2013年3月25日月曜日

豆腐丸ごと一丁丼

「豆腐丸ごと一丁丼」というものがある。名前からして何とも豪快である。漫画家でエッセイストの東海林さだお氏がエッセイの中で紹介している丼である。その文章はその名も「豆腐丸ごと一丁丼」(『ホルモン焼きの丸かじり』朝日新聞出版 2009年)。
東海林氏は次のようにこの食べ物を描写している。
「飴色に染まって、いかにもようく味がしみ込んでいそうな丸々一丁の豆腐が、ずしんと丼のゴハンの上にのっかっている」

これは日本橋にあるおでんの老舗「お多幸本店」の名物メニューだそうだ。それがグルメ雑誌の丼物特集のグラビアで紹介された。東海林氏はそのいかにも旨そうな姿を見てどうしてもこれを食べたくなり、自分で作ってしまったのだという。店に食べに行かないで、自分で作ってしまうというところがいい。

それにしてもこのグラビアを見たときの東海林氏の感想が例によって可笑しくも素晴らしい。東海林氏はこう書いている。
「異様であり、素朴であり、存在感があり、迫力があって、しかし見ているとつい笑ってしまうという丼」
さらに一丁の豆腐が丼の上に少しはみ出すようにのっている様子を見て次のようにも語る。
「ただそれだけの丼なのだが、“ただそれだけ”というところがおかしい。(中略) “はみ出している”というところもおかしいが“それでもかまわぬ”としているところもおかしい」
私は東海林さだお氏の食べ物エッセイを愛読している者だが、つねに独自の視点と表現法で語っている点にいつも敬服させられる。上の描写などはまさにそんな彼の面目躍如といった感じだ。

さっそく「豆腐丸ごと一丁丼」をネットで検索してみたが、そういう名前のメニューは見当たらない。後で知ったが、「お多幸本店」におけるこのメニューの正式名称は「とうめし」というのだった。「とうふめし」から「ふ」を省力したとものと思われる。
つまりこれが「豆腐丸ごと一丁丼」となったのは、東海林氏がエッセイのタイトルとしてちょっとひねってみたものらしい。このセンス、うまい。

そこで当然私も自分で作ってみることにした。
東海林氏の見たグルメ特集のグラビアの横にはこんな解説があったという。「喉が渇くほど甘じょっぱいおでんのつゆが、淡白な特注の木綿豆腐と好相性」云々。おでんのつゆは甘じょっぱくないから、この説明はどう考えてもヘンだ。たぶん煮物で使う甘辛の煮汁が使われているのだろう。
東海林氏はこの説明文の「甘じょっぱい」という表現や、グラビアの豆腐が色濃く煮上がっている様子から、蕎麦つゆに砂糖や調味料を足してかなりしょっぱめの煮汁を作っている。ただしその配合の割合は記されていない。

ネットで「お多幸本店」の「とうめし」の画像を見ると、なるほどけっこう濃い色に染まっている。これはやはりおでんなんかじゃない。
なおクック・パッドにこの東海林氏の作り方をレシピに落としたものがあった。そこで紹介されている煮汁の配合は、めんつゆ(3倍濃縮)30cc、水 90cc、醤油大さじ1、本みりん 大さじ1 となっている。しかし、これだと煮汁の分量は合わせて150ccにしかならない。これでは豆腐が煮汁に浸りきらないだろう。
 私の場合は、試行錯誤の末次のような配合になった。
めんつゆ(2倍濃縮)カップ1と1/4250cc)、水 カップ1(200cc)、砂糖大さじ2、みりん 50ccといった感じだ。
めんつゆ250ccというともったいないようだが、豆腐を煮た後、捨てずに煮物などに使っているのでまったく無駄にはならない。

この煮汁で丸ごと一丁の豆腐を煮るのだが、形が崩れるので途中でひっくり返すことが出来ない。となると煮汁に豆腐が完全に浸っている必要がある。しかもここが問題なのだが、煮上がった豆腐を崩さないように取り出すため、フライ返しのようなものを差し込まなければならない。そのために豆腐よりひとまわり大きめの鍋を使う必要がある。そのためかなり大量の煮汁が必要になるのだ。
東海林氏はフライ返しを使ったようだが、私は取り出し方を工夫して豆腐が入るぎりぎりの大きさの鍋で煮ることにした。それでも、上記のように500cc近い煮汁が必要なのだ。

さてこの煮汁で、豆腐を煮るわけだが、これがまたなかなかに手間のかかる作業なのだ。
東海林氏は、10分煮ては火を止めて温度を下げ、また火をつけては冷ますということを五回ほど繰り返したという。御承知のとおり煮物の味は、火を止めて温度が下がっていくときにしみこむものだからである。
こうしてついに豆腐の全体が飴色に染まったということだ。

私もこれにならい10分ほど煮ては冷ましてみた。しかし、小鍋とはいえ、いったん煮立った鍋の煮汁の温度はなかなか冷めないものである。完全に冷めるまでだと2時間はかかる。
そこまで冷ます必要はないのだろうが、できるだけ味をよくしみこませて美味しい豆腐にしたい。
そうなるとと単純計算で2時間×5回、つまり完成まで10時間はかかることになる。私の場合、一回煮立てるとその後半日くらい放置したりするから、何のかんので完成に1日半はかかってしまう。簡単、単純にして何と壮大な料理なのだろう。

そしていよいよ煮上がった豆腐を取り出すことになるわけだが、これがかなり難しい。せっかくここまで豆腐の形を崩さないできたというのに、フライ返しで取り出そうとすると端が欠けたりしてしまうのである。
何回かの失敗の結果、思いついたのが以下のような方法である。木製の取っ手のある落し蓋を使うのだ。この落し蓋で豆腐を押さえながら鍋を傾けて大きなボールないしは鍋に煮汁をあける。さらにそのまま鍋を完全に逆さにして、その落し蓋の上に豆腐を乗せてしまうのだ。それを丼によそったご飯の上にそっと乗せる。
木製の落し蓋は豆腐のすべりが悪いので、いったん平らなお皿に移し、その上で丼の上に滑らせるようにのせてもよい。これでできあがりだ。
なお先に書いたように、ボールにあけた煮汁は煮物などに再利用可能だ。

丼のご飯の上にのった丸ごと一丁の豆腐という景色は、何とも壮観だ。東海林氏の言うとおりまさに「異様であり、素朴であり、存在感があり、迫力がある」
私は米を1合炊いてそれを中くらいのラーメン丼に全部よそい、その上に豆腐をのせている。米1合を炊いたご飯は約320グラムで、豆腐の重さが300グラム。ご飯とそこにのっているものとがほぼ同じ重さということになる。

なお私はご飯をなるべく汚したくない反ツユダク派なので、煮汁はかけない。またこれは「お多幸本店」や東海林氏のレシピにもないのだが、私は豆腐の上に薬味として刻みネギと七味を散らしている。
ではいよいよ食べ始める。ラーメンの丼を使っているのは手頃な丼物用の丼がないためだが、結果的にこの器の上が開いた形がとても具合がいい。豆腐が完全にご飯をふさいでしまわずに、豆腐の横からご飯がのぞいているからだ。この場所を利用して豆腐を少しずつ崩しては、ご飯と一緒に口に運ぶのである。

煮汁はかなり濃厚だが、豆腐はそれをふんわりと受け止めてじつにふくらみのあるマイルドな旨さになっている。豪快な見かけとはうらはらだ。食感は、意外としっかりしていてほろほろと崩れていくようなことはない。箸で崩しては、ご飯と一緒にほおばる。
東海林氏も指摘しているように、煮汁のしみ込みが中心にいくほど薄いので、味の変化が楽しめる。
それでも味が一様に感じられるころ、薬味のネギと七味がピリッと口内を刺激し、味覚をリセットしてくれるのだ。

だんだん夢中になってかっ込んでいる。至福のひと時だ。そしてあっという間に食べ終わってしまう。ようし、また作ろっと。

2013年3月23日土曜日

「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」展

茨城県近代美術館で2013年2月5日から3月20日まで開かれていた展覧会「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」展を見てきた。
開会直後から気にはなっていたのだが、このタイトルに気持が萎えてしまい、ついつい行きそびれていた。結局、閉幕直前ぎりぎりに駆け込みで見ることになってしまった。
それにしてもこの展覧会タイトル、句読点を含んでいてひどく散文的だ。そして、展示の中身の方も、このタイトルにみごとに(?)対応して散文的な内容だった。何となくまとまりがなく雑然とした感じ。

受付でこの展覧会のチラシをいただいた。裏面の説明文が、なかなかスバラしい。最近ではめったに目にしなくなった哲学的とも言えるような内容の文章である。
たとえば「自然とのあいだに想定していた遠近法の世界が崩壊する恐怖」とか、「私たちは、死者たちと共に在ることで、生かされている」といった難しい言い回しが並んでいる。知的な刺激を感じる反面、抽象的過ぎてこの展覧会の解説にはなっていないことも事実。
結局何だかよくわからないまま展示室に足を踏み入れた。

後で美術館のホームページを見て、この展覧会の趣旨と概要を何とか理解することができた。
この展覧会は、次の三つのグループの作品から成っているとのこと。すなわち、(1)震災(関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災)に関わる作品、(2)それぞれの作家が独自の視点で自然の本質を捉えようとした作品、そして(3)死者を思う作品。
言うまでもなく芸術にとって「自然」も「死」も古くから問い続けられてきた大きなテーマのはずである。ここでこの三つのグループの作品をくくるのが東日本大震災の体験ということになるらしい。
その前提として、「突然おこった大地震は私たちのものの見方に影響を与えていると思われる」(茨城近美HPより)とあるように、今回の震災によりわれわれの自然と死者に対する認識が大きく変化したことが指摘されている。
その新しい認識をもとにして「震災」と「自然」と「死者」をひとくくりにしようというわけだ。

しかし、その点に関して私は実感として納得できない。また来るかもしれない自然の脅威を恐れつつも、結局はこれまでとあまり変わることなく自然と向き合っているのが現実ではないのか。死者についても同様だ。
何しろ、あのような被害をもたらした原発に対してさえ、何ごともなかったかのように再稼動を容認し、今後も依存していこうとする「懲りない」人たちが世の主流を占めているくらいなのだから。

というわけで、この三つのグループの作品をひとつに関連付けることには無理を感じた。
さらに(1)の震災に関わる作品のグループも、①作品そのものが震災をくぐり抜けたという作品(横山大観「生々流転」や木村武山の杉戸絵など)と、②震災を描いた作品(萬鉄五郎「地震の印象」など)ないし震災をきっかけとして制作された作品(河口龍夫の作品など)とに分かれる。
前者①は来歴は震災に関連しているものの、作品の内容は当然震災とは無関係だ。だからこの二つを一つのグループとしてまとめるのもおかしな気がする。

会場ではこれら三つのグループの作品がコーナー分けされることなく混在して展示されている。これも一定の意図があってのことなのだろう。しかし私は関連のないいろいろなテーマの作品がばらばらに並んでいるような印象を受けた。

ここまで展覧会の趣旨そのものについてゴタクを並べてしまった。しかし本来私の持論としては、展覧会全体のコンセプトはどうあれ、その中に良い作品があれば、それは良い展覧会ということになる。ちなみに良い作品はないけれども、コンセプトだけは良い展覧会というものもあり得ないと思う。
さて今回の展覧会ではどうか。
何といっても牧島如鳩(まきしま・にょきゅう)の「魚籃観音像」と橋本平八「石に就て」の印象が強烈だ。この美術の既成概念を逸脱したヘンテコな迫力。久しぶりに美術館で理屈抜きのセンス・オブ・ワンダーを味わった。
それからあとは、現代作家たちの作品がどれも充実していた。とりわけ井上直、野沢二郎、間島秀徳らの作品には、深い内省と沈思が感じられて良かった。
中でも井上の描く世界は震災後のわれわれの心象風景を象徴的に示していて心打たれた。もっともっとこの作家の他の作品も見たい気がした。

それから横山大観の「生々流転」と河口龍夫の作品が向かい合うように並んでいたのも印象的だった。
河口は一定のコンセプトをもとにして作品を生み出す作家だ。一種のコンセプチュアル・アートなのだが、それを造形としてまとめるデザイン・センスが非常に優れている。
しかしややもするとそのデザイン・センスが、コンセプトを超えてしまっているようなところがある。コンセプトが骨太に迫ってこないのだ。今回もそんな感じをちょっと受けた。

片や大観の「生々流転」は何しろ重要文化財であるから、近代絵画の最高峰ということになっている。
しかし、これは結局、人の一生を水の流れになぞらえるというコンセプトを、優れたデザイン・センスで視覚化した絵解き画なのだと思う。
しばしば行われているようにこの作品をその造形性ではなく精神性という観点で語るのは、一見、的外れのようでいて、じつはこの作品のコンセプチュアル・アートとしての本質を抑えた当を得た発言なのかもしれない、とさえ思えてくる。
 というわけで、大観と河口の向き合う配置は、その対比から(たぶん)期せずして大観のコンセプチュアル性を思い起こさせるという点でとても面白いものだった。

美術館はこの展覧会を、「3.11の震災から二年後の時期にあたり、自然の不条理という現実に対して美術と美術館が何をなしえるかを問う企画展です」(茨城近美HPより)と謳う。しかし、その一方で「芸術が震災後の社会に力になれるなどとは申しません」(展覧会チラシ)とも語っている。もちろん後者が正しい。
悲惨な現実を前にして美術は無力だ。しかし、人間が生きていくためにやはり美術は不可欠なものだと思う。
だから美術館は直接に不条理な現実にコミットしていく必要はない。なすべきは良い作品を見せること、見せ続けることなのだ。ひたすらそのことに専心して欲しいと願う。それがつまり震災に打ちひしがれた人を含むすべての人々が生きていくことを支えていることになるのだから。

2013年3月21日木曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製つけめん」と「麻婆めし」 2013

3月半ばの初夏のように暖かいある日、また水戸の「つけ麺 坊主」を訪ねた。前回訪問から1週間ぶり。3月になってこれで3回目となる。なかなかいいペースだ。

所要を済ませて店の前に着いたのが12時40分。すると平日なのに入り口の前に行列が出来ている。高校生の5人組。念のため確認すると、やはり中に入れるのを待っているとのこと。好きなもの食べるのって、やっぱり大変だなあ。
並ぶのは嫌いなので、駅方面で時間をつぶすことにする。30分後の1時10分に再度店に行ってみた。今度は中に入れたが、券売機の前にはオバさん二人が並んでいる。店内にはこの二人を含めて先客11人。ほぼ満員だ。しかも、そのうち食べているのは4人で、あとは全部注文したものが出来るのを待っている状態。これはちょっと時間がかかりそう。まあべつにかまわないんだけど。後客は5人だった。

券売機の前のオバさんは、あーでもない、こーでもないとなかなか押すボタンが決まらない。
やっと順番が回ってきて券売機の前へ。今日は「特製つけめん」と「麻婆めし」にする。あと当然「ビール」。
券を取ってさてどこに座ろうかなと見回すと、ちょうどタイミングよくカウンターの一番奥の客が立ち上がった。ラッキーだ。これでいつもの指定席に座れる。

御主人に「めんは大盛、めしは普通で」とお願いする。
 ビールがすぐ到着。なかなか出てこないこともあるので、これはとにかくうれしい。私の場合これで、あとはいくら待たされても大丈夫という気分になる。
さっそくぐびりとやる。今日は外が暑いくらいの陽気だったので、特別にビールがうまい。ま、寒い日は寒い日なりにうまいんだけど。

厨房の中は当然かなり忙しそうだ。
さて今日の私の注文は、「特製つけめん」と「麻婆めし」。先月「極辛麻婆」のつけ麺とラーメンを食べ、今月はこれまで「特製麻婆」のつけ麺とラーメンを食べた。それならこのまま順番に、このお店の激辛メニューの総ざらいをしてやろうと思い立ったのだ。べつにもうそれぞれ何回も食べてはいるわけだが。
その順でいくと今回が「特製」のつけ麺で次回がラーメンということになる。

今回はこれに「麻婆めし」をプラス。これは、このお店の売りのひとつである麺類のトッピングの麻婆豆腐を、お皿に盛ったご飯にかけたもので、ときどき食べたくなるのだ。
これを頼むならやっぱり「特製つけめん」のときに限る。なぜかというと、「特製つけめん」には麻婆が乗っていないからだ。上の辛さの「特製麻婆つけめん」にも下の辛さの「つけめん」にも麻婆が乗っている。これらと「麻婆めし」を組み合わせると、両方とも麻婆なので味が同じになってつまらない。
振り返ってみると「麻婆めし」を食べたのはちょうど1年前。ずいぶん久しぶりだ。

思ったほど待つこともなく、20分くらいで、「特製つけめん」と「麻婆めし」があいついで到着。
「特製つけめん」のつけ汁は、やはりこれの上位メニューの「特製麻婆つけめん」よりは質素だ。麻婆豆腐が乗っていないだけではなく、海苔や山盛りの赤い粉末の姿もない。赤いスープの上に刻みネギと魚粉が少々といったところ。汁の中の具材はもやしと豚肉だ。
 今日はこのつけ汁に躊躇なくカウンター上のツボから唐辛子の粉末をひとすくい投入する。それほど辛くないことがわかっているからだ。

さっそく麺を四、五本箸ですくってつけ汁にどぶんと浸す。今日は麺にたっぷりと汁を絡ませて食べる方針だ。
麺をすすりこまないようにして口の中に入れる。今日のつけ汁は、脂多めで味噌味濃厚、それからニンニク風味がいつもよりやや強めな感じ。で、もちろん美味しい。
最近つけ麺のとき、この味噌味に気が付くようになったのだが、ずっと以前からこんなに濃厚だったっけ…。とにかくこれがもちもちの中太麺とじつによく合う。

麺をしばらく食べ続ける。一段落したところで今度は麻婆めしだ。
 あんの中に直方体の豆腐がごろごろと転がっている。この豆腐はアコガレレなのだ。ラーメンでもつけ麺でもその上でお目にかかれる麻婆豆腐はせいぜい2,3個。こんなにごろごろしている豆腐の姿を見ると、それだけでうれしくなってしまう。
レンゲで豆腐を割ろうとしたらけっこう堅め。こんなに堅かったっけ。麻婆のあんを絡めて食べる。麻婆のあんは、やはりこの店の麺のスープの味が豊かなだけに、それに比べるとちょっと単調に感じてしまう。でも、麺にトッピングとしてかかっているときは、無性にこの麻婆だけを食べたくなるのだった。

 「麻婆めし」は、いつもの「白めし」と違って麺を食べているときの口直しにはならないが、つけ麺と交互に食べていく。
ご飯はなるべくあんがかかっている部分しか食べないようにする。やがて麻婆豆腐部分を食べ終わる。皿の上には、最初に盛られていたご飯のだいたい三分の一が白いまま残っている。

やがて麺の方も食べ終える。麺にたっぷり絡めながら食べたので、最後の頃はやはりつけ汁が冷たくなってしまったのがちょっと残念。かといって「あつもり」にすると麺の食感が物足りない。でもとにかく、つけ汁の旨さを十分に味わうことは出来た。

器に残ったつけ汁は少し。今度は、「麻婆めし」の残ったご飯をレンゲで少しずつすくい、それをつけ汁にちょっとずつ浸しては食べる。ちょうどスープ・カレーを食べる要領だ。こうするとまた違う美味しさが味わうことができる。底の方に沈んでいた味噌成分が濃厚なので、ご飯が進む。あっという間にご飯完食。
ほんの少し残ったつけ汁を、最後にポットのスープで割って飲み干した。ああ満足だ。

結局今日も辛さは今ひとつ。鼻水も汗もそれほど出なかった。自分の体調がよいせいなのだろうか。
もうちょっと唐辛子を投入したいが、そうすると粉っぽくなって食感が悪くなる。やっぱり「極辛」食べたいなあ。

というわけで今日もご馳走様でした。

2013年3月14日木曜日

柳田ヒロ 『ミルク・タイム』 『HIRO YANAGIDA』

フード・ブレインのDNAシリーズということで、第1回は柳田ヒロの初期ソロ・ワークについて。

フード・ブレインの唯一のアルバム『晩餐』が出たのが1970年10月のこと。フード・ブレインはそのまま解散することになる。そして早くもその翌月11月には、フード・ブレインのキーボーディスト柳田ヒロのソロ第1作『ミルク・タイム』が発表されたのである。
となれば当然『晩餐』のセッションで果たせなかった柳田の音楽的志向を、自分の思うとおりに実現しようとしたのがこの『ミルク・タイム』であると考えたくなる。
しかし『ミルク・タイム』は『晩餐』とけっこう似ているところがあった。強引に言えば『晩餐』の続編と言えないこともない。
インプロヴィゼーション中心のセッション風の曲があり、フリー・フォームの曲もあり、また、曲の間に短いつなぎの小曲を挟んだりする構成の仕方も似ていた。せっかくならもっと全然違うことをやればいいのに…。思えばこの辺りからすでに柳田のアーティストとしての限界が見えていたのかもしれない。

さて柳田ヒロの名前を私が最初に聞いたのは、たしか岡林信康のバック・バンドのリーダーとしてだった。
岡林の1971年7月の日比谷野音でのライヴを収録したアルバム『狂い咲き』でバックを務めているのが柳田ヒロ・グループだ。メンバーはピアノの柳田に、ベースが高中正義、ドラムスが戸叶京助のトリオ編成。高中はフライド・エッグの前にこんなところでベースを弾いていたのだった。このバンドははっぴいえんどに代わって、岡林の3枚目のアルバム『俺らいちぬけた』からバックを務めていたのだ。
しかし、しょせんここでの役割は歌伴だし、ピアノのソロも何箇所かで聴けるが、注目するほどのものではなかった。

それから長い月日が流れた。そしてだいぶ遅れてフード・ブレインを聴き、柳田のオルガン・プレイにびっくりさせられることになる。奔放でワイルド、破壊的なエネルギーを発散するそのプレイは、今聴いても十分に刺激的だ。

そこでフード・ブレイン後に出た柳田ヒロのソロ第1作『ミルク・タイム』(70年)とその数ヵ月後に出た第2作『HIRO YANAGIDA(7才の老人天国)』を聴いてみたのだ。
この2枚は日本のプログレッシヴ・ロックの先駆的作品として定評のあるアルバムである。

しかし聴いてみると良い曲もあるが、それほどでもない曲もたくさんあった。日本のロック・アルバムにありがちな「水増し感」がやっぱりあって全体としては薄味で物足りない印象だ。
とくに柳田のアルバムの場合、よく言えばヴァラエティに富んだ内容ということになるが、悪く言えばとっちらかっていて何をしたいのかよくわからない感じがある。興味の間口が広過ぎ、やりたいことが多過ぎるのだろう、たぶん。で、結局まとまらないのだ。
さかのぼれば、フード・ブレインの「M,..のワルツ」あたりから何だかそんな感じはあった。

柳田ヒロはキーボード・プレイヤーとしては間違いなく卓越した才能の持ち主だ。しかしアーティストとしては、結局ポリシーに欠けていたと言うしかない。彼のその後の活動もフォークの方に行ってみたり、ジャズ・ロックに戻ったりと、ポリシーのなさを証明しているような気がする。そして早々に音楽の世界から姿を消してしまったのも、そのせいだったのでは…。

しかしもちろん、そのことで彼の残したいくつかの最高のプレイの価値が失われるわけではない。同様にこの2枚のアルバムの中で光を放っているいくつかの曲の輝きもまた薄れるわけではないのだ。

以下アルバムについてのコメント。


□ 柳田ヒロ 『ミルク・タイム』 (1970)

『ミルク・タイム』は、柳田ヒロの初ソロ・アルバム。上にも書いたようにフード・ブレインの『晩餐』発売の翌月である1970年11月に発売された。
これも上に書いたことだが、『ミルク・タイム』は『晩餐』に似ているところがある。柳田が『晩餐』でできなくて、このソロ・アルバムでやりたかったこととは何だったのか。
見たところ、それはメロディ志向とクラシカルな要素を盛り込むことだったように思われる。

 メンバーはドラムスがフード・ブレインからの角田ヒロ、ベースが「プレ」フード・ブレイン(『新宿マッド』)からの石川恵樹。ギターが水谷公生。私はこのアルバムで初めてこのギタリストを知ったのだが、その異才ぶりにはまったく驚かされた。そしてヴァイオリンの玉木裕樹とフルートの中谷望。

内容的には上にも書いたとおりヴァラエティに富んでいるが、それがあまり成功しているとは思えない。その結果「水増し感」を感じてしまう。
全10曲中の4曲、すなわちLOVE ST.」、「WHEN SHE DIDN'T AGREE」、「LOVE T」、「MILK TIME」は1分内外の短い曲。これがアルバム冒頭や曲間のつなぎの役割を果たしている。
ちょうどフード・ブレインの『晩餐』と同じ趣向だ。してみると『晩餐』でのあのアイデアは柳田によるものだったのだろうか。
このつなぎは、チェンバロやフルートやヴァイオリンによる静かでクラシカルな曲調のもの。まあ可もなく不可もないといったところだ。

この4曲に加えてFISH SEA MILK」、「ME AND MILK TEA AND OTHERS」の2曲も2分台という短い曲だ。「ミルク」がらみの曲はみんな短いのか?
ある程度の長さの曲は結局、残る4曲のみ。というようなわけで「水増し」な感じはいや増すのであった。

その中でメインとなる曲はインプロ主体の「RUNNING SHIRTS LONG」jと「FINGERS OF A RED TYPE-WRITER」の2曲。それと短いながらフリー・フォームの「FISH SEA MILK」が良い演奏だ。

このアルバムは日本のプログレッシヴ・ロックの先駆と言われているようだが、私にはあまりピンと来ない。おそらく、キーボード主体のハードな曲と、チェンバロやフルートのクラシカルな曲が同居しているので、プログレと呼んでいるだけではないのか。

以下いくつかの曲について印象を。

RUNNING SHIRTS LONG
フード・ブレインにつながるパワフルなセッションだ。このアルバムのベスト・トラック。
水谷公生のギターはエグい。海外の誰にも似ていない独自のスタイルだ。柳田のソロのときのサイドの入れ方もエキセントリック。
エレクトリック・ヴァイオリンのソロも個性的だ。
そして柳田のオルガンも熱い。
角田ヒロのドラム・ソロは珍しく空間を生かした知的なソロだ。

HAPPY, SORRY
ポップなインプロ曲だが、フード・ブレインの「M.P.B.のワルツ」にも通じるような面白くない曲。
各自何とか演奏でがんばっているが、いかんせん曲そのものがつまらない

FISH SEA MILK
一転して『晩餐』の「穴のあいたソーセージ」につながるフリー・フォームの曲。これがなかなか充実した演奏。もっと長く聴きたい。

FINGERS OF A RED TYPE-WRITER
やっと2曲目のハード・エッジな曲。ウォーキング・ベースやロールを効かせたドラムなどリズム隊がジャジーなジャズ・ロック。
ギターがオルガンと絡みながら白熱のソロを展開するが、ブレイクの後、エフェクトをはずしてねじれたソロへ。続くエレクトリック・ヴァイオリンのソロも、粘着質でユニーク。フランク・ザッパを思わせるこの「ねじれ感」は悪くない。
意外にも柳田のオルガンは、サイドに徹したままて前面に出てこない。

MILK TIME
アルバムのタイトル曲は意表をついたヴァイオリンによるクラシカルな27秒の小曲。


□ 柳田ヒロ 『HIRO YANAGIDA(七才の老人天国)』(1971)

前作をプログレと呼ぶのは疑問があるが、こちらのアルバムなら日本のプログレの先駆と呼ぶことに異論はない。
アナログA面の全部を占める3曲がとりわけ素晴らしい。「屠殺者」から「真夜中の殺人劇」、そして「夢幻」へと、ハードなプログレ魂が16分にわたって炸裂している。

しかし、あとがいけない。前作同様、今作もヴァラエティに富む内容だが、B面は「高層ビル42F」を除いて残りの曲はみな魅力の乏しい中途半端な曲ばかり。だからやはりアルバム全体としては「水増し感」のする内容になってしまっている。
せめてもう1曲くらいA面に匹敵するテンションの曲があれば名盤になれたのになあ。

メンバーはドラムスが前作の角田ヒロから田中清司に代わり、ヴァイオリンが抜けただけで、あとは前作と同じ。ギターの水谷公生が、ここでも個性的ないい仕事をしている。

以下、各曲についてコメント。

「屠殺者」
 必殺のオープニング・ナンバー。せわしなくたたみかけるように迫る冒頭のオルガン、そしてロールするドラムスとエッジのはっきりしたベースなどまるでEL&Pそのものだ。
フード・ブレインからふっ切れて、目まぐるしい展開を作り込んだ柳田の意欲が伝わってくる。
押し寄せるようなテーマの繰り返しの合間で、歪みまくるギターと金切り声で叫ぶフルート・ソロがすごい。

「真夜中の殺人劇」
続くこの曲も冒頭部はやはりベースとドラムスがEL&P風。
リズムがワルツ・タイムに変わってインプロヴィゼーション・パートに突入。ひしゃげた音でうねるベース音に乗って、ファズ・ギターがよじれ、オルガンが咆哮を続ける。
この「邪悪」で「暗黒」な感じは『アースバウンド』のキング・クリムゾンを思い起こさせる。

「夢幻」
  一転してフルート中心のアコースティカルな曲が始まり、後半エレクトリック・ギターとドラムが入って盛り上がっていく展開。まさにこれぞ哀愁のブリティッシュ・プログレ。
ロビン・トロワーのような水谷のギターソロを満喫できる。

「グッド・モーニング・ピープル(Good Morning People)」
ここからアナログB面。やっぱりまたやてる。柳田って人はこういう曲が好きなんだねえ。フード・ブレイン時代の「M.P.B.のワルツ」、前作の「HAPPY, SORRY」につながるポップでライトなだけの取りえのない曲。

「オールウェイズ(Always)」
 フォークっぽい柳田のヴォーカル曲。どうしても歌いたかったのだろうな。曲に魅力がないし、とにかく彼のヴォーカルは「ヘタウマ」というより「ヘタヘタ」。

「高層ビル42F」
 これはすごい。坂本龍一がやりそうなアンビエント曲。このセンスは時代のずいぶん先を行っていたことになる。
クールなフルートとアヴァンで破壊的なピアノの対比が見事。

「愛しのメリー」
オールド・タイミーなポップ・ソング。EL&Pにならってのお遊び曲なんだろうけど、シャレのピントがずれている。なので意味不明の一曲。
ヴォ^カルはこの後スピード・グルー&シンキに参加するジョーイ・スミス。

「憂うつ」
 プロコル・ハルムばりのオルガン・サウンドは重厚。しかし、結局それが延々と続くだけの曲。歌もつまらないし面白みなし。

2013年3月13日水曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製麻婆らーめん」 2013

前回訪問より約10日後、再び「つけ麺 坊主」を訪問した。
いつも訪問するのは平日の開店(11時)の直後なので、前回、日曜日の昼過ぎに行ってみたら店の外に行列が出来ていて、その人気ぶりに驚かされた。
今回は平日の11時35分に入店。やはり昼時に近いせいか混んでいる。先客10人。

券売機に向う。前回は「特製麻婆つけめん」だったので、今回はその兄弟分の「特製麻婆らーめん」にする。2月の限定期間に一回しか食べなかった「極辛麻婆らーめん」の余韻を味わいたくて…。それといつもの「白めし」と「ビール」。

カウンターの中ほどに空席を見つけて座る。御主人に「麺とめしは普通で」とお願いする。
先客は、作業服の人たち、サラリーマン、高校生など。みんなグループで、単独客は自分ひとり。女性客もなし。後客は14人。さすがに昼時だ。
混んできたので厨房の御主人は忙しく動き回っている。早めにビールが来る。ありがたい。お勤めの方々や受験について話す学生さんたちの間で一人ビールをぐびりぐびりと飲む。

ここでこの店のメニューを簡単におさらいしてみる。
このお店は「つけ麺」と名乗っているわけだが、もちろんラーメンもやっている。メニューは大別すると、「つけめん類」と「らーめん類」に分かれている。

「つけめん類」は辛い方から次のようになっている。
カッコ内の辛さの表示はメニューに記載のもの。
・極辛麻婆つけめん (超極辛、2月・8月限定)
・特製麻婆つけめん (極辛)
・特製つけめん (超激辛)
・つけめん (激辛)

これに対応する「らーめん類」は以下のとおり。
・極辛麻婆らーめん (超極辛、2月・8月限定)
・特製麻婆らーめん (極辛)
・特製らーめん (超激辛)
・麻婆辣麺 (激辛)
・らーめん (やや辛)

「つけめん類」と「らーめん類」はだいたい対応しているが、「つけめん」の<激辛>に対して、「らーめん」は<やや辛>と、辛さが違っている。「つけめん」に実質的に対応しているのは、「らーめん」の上にある「麻婆辣麺」ということになる。
店内の<辛さランキング>では、対応しているメニューの場合「らーめん類」より「つけめん類」の方がより辛いことになっている。ラーメンのスープを濃縮したのがつけ麺のつけ汁だから、その分辛さも強いということなのだろう。

なおこのラインナップは辛さが違うだけではない。具材の中身もちょっと違っている。いちばん大きな違いは、「特製つけめん」と「特製らーめん」にだけ麻婆豆腐が乗っていないことだ。
その点が物足りなくはあるものの、じつはその分もやしと豚肉が多めに入っているので、私的にはこの「特製」のラインがいちばんのお気に入りだ。

辛さ的にはこれらの下に、塩、醤油、味噌、胡麻味噌のつけめん、らーめんがある。さらにつけめんだけに「味噌坊主つけめん」と「坊主つけめん」というのもある。こういう辛くない方のメニューは一度も食べた事がないので、どんなものなのかわからない。
 
やがて「特製麻婆らーめん」登場。
外見は「極辛麻婆らーめん」とほとんど同じ。赤いスープが見えないくらいトッピングの赤い粉末(魚粉+唐辛子?)の山が丼の中央に盛り上がっている。その山の下からごろんと麻婆の豆腐がのぞき、その傍らに海苔一片。

トッピングを崩すと丼からこぼれそう。まずひたすらレンゲですくってスープを飲む。熱いッ。で、旨い。いつもより脂が多めで、コクが濃いめ。ときどきスープの口直しにご飯を食べる。これがまた美味しい。
最初にスープを味わい、ご飯を食べるという、この楽しみがつけ麺にはない。なので私的にはやはりラーメン系が好きなのだ。

一段楽したところで、赤い粉末の山をそっと崩してスープになじませる。それから丼のまん中ヘンにスペースを作り、底の方から麺を引っ張り出して食べ始める。
熱くてもちもちしていい感じだ。今度はしばらく麺ばかり食べ続ける。なるべくスープをからめるようにして食べる。しかしさすがにつけ麺のときに感じた味噌の風味は、スープの濃さが違う分弱くなる。なるほど、あれがつけ麺の醍醐味なのだなとあらためて思い至る。

「特製麻婆」の辛さはそこそこで「極辛麻婆」には遠く及ばない。なので、わりと落ち着いたまま食べ続ける。
具材の麻婆豆腐、もやし、豚肉などをじっくり味わい、麺をすすり、スープを飲み、ご飯を食べる。美味しい。が辛さのために我を忘れるということはなかった。
今日は、花粉が多そうなので鼻炎の薬を飲んできたら、いつもの鼻水もほとんど出ない。ラーメンの鼻水にも効くとは驚いた。汗も少しかく程度。

そしてなんなく完食。それなりに満足&満腹。
すごく辛い場合、大汗をかいて、大量の鼻水を出して、食後には体内が浄化されたような爽快感があるのだが、今回はそれはなし。次回は卓上の唐辛子を大量投入だ。
ごちそうさま、と満員の店内を出る。

その後、偕楽園まで歩き、ほどよく咲いた梅の花と観光客を見て帰る。

2013年3月11日月曜日

フード・ブレイン『晩餐』 『新宿マッド』

フード・ブレインは1970年のごく短い期間だけ活動したバンドだ。1960年代から70年代へという日本のロックの変わりめで、閃光のように一瞬の輝きを放ち、そのまま歴史の狭間に消えていった。
メンバーは陳信輝(ギター)、柳田ヒロ(キーボード)、加部正義(ルイズ・ルイス・加部 ベース)、角田ヒロ(つのだひろ ドラムス)の四人。70年の5月にステージ・デヴューし、同年の10月に唯一のアルバム『晩餐』を発表して解散している。

フード・ブレインのアルバム『晩餐』は、ヴォーカルなしのインストゥルメンタルのロック・アルバム。音楽性は本格的なハード・ロックで、前衛的あるいは実験的な面も併せ持っている。商業性を度外視したような姿勢が私にはとても好ましい。
なお近年になってバンド結成前夜に録音された映画のための音楽がCD化された。この映画は若松孝二監督の『新宿マッド』。ベースが加部ではなく、石川恵でのセッションだ。

1970年当時、ちょうど私はロックを聴き始めたばかりの頃だったが、残念ながらこのバンドをリアル・タイムでは聴いていなかった。今思い返すと、何とも残念なことだ。しかし、当時の多くのロック少年がそうであったように、私もハード・ロックに関しては完全に海外のバンドの方を向いていた。日本のバンドに注意を払うような余裕などなかったのだった。

今あらためてフード・ブレインの音を聴いてみると、彼らの演奏のセンスとテクニックが世界水準に達する優れたものであったことがわかる。しかしもっと面白いのは、彼らの音楽が当時の海外のロックの「エキス」を濃縮したもののように聴こえることだ。
彼らが海外のバンドの方を向いていたのは、われわれロック少年たちとまったく同じだったろう。そして彼らがそこに感じたカッコよさもわれわれが感じていたのと同じだったはずだ。彼らはそれを自分たちの手で再現しようとしたわけだ。だから彼らの音には、当時のロック少年たちが海外のロックに感じていたカッコよさが濃縮され、ときにはデフォルメされて宿っているわけだ。

フード・ブレインの『晩餐』の発売は1970年の10月だった。これに先立つ70年の8月にははっぴいえんどの『(通称)ゆでめん』が発売されている。この二つのアルバムは、既成の価値にとらわれない自由な精神(それがつまりロックの精神だ)を共有しながら、正反対の方向を向いている点で好対称の一対という風に私には映る。
正反対の方向とは、フード・ブレインがブリティッシュ・ロックをベースにしたシリアスで硬派なハード・ロック・バンドであるのに対し、はっぴいえんどが内省的なアメリカのウエスト・コースト・サウンドを日本風に取り入れようとしたバンドであることだ。
日本のロックの二つの流れが、1970年のこの辺りで交錯していたのだ。翌年の4月に発表された『ニューミュージック・マガジン』誌の70年度のNMMレコード賞日本のロック部門では、はっぴいえんどの『ゆでめん』が第1位に、フード・ブレインの『晩餐』が第4位になっていた。ちなみに、第2位は遠藤賢司『niyago』、第3位はクニ河内と彼の仲間たちの『切狂言』だった。

1968年頃から現れた自作自演の批評精神豊かなフォークがはっぴいえんどに流れ込み、その後ニューミュージックという形で花開く。それはやがてメジャー化していくと同時に大きく変質していくことになる。
しかし結局、時代ははっぴいえんどの方へと傾斜していったことになる。そうして結果としてそうなってみると、それ以外の流れなどまるでなかったように歴史は記憶の中で整序されてしまうのだ。フード・ブレインもそんな歴史の谷間に忘れ去られてしまった存在と言えるだろう。

だから、いまさら日本のロックの歴史におけるこのバンドの重要性を謳い上げても始まらない。今につながる流れにはなり得なかったのだから。彼らの音は彼らを好む個々の人々の心の中で響いていればそれでよいのだとも思う。彼らの音を好む人々は、たぶん時代を経ても次々に現れるだろうから。

しかし取りあえず70年代の初頭、フード・ブレインのDNAは三つに枝分かれして受け継がれていくことになる。すなわち柳田ヒロの初期のソロ・ワークと、陳信輝のスピード・グルー&シンキと、そして角田ヒロの加わったストロベリー・パス~フライド・エッグにおいて。

以下フード・ブレインのアルバムについて簡単にコメントしてみる。


□ フード・ブレイン『晩餐』

アルバム全体としては柳田ヒロのオルガンの奔放さと、加部正義のベースのうねり具合がとくに印象に残る。
また陳信輝が、破天荒というよりもむしろ頭脳的 知的プレイヤーであることをあらためて強く実感させられた。

ライナーによるとこのアルバムは角田のスケジュールの都合で、たった二日間で録音されたという。
このアルバムの収録曲数が少ないのは、もしかするとそのせいかもしれない。何しろ、つなぎ的な短い曲とフリー・フォームの「穴のあいたソーセージ」を除くと、曲らしい曲は4曲のみだ。
しかし、短時間での録音というハンデが、逆に吉と出て密度の濃い演奏になったものと思われる。

またつなぎの短い曲をいくつも入れたのも、少ない曲数をカヴァーするための苦肉の策だったのかもしれない。しかし、これもアルバム全体に知的な陰影をもたらすという良い結果を生んでいる。

以下、各曲について。

「ザット・ウィル・ドゥ(That Will Do)」
一曲目からバンドはいきなり疾走している。
ホンキー・トンク・ピアノ入りのイントロのカットアップの後、ブリッジに続いて始まる柳田ヒロの奔放なオルガン・プレイに引き込まれる。
うなりをあげるベースの上で延々とハモンドが暴れまくる。そのワイルドさは、ジョン・ロード以上でキース・エマーソンに迫るほどだ。ときどき絡んでくる角田ヒロのドラムスもタイトに引き締まっていてよい。
後半オルガンと入れ替わりに登場する陳信輝のギターはじっくりとうねるような展開だ。かなり知的な印象で、フランク・ザッパを思わせる。
結局この曲がこのアルバムのベスト・トラックだ。

M.P.B.のワルツ」
オルガン・ソロのための曲。延々と続くオルガンの音色は、柳田が影響を受けたというドアーズのレイ・マンザレク風。ということはつまりヘヴィではなくて、あくまでも軽快でカラフルということ。で、あまり面白くない。曲としても盛り上がらなくて今ひとつ。
ところでこの「M.P.B.」って、やっぱりブラジルのポピュラー音楽のことなのだろうか?あとでサンバも出てくるし。

「レバー・ジュース自動販売機」
いくつものパートがたたみかけるように目まぐるしく入れ替わる構成の曲。もうちょうと曲としての展開が欲しかったところ。

「目覚し時計」
これも「冒頭の「ザット・ウィル・ドゥ」同様、うねるリズム隊の上で、オルガンとギターのソロが続くジャム・バンド的展開だ。勢いのあるオルガンのソロが素晴らしい。

「穴のあいたソーセージ」
このアルバムの中でも最長の15分間にわたって繰り広げられるる無調のアブストラクト空間。ゲストに木村道弘のバス・クラリネットが入ってほとんどフリー・ジャズ的な感触だ。
緊張感が途切れることのない密度の濃い演奏。やはりこの人たちはタダモノではない。
ちなみにこのアルバムの印象的なゾウのジャケットは、このバス・クラの木村がデザインしたものとのこと。

「禿山」、「カバとブタの戦い」、「片想い」、「バッハに捧ぐ」
この4曲はどれも1分に満たない短いもの。上記の5曲の間のつなぎのような役割を果たしている。
だが、これがどれも気が利いている。とくに「カバとブタ…」で、サンバを持ってくるところなどセンスのよさに脱帽だ。


□ フード・ブレイン『新宿マッド』

これは『晩餐』録音の数ヶ月前に録音されたものだ。若松孝二監督の映画『新宿マッド』の音楽のためのセッションである。
この映画の封切りは1970年の4月。フード・ブレインの初ステージは70年の5月だから、CDの湯浅学氏のライナーにもあるとおり、この録音の時点ではまだフード・ブレインは結成されていなかった。
映画のオープニング(ユー・チューブで見ることが出来る)のスタッフ・ロールでも、音楽の担当には四人の個々の名前が並んでクレジットされていて、「フード・ブレイン」の名はどこにもない。
しかし、このセッションに参加した4人の内、ベースの石川恵を除いた残り、すなわちギターの陳、ピアノの柳田、ドラムスの角田の3人がのちにフード・ブレインとなったので、このアルバムもフード・ブレイン名義となったものらしい。
なおフード・ブレインのベースには、このセッションの石川恵の代わりに陳の旧知の加部正義が起用されるわけだが、石川の方はその後、柳田ヒロのソロ・ワークに参加している。

このアルバムの内容は全11曲、曲名はなく、代わりに「M-1」から「M-10」まで、頭に「M―」をつけた数字が付されている(「M-7」の後に「M-7-2」があるので全11曲)。
内容は、パーマネントなバンドではない一時的なセッションにしては、きわめてバラエティに富んだものになっている。たぶん映画で使用されることを目的としていたためなのだろう。また、CD化に当たって曲順等もよく考えられており、1枚のアルバムとしてなかなかよくできた構成になっていると思う。
ただこの『新宿マッド』の方が『晩餐』よりも優れているというレヴューも見かけたが、私はそうは思わない。やはりこちらはアルバムとしてまとめる前提のセッションではないためだろう、『晩餐』ほどの集中力や濃密さは感じられないからだ。

中身についての感想をいくつか述べる。

とにかく冒頭1曲目の「M-6」が素晴らしい。 いきなり4人が一丸となったハイテンションの暴走が始まる。とくに鍵盤を叩きつけて暴れまくる柳田のピアノがすごい。ドラムスとベースは終始つんのめり気味。
ひとりギターの陳信輝だけは冷静にさまざまな技を繰り出している。ときおり聴こえるオリエンタルなスケールのフレーズが印象的だ。こんなところからも、陳は欧米のロックのコピーでは終わらず、自分独自のものを生み出そうとしていたことが窺われるような気がする。
この曲は文句なくこのアルバム中の最高のトラックだ。しかしこのタイプの曲がこtれ一曲しかないのは何とも残念。

そしてブルースのジャムが4曲。
「M-8」はミディアム・テンポのヘヴィなブルース。ピアノレスで、ギターが終始粘っこくてアグレッシヴなフレーズで迫る。
「M-3」はルーズでリラックスしたブルース・ジャム。ギターは本来の意味でブルージーだ。
「M-2」はアップ・テンポのジャム。クラプトンのような流麗なギターが聴ける。いちばんブリティッシュ風味を感じる。
アルバムのラストの「M-10」はスロー・ブルース。ギターのコード・ストロークにのって歌うピアノがソウルフルな味わいだ。
いずれのブルースのジャムもそれぞれに雰囲気を変えているのはえらい。

その他、残りの曲もみな曲調が違っている。
「M-1」はこの映画のオープニング・テーマとして使われていた曲。軽快でポップなピアノ中心のワルツ。

あとは以下の3曲が印象に残る。
「M-9」は2小節のシンプルなベースのリフにのって延々と10分以上も続くジャム。ピアノはさっぱり盛り上がらないが、その後でいつ果てるともなく続くフランク・ザッパ風のギター・ソロが気持ちいい。また最後のドラムのソロも、コンパクトながらセンスが光っている。
「M-4」は『晩餐』の「穴のあいたソーセージ」につながるフリー・フォームの集団即興。「穴のあいた…」同様、緊張感と密度の濃い演奏が素晴らしい。
「M-7-2」はティンパニのようなドラムと、ベースのドローン的な通奏低音の上で、ピアノが格調高くアドリヴのフレーズを紡いでゆく。まるでキース・ジャレットのようだ。アルバムの中でもかなり異色。

2013年3月8日金曜日

炊飯器でピラフ、チャーハン、炊き込みご飯

最近は炊飯器でいろいろなアレンジご飯を作って楽しんでいる。ピラフやチャーハンや炊き込みご飯などなど。お米と調味料と具材をセットしてスイッチを押せば、美味しいものが出来上がるのが何とも楽しい。

ネット上でも無数のレシピが公開されている。それらを参考に作っているうちにだんだん大まかな要領がわかってきた。わかってみると大さじや小さじで何杯とか何が何グラムなど、細かい分量にあまりこだわらなくてもできるようになった。

炊く前に具材を下茹でしたり、フライパンで炒めたりといったレシピもよく見かけるが、これはけっこう面倒だ。そこで包丁で切った具材をそのまま炊飯器に入れてみたら、それなりにけっこううまくできることもわかった。

というわけで自分なりのレシピの基本を整理してみたのが下の表だ。この基本を押さえておけば、いろいろ応用が利くので便利。
レシピの基本は調味液に次の五つの要素を加えること。①塩味、②旨み、③酒、④香味野菜、⑤油分。このそれぞれを、ピラフかチャーハンか炊き込みご飯にするかによって変える。分量はあまり厳密でなくてもよい。何回かやってみれば大体わかってくる。そこがまた楽しい。

<炊飯器ご飯のレシピ>



ピラフ
チャーハン
炊込みご飯
炊く前に
①塩味
しょう油
しょう油または塩
②旨み
コンソメ(粉末)

ガラスープの素(顆粒)
だしの素(粉末)
③酒
酒(またはワイン)
酒とみりん
④香味野菜
ドライ・ガーリック
しょうが(みじん切り)
しょうが(みじん切り)
⑤油分
ベーコン
ベーコン(またはチャーシュー)
油揚げ
お好みの具材(混ぜないで米の上に乗せる)
タマネギ
グリーン・ピース
きのこ
〔豪華版にする時は〕
冷凍のエビ
冷凍のシーフード・ミックス
にんじん
きのこ
〔豪華版にする時は〕
魚の缶詰(さば、さんま、ツナなど)
炊き上がったら
バターを入れて混ぜる
炊き上がったら溶き玉子、ゴマ油、刻みネギを入れる。
そのまま混ぜないで5分蒸らし、その後よく混ぜる。

食べるときに
コショウ、粉チーズ、バジルなどを振る

ゴマ、海苔などを振る


ポイント 1 調味料と具材の内、しょう油やみりんなど液体分をすべて加えた上で炊飯器の水加減をする。

ポイント 2 水加減したお米の上に好みの具材を乗せて、そのまま混ぜないで炊く。

ポイント 3 塩加減は大ざっぱでよい。米1合につき、塩なら小さじ0.5、しょう油なら小さじ1くらいか。旨み分(コンソメやだしなど)にも塩分が含まれているのでその分も考慮する。そして炊き上がったとき味をみて足りなければ足せばよい。

ピラフはタマネギやニンニクやベーコンを炒め、さらにお米も一緒にいためてから炊飯器で炊くのが本格的らしい。だが、いためないで最初から炊いてもそれなりのものができる。ただし、にんにくは生で入れると、香りが強すぎるのでドライ・ガーリックを使っている。

チャーハンのコツは、炊き上がったときに溶き玉子とゴマ油と刻みネギをさっと投入して、そのまま5分ほど蒸らすこと。その後によく混ぜると薫り高くパラパラした食感の本格的なチャーハンができる。

炊き込みご飯は、缶詰のさばやさんまをお米の上にごろんと乗せて炊くとなかなか美味しい。その際あらかじめ缶詰の汁分も加えて水加減すること。炊き上がったら、ご飯の上の魚をほぐしながらご飯の全体によく混ぜ合わせる。値段が安い割にとても豪華な御馳走ご飯ができる。
 その他、上の基本をベースにしていろいろな具材で炊き込みご飯にチャレンジしたいと思っている。