーカルがなぜかまた柳譲治。例によって平板なヴォーカルだし、曲そのものもつまらない。

6 「アウト・トゥー・ザ・シー(OUT TO THE SEA)」

これは誰がどう聴いてもキング・クリムゾンの「エピタフ」でしょう。高中が弾くギターの音色、リズム、アコースティック・ギターの使用、アレンジ、…みんな似ている。
同じく高中作の前作収録「プラスティック・ファンタジー 」も「エピタフ」に似ていたけれど、こちらはさらにもっと似ている。若き高中君はよっぽどこの曲が好きだったのか。

歌詞の中に「クリムゾン」ていう言葉が出てくるから、公然とマネしているわけで 一種のシャレというかパロディなのか、はたまたオマージュなのか。ただし曲の出来はたいしたものではない。

7 「グッドバイ・マイ・フレンド(GOODBYE MY FRIENDS)」

角田はドラムスはパワフルなのに、根はこういうせつないバラード志向の人らしい。早くもマンネリ化したのか、これはかなり平凡。

8 「521秒間の分裂症的シンフォニー (521 SECONDS SCHIZOPHRENIC SYMPHONY)」

いかにも成毛が好きそうな4つのパートからなるプログレ的展開の曲。キーボード中心の音の壁で壮大に盛り上げる。しかし大仰なだけで中身がない。ちょうどロジャー・ウォーターズ抜きのピンク・フロイドみたいな感じだ。

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