2012年7月27日金曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製らーめん」 梅雨明け編

先週、気象庁から梅雨明け宣言があった。よくあることだが、梅雨明けが宣言されたとたん曇りがちで肌寒い梅雨空が続いている。それでもだんだんと暑くなってきて、いよいよ本当の夏がやってきたある日、久しぶりに水戸のラーメン屋「つけ麺 坊主」を訪ねた。
前回が梅雨入り直後だったから、じつに一ヵ月半ぶりの訪問だ。自分的には、満を持して食べに行くという感じ。

店に向って通りを歩いていく。あの店の前ののぼりを見るまでは安心できない。最近、不定休化しているみたいだからだ。こちらは何しろ「満を持して」の意気込みなので、休みだとがっかり度も大きい。
 しかし、近づくと無事にのぼり発見。白地に黒で「つけ麺」とある。よかった、やっている。あれ、もう一本の「超激辛」の赤いのぼりはどうしたんだろう。

平日の11時40分入店。先客なし(後客は10人)。どうも、私が今日の最初の客らしい。
久しぶりなので当然ながら私の定番「特製らーめん」の食券ボタンを押す。そして、これも当然「白めし」と「ビール」のボタンも。
さらにメインが定番だから、何かこれまで頼んだことのないトッピングを、と思って(前回は「コーン」だった)、「バター」のボタンも。
「坊主」のトッピング・メニューは、茶碗に別盛りの「ねぎ」を見てもわかるように、ほぼどれも豪快かつリーズナブル。「バター」も期待したい。

カウンターの一番はじに座る。黄金のカエルの置物の前。ここはクーラーから遠いので気に入っている。激辛は大汗かいて食べなくちゃね。
ご主人に食券を渡しながら、いつもどおり「麺とめしは普通盛りで」とお願いする。
すぐでてきたビールを、いつもどおりぐびりぐびりと飲みながら待つ。一月半ぶりに来ても、いつもどおりの店内の様子に何だかほっとする。しかし、流れている音楽が今日はオールディーズよりも少しだけ新しめのポップスだ。メリー・ホプキンとか。
カウンター内のご主人の動きは相変わらずきびきびしていて見ていて気持ちがいい。とくに麺を湯に投入したあとのほぐしと、茹で上がった麺のテボでの湯切りは一回一回気持がこもっている。

あっという間に「特製らーめん」と「白めし」が登場。先客なしだからね。
注目のバターは、一辺が2.5~3センチはあろうかというでっかいさいころ状。その立派さに感動する。早く溶かすためにスープに沈めようとしたが、下には麺があるから沈む余地がない。
あきらめてとりあえずスープをレンゲですくってすする。あれっいつもとちょっと違う。鶏ガラの風味がいつもより立っている。魚介系ダシはやや控えめだが、こちらもそれなりには立っている。いつもといちばん違うのは、この二つに一体感がないことか。でも、それはそれでやっぱりおいしい。ついつい二口、三口…と立て続けで結局十口くらい夢中で飲んでしまった。口の中は半分やけど状態。そして、ご飯を一口、二口、三口と。
それから今日は、甘さと塩気がいつもより控えめな感じだ。トッピングにバターを頼んだのは大正解だった。

心配しなくてもバターは少しずつ溶けていった。まん中にあったもやしと豚バラの小山を崩して丼の全面に広げたので、溶け始めた片すみバターは、なかなかひろがっていけない。しかし、あえて混ぜないことにする。
箸で高々とすくった麺を、このバターの濃度の濃いあたりにあらためてくぐらせては食べる。バターを麺にからめる感じ。幸せな気分になる。
考えてみるとスープ(鶏ガラ)の鶏、具材(豚バラ)の豚、そしてバターの牛と、なかなか豪華な味の取り合わせだ。

それからバターのせいもあるのか、辛さも今日はいつもほど感じない。脂で舌がコーティングされてしまうのかもしれない。それでももちろん十分辛いし、ティッシュで鼻をかみ続けているのだけれど。
麺をすすり、スープを飲み、ご飯で口直しをし、鼻水をかみ、顔面の汗をふく。この忙しいサイクルが加速するにつれて、私は無我の境地になり、至福の時間を過ごす。そしてあっという間に最後の段階を迎える。麺はほとんど食べ終わり、丼にはスープと少しの具材が残るのみ。
前回のトッピングのコーンもそうだったが、バターもまた最後の最後までこのスープを御馳走にしてくれたのだった。ありがとう。

ごちそうさまでした。今回も満腹だ。何しろ、いつもの麺とスープとご飯に加えて、大量の油脂まで摂取したのだから。体も心も満ち足りてお店を出た。
さて、いよいよ来月8月は、「極辛麻婆らーめん」と「極辛麻婆つけめん」という坊主の幻のメニューの限定発売月間だ。この二つの「極辛」メニューは、一年の内2月と8月の二カ月間しか食べられない。だから私はここのところずっと8月が来るのを首を長くして待っていたのだ。期間中3回くらいは来たいな。

例によってここからは腹ごなしの散歩の報告。
店を出ていつものように千波湖方面に向かう。
線路沿いに歩き、千波大橋の下をくぐり、梅戸橋を渡ると桜川にかかる芳流橋のたもと。これを渡ると千波湖だが、渡らないで桜川の左岸(私からみると右側)を歩いていく。黒鳥さんや白鳥さんも暑そう。
常磐陸橋を右に見てから、偕楽橋の下をくぐり田鶴鳴橋の下をくぐって偕楽園の拡張部へ。拡張部をぐるっと一回り歩く。こんな暑い日に公園でぶらぶらしている人はほとんどいない。
旧6号国道の下をくぐって、好文カフェの脇を通り千波湖に出る。湖面をわたる涼しい風に吹かれながらゆっくり千波湖の南側のほとりを歩いた。
千波大橋の下をくぐって桜川沿いに水戸駅に戻る。約1時間半、歩数1万歩。だいぶエネルギーを消費したが、まだ胃がもたれている感じ。あきらかに脂の摂りすぎだ。もう若くないんだからと少し反省。でもいつもどおり楽しい散歩だった。


2012年7月17日火曜日

レコ・コレ誌「ストーンズ・ベスト・ソングズ100」(つづき)

暑い日が続いている。全国で熱中症患者が続出だ。
あまり外に出られないものだから、曲単位ランキング特集はつまらないと言いながらも、レコ・コレ誌を手にとっては、曲の説明をぽつぽつ拾い読みしている。説明ではどの曲もみんな「名曲」ということになっているのが、なんともシラケる。だったら何でこの曲ってもっと上位じゃなかったの…、とついひねくれたことを言いたくなる。

ところで『ホット・ロックス』というストーンズのベスト盤がある。デッカ時代の曲(+α)のコンピ・アルバムだ。この内容が今回のランキング的にはかなり便利な選曲だということに気がついた。第7位のt「タンブリン・ダイス」を除くと、第1位から第14位までの曲を、このベスト盤だけで聴くことができる。
とくにディスク2は、収録曲9曲のうち、1曲を除いた残り8曲がすべて13位までの曲という効率の良さ。ちなみにこのランク外の1曲というのは、29位の「ミッドナイト・ランブラー」だ。しかもライヴ・ヴァージョン。私はこの曲、途中がだれるのであまり好きじゃない。第29位は妥当。
よけいなお世話だけど、今回のランキングを見てストーンズを聴いてみようという初心者がもしいたなら(いないか)、そういうわけでこのアルバムはおススメだ。安いしね。私の持っているのは、2枚組ではなく、1枚ずつバラ売りされていたもの。中古屋で2枚ても1000円しないかも。

しかし、このアルバム、デッカから離れて自分たちのレーベルを作ったストーンズたちに対抗して、デッカ時代の悪名高いマネージャー アラン・クラインが勝手に選曲して発売したものだ。ストーンズたちのコントロールの及ばないところで作られ、いわば独立したストーンズたちへのあてつけのように発売された。しかも、当時めちゃくちゃ売れた。
そのアルバムが、50年のキャリアを振り返った今回のベスト・ソングズ上位曲を聴くための最適アルバムだったとは。何とも皮肉な話だ。

さて今号では、読者にストーンズの名曲ベスト10の投票を呼びかけている。投票用のはがきも綴じ込まれている。今回の特集をベースにした臨時増刊『ローリング・ストーンズ名曲ベスト100』にその結果を盛り込むのだとか。
私は今までこの綴じ込みはがきの投票というのには参加したことがない。めんどくさかったからだ。しかし、今回はランキングを予想したりして、これまでそれなりに労力をつぎ込んでいる。そこで、せっかくだからこの投票に参加してみることにした。

そのために、私のベスト10をあらためて選んでみることにした。たしかにベスト・ソングズ10は予想したけれども、それがそのまま私のフェイヴァリットのベスト10というわけではない。あれは世間様が選ぶであろう最大公約数のベスト10を、世間様になり代わって私が選んだだけなのだ。
しかし、私のベスト10が、それとまったく別というわけでもない。かなり重なっていることは事実。というわけで、予想したベスト・ソングズのリストをベースに、私のベスト10を作ってみることにする。私が自分の投票の内容をここで事前に公表してしまっても、べつに大勢に影響はないでしょ。
何回も掲載して申し訳ないが、まず私の予想リストは以下のとおりだった。

<ストーンズ・ベスト・ソングズ 私の事前予想>

第1位 「ブラウン・シュガー」
第2位 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」
第3位 「ホンキー・トンク・ウィメン」
第4位 「ストリート・ファイティング・マン」
第5位 「サティスファクション」
第6位 「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル(悪魔を哀れむ歌)」
第7位 「ギミー・シェルター」
第8位 「タンブリン・ダイス」
第9位 「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」
第10位 「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」

第1位の「ブラウン・シュガー」は、私にとっても絶対的に第1位だ。
前にも書いたように今回のランキングの結果で、この曲は第4位だった。しかし、それにしてもランキングに参加したレコ・コレ誌の筆者25人+浦沢直樹の個々のランキングの中で、「ブラウン・シュガー」を1位に推している人が一人もいないのはちょっとびっくり。犬伏功氏と寺田正典元編集長の二人が、かろうじて第2位に選んでいるのが最高位とは。ふに落ちないし残念だ。

まずこのリストの初期の2曲については、10位以内から外しはしないが下位に並んでもらう。第10位の「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」はそのままとして、第5位の「サティスファクション」は9位へ移動。
第8位の「タンブリン・ダイス」は、じつは私には今ひとつの曲。もちろんきらいではないが10位までには入らない。代わりに『エグザイル・オン・メイン・ストリート』からは、何といっても「リップ・ジス・ジョイント」だ。弾みながら疾走する爽快感がたまらない。
第9位「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」は、当然10位圏外へ放出。これで、一つ席が空いた。

どうしても10位以内に入れたいのは、『スティッキー・フィンガーズ』の「ビッチ」だ。「ブラウン・シュガー」で始まるA面が終わって、レコードを裏返すとB面の一曲目がこの「ビッチ」。「ブラウン・シュガー」と対を成す米南部サウンド志向期の代表的名曲だ。
今追加した2曲は、今回のレコ・コレ誌のランキングでは、なんと39位(「ビッチ」)と40位(「リップ・ジス・ジョイント」)というかなり下位の方に並んでいる。寂しい。
こんな感じで、曲を入れ替えて、順位を迷いながら調整すると次のようなことになる。

<私のストーンズ名曲ベスト10>

第1位 「ブラウン・シュガー」
第2位 「ビッチ」
第3位 「ホンキー・トンク・ウィメン」
第4位 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」
第5位 「ストリート・ファイティング・マン」
第6位 「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル(悪魔を哀れむ歌)」
第7位 「ギミー・シェルター」
第8位 「リップ・ジス・ジョイント」
第9位 「サティスファクション」
第10位 「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」

 よし、これをはがきに書いて投票だ。うまくいったら増刊号で会いましょう。

ところで今回のレコ・コレ誌(2012年8月号)の誌面で最も印象に残ったのは、再結成PILの写真の中のジョン・ライドンの姿。往年との激変ぶりがすごい。

2012年7月15日日曜日

「『具体』 ニッポンの前衛18年の軌跡」展

「『具体』 ニッポンの前衛18年の軌跡」展を観た。
会場の国立新美術館には、先月「大エルミタージュ美術館展」を観に来たばかりだが、その折チラシでこの展覧会の開催を知り、また足を運んだという次第だ。

この展覧会は、1954年に関西で結成され、72年まで活動した前衛美術グループの老舗「具体美術協会」(略称「具体」)の回顧展だ。「具体」は日本の現代美術の先駆者であると同時に、もっとも重要なグループの一つと言われている。しかし、その実態に触れる機会は、これまであまりなかった(少なくとも関東では)。そこでこの機会にぜひその作品群を実際に観てみたいと思ったのだ。
結果から言うと、このグループの概要がそれなりに理解できたし、歴史的事実を含め、いろいろな点で発見もあった。その意味では有益な展覧会と言えるだろう。ただ初期の作品や活動を、もっと観たいという不満は残ったのだが。

結成された直後のあの有名な芦屋市の林の中での野外展が、どのように再現されているのか。この点にもっとも期待して会場に足を踏み入れた。
しかし、実際に会場に来てみれば、そもそもあの型破りな野外展を美術館の中で再現することなど最初から不可能だったことがわかる。
松林の風景をプリントした幕を壁に掛けて雰囲気作りをした展示室の中に、いくつかの実物の作品と、あとは説明つきの写真パネルが置かれている。これで当時の現場の空気を多少なりとも体感しようというのは、しょせん無理な話だ。ただそこで何か特別なことが起こっていたことは、何となく伝わってきた。

そして残りの会場の大半は、壁面に絵画作品が続くことになる。以後のインスタレーションやパフォーマンスの紹介はカットされたのかと思いきや、現実の「具体」そのものが急速に絵画を志向し、それ以外の表現を切り捨てて行ったということが、会場の説明でわかった。
先日、東京都現代美術館でメンバーの一人、「電気服」の田中敦子の回顧展を観た。そのとき展示の内容が、ほとんど絵画中心であることに多少の不満を感じたのだが、「具体」そのものが基本的に絵画に特化したグループだったというわけだ。

たしかに初期の主力メンバーの絵画作品は、どれも非常によかった。やはり画家としての優れた絵画センスを持っていた人たちであることがわかる。くわえて、破天荒なインスタレーションやパフォーマンスによって開放された感覚が、画面上に横溢している感じもあった。
そしてその絵画路線のキーパーソンとして、フランスの批評家・画商ミシェル・タピエがいたこともこの展覧会で知った。

しかし、会の活動は急速にマンネリ化していったことも作品から何となく見て取れる。その打開のために60年代中盤から迎えた若い新メンバーたちの作品も、今の眼で見るとどれも小粒で、創立メンバーたちの初期のエネルギッシュな作品には遠く及ばない。
だから72年の解散は、リーダー吉原治良の死が直接のきっかけではあったが、「具体」のグループとしての命脈が尽きたという見方もできるのではないか。

ところで、当時、日本各地で同時多発的に結成された数ある前衛美術グループの中で、なぜこの「具体」が代表的存在として語られるのかは私にとってひとつの疑問であった。
今回の作品を観て「具体」のメンバーの作品が、同時代の日本の他の前衛グループよりも傑出していたとは思えない。しかもなお「具体」が他を差し置いて美術史に名を残し得たのは、次の三つの点によるのではないかと今展を見て思い当たった。
理由のひとつめは、リーダー吉原治良の一種独裁者的な指導の下、グループのコンセプトが明確に一つの方向性に収斂していたこと。他のグループは、民主主義的であったがゆえに、このような統一性は持てなかったのではないか。
理由のふたつめは、フランスのミシェル・タピエに認められることによって、「日本のアンフォルメル」として海外に紹介され、海外での一定の評価を得たこと。他のグループにはそのような機会がなかった。
理由のみっつめは、上のふたつめの理由とも関連するが、インスタレーション、パフォーマンスの活動を早々に切り捨てて、絵画のグループとして特化したこと。絵画は、一過性のインスタレーションやパフォーマンスと違って、海外への輸送も容易だし、モノとして時間を越えて残るので後世の評価も可能となるからだ。

それから会場の解説には、「具体」の活動が日本の高度経済成長と軌を一にしているという視点が示されていた。「具体」の明るく前向きな表現は、そうした日本の国そのもの発展の反映というふうに捉えられていた。
なるほど、そのとおりだろうと私も思う。しかし、同時に私には美術というものが時代の表層ではなく、もっと深層の普遍的なところに根差しているべきではないか、という思いもあるのだ。そのような矜持がもし「具体」にあったとしたなら、日本の高度成長を批評する視線も持ち得たのではないか。もしそうであったなら、大阪万博への参加は果たしてあり得たのだろうかとも思うのだ。

ところで、平日だったせいもあるだろうが、会場は空いていた。エルミタージュ展とはあまりにも違う人の入り具合だ。
展覧会のチラシの「世界が認めた日本の前衛美術グループ」云々というコピーを見て、海外の評価をありがたがる日本人の弱みを見透かしたエグい売り方だと鼻白んでしまった。しかし、こんななりふりかまわない売り文句を使わないと、人が入らないという担当者の危機感の表れだと思えば許そうという気になった(上からのもの言いで申し訳ないが)。

世界の美術史という視点で見ると、日本独自の美術と言えるのは、まず江戸時代以前の美術と、その伝統を受け継ぐ近代以降の日本画ということになるだろう。幕末から明治初期に西欧から移入された洋画は、その後、日本固有のガラパゴス的展開を遂げるが、西洋絵画の模倣の域を出るものではないだろう。
そして、近代以降、本当の意味で日本独自の美術と言えるのは、昭和50年代以降の現代美術ということになるのだと思う。その意味で、この時期の重要な動きの一つである具体美術協会の回顧展が、国立の美術館で開かれた意義は大きい。
今後もこの時期の他の動向について取り上げてくれることを期待したい。

2012年7月14日土曜日

レコ・コレ誌「ストーンズ・ベスト・ソングズ100」

「レコード・コレクターズ」誌の2012年8月号がいよいよ発売された。前号の予告で今号の特集が「ローリング・ストーンズ・ベスト・ソングズ100」であることを知った私は、自分なりに勝手にその順位を予想して、この発売を待っていたのである。
私のこの予想は第10位までで、ブログ上に発表しておいた。はたして、予想は当たっていたのだろうか。
おりしもストーンズの活動開始50周年とのことで、昨日はふつうのニュース番組でも、この話題が取り上げられていた。誰も彼もが昔からのストーンズ・ファンであるかのように、彼らのことを語っている。ほんとかよ。
まあそれはともかくとして、さっそく明らかとなった順位結果と私の事前予想とをつき合わせて検証してみることにしよう。

まず私の予想順位は以下の通り。その根拠については、次のページを参照していただきたい。「レコ・コレ誌次号特集「ストーンズ・ベスト・ソングズ100」を勝手に大予想

<ストーンズ・ベスト・ソングズ 私の事前予想>

第1位 「ブラウン・シュガー」
第2位 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」
第3位 「ホンキー・トンク・ウィメン」
第4位 「ストリート・ファイティング・マン」
第5位 「サティスファクション」
第6位 「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル(悪魔を哀れむ歌)」
第7位 「ギミー・シェルター」
第8位 「タンブリン・ダイス」
第9位 「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」
第10位 「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」

そしてレコ・コレ誌の結果は次の通り。( )内は私の予想した順位。

<レコ・コレ誌のストーンズ・ベスト・ソングズ100(10位まで)>

第1位 「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」(予想2位)
第2位 「シンパシー・フォー・ザ・デヴィル(悪魔を哀れむ歌)」(予想6位)
第3位 「サティスファクション」(予想5位)
第4位 「ブラウン・シュガー」(予想1位)
第5位 「ホンキー・トンク・ウィメン」(予想3位)
第6位 「ギミー・シェルター」(予想7位)
第7位 「タンブリン・ダイス」(予想8位)
第8位 「アンダー・マイ・サム」
第9位 「ユー・キャント・オールウェイズ・ゲット・ホワット・ユー・ウォント(無情の世界)」
第10位 「ゲット・オフ・オブ・マイ・クラウド(一人ぼっちの世界)」

まず順位がぴったり的中した曲は残念ながら一曲もなかった。しかし、順位はともかくとして、上位7位までは、予想した10曲から全部入っていた。いわば入選率は70パーセント。
しかも、順位が一つだけずれたのが3曲(「ジャンピン・ジャック…」、「ギミー・シェルター」、「タンブリン・ダイス」)、他の曲も順位の誤差は最大でも4位以内に収まっていた。
というわけで自分としては十分満足できる結果だった。

10位以下も含めてこのランキングでは、私が思っていたより全体的にデッカ時代の初期の曲が強かったようだ。私より年長(つまりそれだけ古くからのファン)の選者がけっこう多かったせいなのかもしれない。
「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」が第1位ということに異議はない。しかし、私が1位と予想した「ブラウン・シュガー」が4位とはねえ。「悪魔を哀れむ歌」や「サティスファクション」より下でいいのかなあ。デッカ時代強し。
また第8位と第10位の初期曲の10位ランク入りは、文字通り予想外だった。まあ2曲とも70年代以降もライヴで演っていたせいもあるのかな。しかし、この2曲が「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」(第11位)よりも上位とはちょっと意外。
第9位の「ユー・キャント・オールウェイズ・ゲット・ホワット・ユー・ウァント(無情の世界)」も、こんな上位に来るとは意外だった。仰々しくて私がきらいなだけかもしれないけど。でも、合唱団がはいるこの曲が、ストーンズの代表曲と言えるのだろうか?

私が10位以内に予想した曲で、圏外に散っていった3曲についてちょっとみてみよう。
事前に第10位と予想していた「ペイント・イット・ブラック(黒く塗れ)」は、第11位だった。うーん惜しい。初期曲の中では、「サティスファクション」と並ぶ代表曲と思うのだが。
事前第4位と予想した「ストリート・ファイティング・マン」が、まさかの10位落ちで第13位。この曲は、結果第2位となった「悪魔を哀れむ歌」や、結果第6位の「ギミー・シェルター」と重要度では同等の名曲だと思うので、この順位はちょっと納得できない感じ。
そして、事前第9位に予想した「イッツ・オンリー・ロックン・ロール」は、なんとなんとの第46位。これは完全にやっちゃいました。そんなにいい曲とは思わなかったけど、バンドのテーマソング的な意味合いで、票を集めるのではないかと読んだわけなのだったが。でもやっぱりみんなもたいした曲とは思っていなかったのね。これは、完全に読み間違い。

それにしても、全体にみてデッカ時代の初期の曲が思いのほか多かったのにはちょっと驚いた。20位までにも、「ルビー・チューズデイ」(第14位)、「19回目の神経衰弱」(第17位)、「ラスト・タイム」(第19位)なんかが入っている。
しかし、第15位「シーズ・ア・レインボー」はかなり意外。ひと昔前だったら絶対入らなかった曲だろう。長い間無視されていたアルバム『ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエスト』がサイケ再評価で見直されたせいなのか。

それに引き換え70年代中期以降の曲の影は、ものすごく薄い。まあ予想通りのことだけど。なにしろ10位以内の曲で70年代の曲は、71年の「ブラウン・シュガー」(第4位)と72年の「タンブリン・ダイス」(第7位)のみ。あとは、全部60年代の曲だ。
20位までみても、70年代中期以降の曲は、76年の「メモリー・モーテル」(第16位)と78年の「ミス・ユー」(第18位)しかない。それにしても、この2曲って、そんなにいい曲なの。

冒頭の活動50周年の話題にからめて言うと、このランキングの20位までの曲の内の大半(18曲)は、活動始めてから最初の10年間の曲ということになる。その後の40年間の曲はほとんどないわけだ。いくら長く活動しているとはいえ、これちょっと悲しくないかな。

以前にも書いたが、レコ・コレ誌のこのての曲単位のランキングの特集は、私には正直あんまり面白くない。しかし、今回は勝手に参加()させてもらい、十分楽しませていただきました。

                                        つづく関連記事>
レコ・コレ誌「ストーンズ・ベスト・ソングズ100」(つづき)

2012年7月11日水曜日

東京散歩「六本木から海を見に行く」 六本木から芝公園を通って竹芝ふ頭へ

 梅雨の晴れ間の一日、六本木の国立新美術館に展覧会(「具体」―ニッポンの前衛 18年の軌跡)を観に出かけた。一時半頃に観終えてロビーで休憩する。
例によって今日もこれから街歩きの予定だ。今日はここから東へ東へと歩いていって東京湾に到り、海を見ようと考えている。
今日のコースは公園・庭園めぐりコースでもある。じつは私は公園・庭園の愛好家なのだ。途中で公園・庭園を四つほど巡る予定。

<六本木から麻布台>

美術館を出て東京ミッドタウンに向う。今日は天祖神社の前を通るショートカットの道を通る。まだ梅雨だというのに日差しが強い。持ってきた帽子を出してかぶった。
ミッドタウンの前を通っているのが外苑東通り。この通りを渡って、ミッドタウン・イーストのわきを通り、その裏手に向う。
ミッドタウンの裏は、ミッドタウン・ガーデンという公園になっている。その一画にあるという檜町公園が、今回、手始めに向っている場所だ。
ミッドタウンにはこれまでにも何回か来たことがある。裏手の公園も一度歩いてみたことがあった。起伏のある芝生が中心で、ところどころに遊具と木立が配置されている。その一画に檜町公園があることを後で知ったのだが、どこなのか思い当たらなかった。そこで、今回はあらためて確認してみようというわけだ。

檜町公園はミッドタウン・イーストの後ろのレジデンス棟の裏にあった。さほど大きくない池を囲む一画だ。ミッドタウン・ガーデンとの境界はよくわからない。
檜町公園は、元は長州藩の下屋敷があったところだという。この池がたぶんその名残なのだろう。周回する道があり、岸辺には木立や石が配され起伏も作ってある。しかし、かなり最近(ミッドタウン建設時?)にきれいに整備されたようで、どの程度昔の面影を伝えているかは疑問だ。
しかしとにかくうまく日陰が作ってあって快適ではある。岸辺の木陰にあるベンチや、水辺に面した建屋の中に、本を読んでいる人がたくさん目についた。静かな都会のひと時だ。
ところで、その人たちが読んでいるのは、タブレットではなく一人残らず紙の本だった。都会でも紙の本は今だ健在のようだ。

再び外苑東通りに戻り、六本木交差点方面に向かって歩いていく。
このへんは六本木の中心に当たるはずだが、道が狭くて歩きにくく、ごみごみしていて場末っぽい。渋谷もそうだが、東京のいわゆる盛り場というのは、私のような地方の人間には、どこもかしこも「場末」に見えてしまう。どこにも中心がない。でもこの街の常連達には、楽しいスポットがいっぱいあるんだろうな。

外苑東通りと六本木通りが交差する六本木の交差点を渡って、そのまままっすぐ歩いていく。
通りの左側には、ドンキホーテの手前まで、タイ、トルコ、インドなどのエスニック料理の店が軒を連ねている。どれもテイクアウト用のカウンターがあって、チープで開放的な雰囲気。スパイスの強い香りがミックスされてあたり一帯に漂っている。こういうのも「六本木的」なのかな。
どれか食べてみたい気持もあったのだが、何だか勝手がわからないのでパスする。

気がつくと歩いている正面の方向に東京タワーが見える。今日はこのまままっすぐ進んで、あの下を通る予定だ。
しばらく行くと通りの右側にアクシス・ビルがある。この中にあるアクシス・ギャラリーには、何回か来る機会があった。このビルの地階から2階にかけて続く生活雑貨のお店は、デザイン・ビルの中のお店だけあってセンスがよくて見ていてとても楽しい。

アクシス・ビルの前を通り過ぎると、すぐ飯倉片町の交差点だ。ここを渡って、さらにまっすぐ進んでいく。このへんは麻布台で、街の感じも少し変わる。ごちゃごちゃした感じがなくなって、大きな建物が多くなる。
交差点を渡った角が麻布小学校、その先が外務省の公館と外交資料館、そして結構大きい建物の麻布郵便局と続いている。通りの向かい側には、ロシア大使館がある。そういう建物を外側から眺めながら通り過ぎる。
そして程なく道は桜田通りにぶつかり、ずっと歩いてきた外苑東通りはここで終わりだ。

<芝公園と増上寺>

桜田通りを渡って、聖アンデレ教会の前を歩いていくともうそこは東京タワーのある一画だ。
東京タワーの前まで来て下から見上げる。とにかくでかい。しかし、富士山がそうであるように、きれいに見えるのはやっぱり遠くから見たときだ。こんなにま近に寄って見上げると、即物的で何だかこれが東京タワーだという実感がわかない。
昇ってみようかなという気持もあったが、入り口付近がけっこう混んでいるように見えたのでやめることにした。スカイ・ツリーによるタワー・ブームの影響なのだろうか。

東京タワーのすぐ前の樹木に覆われた緑地帯の中に入る。ここは芝公園の一部で、もみじ谷というらしい。木陰の中に入ると、これまで歩いて来た炎天下の都会とはまったくの別世界だ。
人工的に作られた渓谷に沿って散策路がある。樹陰も深く、お地蔵さんがあったり、せせらぎを飛び石で渡る箇所や小さな滝まであってとてもよくできている。
せせらぎに沿って端まで歩き、そこから通りの向かい側の宝珠院側に道を渡る。

芝公園はとにかく広い公園だ。しかも、まん中に増上寺の広い境内と、それからなぜかホテルがふたつもあり、それを囲むようにリング状に続いているので、何だか取りとめがない。
とりあえず伊能忠敬の記念碑とか東照宮のある南側の部分に行ってみる。
表示にしたがって小山を登っていくと小高い開けた場所に伊能忠敬の記念碑があった。あの脅威の全国徒歩測量の基点がここ(厳密にはこの近く)なのだとか。その偉業にあやかりたいと手を合わせて拝むつもりでやって来たのだが、その碑はわりと新しくて安っぽいものだった。後で調べたところ、明治時代に建てられた碑が戦災で失われたため、昭和40年に新しいデザインで再建されたとのこと。このデザインじゃあ拝む気にもなれません。
隣の芝東照宮にお参りし、その南の梅林の中をしばらく散策する。地図で見るとたしか、このあたりに丸山古墳というのがあるはず。表示にしたがってそちらの方に歩いていくと、その先にはさっきの伊能忠敬の小山が…。なんと、さっき知らないで登ったあの山が、丸山古墳だったのだ。

だいたい芝公園の様子もわかったので、今度は増上寺の境内をのぞいてみることにする。
しかし、何か相当大きなお葬式があるらしく、本殿の前には大きなテントが設営中で、関係者があちこちにいてあわただしい雰囲気。落ち着かないので、境内をぐるっと巡って早々に退散する。
しかし、徳川家の菩提寺だけあって、とにかくその広いことと大きいことには感心する。増上寺で思い出すのは、落語「芝浜」に出てくる時を知らせる鐘の音だ。それから、昨年、江戸東京博物館で見た、この寺所蔵の狩野一信の五百羅漢図も印象深い。やっぱりたいしたお寺なんだなあと感じ入る。

<芝離宮庭園から竹芝ふ頭公園へ>

増上寺の正面の大きな門(なるほど「大門」だ)をくぐって、大門通りをふたたび東へ向って歩き始める。
世界貿易センタービルの前を通り、山手線の浜松町駅を通り過ぎる、大門通りはここから名前が変わって竹芝通りとなるらしい。
浜松町の駅を越えるとすぐ右側に旧芝離宮恩賜庭園の入り口がある。
じつは庭園愛好家としては、本日のコース中でここがいちばんだいじな目的地なのだ。ここはもともと小田原藩の上屋敷として作られ、明治になって宮内省が買い上げて離宮となったところだ。「江戸最古の大名庭園」というのが、運営する都のつけたキャッチ・フレーズだ。

受付を通って園内に足を踏み入れる。どうしても至近にある広大な浜離宮庭園が思い浮かび比較してしまう。あちらに比べれば、こぢんまりとした印象だ。しかしゆっくりと中央の池の周りを巡っていくと、変化に富んだとてもよくできた庭園であることがわかる。
堤を通って渡る島があったり、園内を一望できる小山が築かれていたりと、狭いながら起伏が豊か。また四本の石柱に囲まれた不可思議な空間(茶室の跡)や、奇岩をあしらった小山など見所も多い。しかもこれは多少思い込みかあるせいかもしれないが、全体に奇を衒い過ぎない抑制の効いた上品な感じがある。
これはここだけに限らないのだが、公園の周囲を見回すと高層ビルがいくつも立ち並んでいる。このビルの狭間にある緑の空間という取り合わせも、私にはとても面白く感じられる。
江戸の風情を満喫して、庭園を後にする。

竹芝通りに戻り、東に向う。すぐ首都高の下をくぐり、ゆりかもめの下をくぐると、そこは竹芝ふ頭だ。
半円の広場の真ん中に帆船のマストが立つエントランスを抜けて、階段を上がると東京港を見渡せるデッキ・スペースがある。これが竹芝ふ頭公園だ。
水平線は残念ながら見えない。正面には海を挟んで、豊海の埋立地。ずっと右の方にレインボーブリッジが見える。
時間は午後四時、歩き始めてから約二時間半だ。めいっぱい歩いたわけではないからへとへとというほどではないが、さすがにちょっと疲れている。
日陰のベンチに座って、港の風景を眺めながら、コンビニで買ってきた缶ビールをゆっくりと飲んだ。海を渡る風が、くたびれた体に心地よかった。

今日の巡ってきた場所を思い返してみる。檜町公園、芝公園、芝離宮庭園、そしてこの竹芝ふ頭公園。みんなそれぞれに違った個性を持っている。盛りだくさんのいい散歩ができたと満足。
しばらく休憩した後、すぐ近くの竹芝駅からゆりかもめに乗って新橋まで行き、山手線に乗って帰った。

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2012年7月5日木曜日

手打ちラーメン自作に到る長い道のり

自分でラーメンを作って食べるようになって約一年になる。
最近、麺の作り方に大きな進歩があって、やっとわれながらそこそこ満足のいくものが食べられるようになった。
今回はここまでの工夫の数々や苦労話を振り返ってみることにする。

なお、その途中で考えついたいくつかのラーメンのレシピや、最近たどり着いた手打ち麺のレシピは、それぞれ別ページで紹介しているので、この文中では省略してある。レシピに興味のある方は、まずそちらを参照されたい。

勤め人をしていた頃、足しげく通っていたラーメン屋があった。激辛ラーメンが売りのこの店の味に、私は完全にハマってしまった。ひところは、二日に一度はここのラーメンを食べていたほどだ。しかし仕事を辞めて隠居の身となってからは、めったに行けなくなってしまった。
でもやっぱり舌がなじんだあのラーメンが食べたい。そこであの店の味を何とか自宅で再現してみようと思い立ったのだった。こうして長くて楽しい道のりが始まった。

自分用のためだけだから、あの店のように鶏がらを大きな寸胴で何時間も煮込むというわけにもいかない。そこで、多少(というか、かなり)妥協して、各種スープの素や魚介系のダシの粉末、それに中華系の調味料などをいろいろ調合し、その他にんにくや野菜も加えて、何とかそれなりのものを作ろうと試みた。
その頃から試行錯誤をしながら毎日毎日飽きることなく、お昼にラーメンを作って食べ続けることとなる。

例のラーメン屋には1,2か月に一度くらいの頻度で立寄る機会があった。そのたびにやっぱり「本家本元」は旨いなあと感じいり(当然だ)、自作ラーメンの味の、「本物」との大きな落差にがっかりしたものだ。
しかし、そのつど自分の作った味のどの辺が足りないのかチェックして、微調整を繰り返していた。まあこちらは略式レシピだから出来ることと出来ないことがあるわけだが。
その成果である私なりのラーメンのレシピは、このブログ上でそのつど何度か紹介している。

 この間、麺はずっと、スーパーで買ってきた市販のものを使っていた。つけ麺のブームは家庭にまで及んでいるらしく、つけ麺用の太い麺がスーパーでも容易に入手できる。この麺が例の店で使っている中太麺に近い太さなので、だいたいこれを買ってきて食べていた。
ところが今年になって、スープだけではなく、麺も自分で作ることを思いついた。べつに市販のものに大きな不満があるわけではなかった。ただ自分でときどきうどんを打っていたので、道具もあることだし同じ要領でラーメンの麺も出来ないものかと考えたのだ。

さてラーメンの麺の材料として「かん水」というものがある。調べてみると「かん水」はラーメンの麺に特有の添加物で、麺に弾力と滑らかさをだすという。ラーメンの麺独特の黄色い色もこの「かん水」によるものらしい。しかし、これをスーパーなどで見かけたことはない。
ネットで調べてみると、「かん水」は入手が難しいものらしい。
それからまた、「かん水」は食品添加物の一種なので、あえてこれを使わない「無かん水」のラーメンというものがあることもネットで知った。つまり「かん水」は無くてもよい、あるいはむしろ無い方がよいという考え方もあるようなのだ。
そうした時、「かん水」の代わりに玉子を使う玉子麺のレシピというのを見つけた。

「かん水」が無くても、玉子がこれに代わるならと、さっそく作ってみることにした。しかし、やはり自分なりの試行錯誤が必要だった。
小麦粉は中力粉を使い、これに塩と玉子と水をあわせてこねて生地を作る。これらの材料は玉子を除けばうどんとまったく同じだ。
作り方も、うどんのときと同じように、こねた生地をビニールの袋に入れて足で踏む。平らに伸ばしては折り畳み、また足で踏んで平らに伸ばす。これを数回くりかえすのだ。
その後1,2時間放置して熟成させるのもうどんと同様。
ちなみにこの材料の小麦粉をデュラムセモリナ粉に置き換え、オリーブ・オイルを加えるとパスタそのものである。

それから麺棒で薄く延ばして包丁で細く切ることになる。これがかなり難しい。まずなかなか思うように薄くならない。どうしても厚さ2ミリくらいまでしか薄くできないのだ。
さらにそれを折り畳み、こま板を当ててそば包丁で切るのだが、細くしようとすると、うまくそろった太さにできない。
麺は茹でると生の状態よりかなり太くなるので、茹で上がりはラーメンというよりうどんに近いもの、というかほとんどうどんそのものだった。

生地の伸びをよくして薄くするために、水分の量を加減したり、中力粉の一部を薄力粉に置き換えたりといろいろ工夫をした。
しかし、色こそ玉子の色がそのまま残ってラーメンらしい黄色だが、コシはあっても滑らかさが足りない。やっぱりどうしても、うどんに近い麺になってしまう。
しかし玉子麺には、それなりのやさしい食感と美味しさがある。それに私の作るスープとの相性も悪くはなかった。まあとりあえずこれでもいいことにしようと思った。
麺を手作りし始めてから、だいたい一ヶ月くらいかかって、材料の配合の割合と作り方の手順がほぼかたまった。そのレシピもブログ上で紹介している。

それからは、朝、生地をこねては寝かせ、昼前に延ばして切って麺を作る毎日。しだいに生地のこね方や延ばし方の要領もよくなり、麺を切る技術もそれなりに上達して、以前よりは細く切れるようになっていった。
美味しい毎日が続いた。

さて、ラーメンを自作し始めて約一年、麺を手打ちで作り始めて半年くらい経った今年の6月、いよいよ私のラーメン作りは次の段階に入ることになる。「かん水」を使った本格的な麺作りを試みるようになったのだ。
きっかけは「かん水」の代用として重曹が使えることを知ったことだった。
かねてから「かん水」を使って麺を打ってみたいとは思っていた。しかし、ラーメンの麺を手作りするのは、蕎麦やうどんほど一般的ではないようで、材料の「かん水」も、ネットでは業務用の比較的容量の大きいものしか売っていなかった。少量の入手は難しいようだ。そのためなかなか思い切れなかったというわけだ。

ところが、重曹がこの「かん水」とほぼ同じ成分なので、「かん水」の代わりになるという記事を見つけた。重曹ならスーパーで容易に手に入る。そこで、さっそく重曹を買ってきて試してみた。しかしすぐにはうまくいかなかった。
そこで、あらためてじっくりと重曹を代用にした麺の造り方について調べてみたのである。ほんとにネットってありがたい。
数は少ないが、いくつかのブログで作り方が紹介されていた。それらを見比べながら整理してみて、だいたい次のようなことがわかった。
・重曹を「かん水」の代用にすることができる。
・その際、重曹を水で溶き、いったん65度以上で加熱する必要がある。炭酸水素ナトリウム(重曹)を分解して、炭酸ナトリウム(「かん水」の主成分)にするためだ。
・成分的には「かん水」1gは、重曹だと1.6gに相当する。
「かん水」の使用量は、小麦粉の1~2パーセントなので、重曹で代用する場合は、その1.6倍を使用する必要がある。
・「かん水」は使い過ぎると、麺の味をそこなってしまう。

しかし、人によってまちまちの点もいくつかあった。
たとえば麺の主原料は強力粉なのだが、これにつなぎとして少し薄力粉を入れるという人もいた。また、うどんのときは必ず加えるのだが、塩を入れる人と入れない人がいる。
それから、ラーメンの麺特有の黄色い色は、本来「かん水」によるものなのだが、重曹で作ると、そのせいかどうか定かでないが、色が若干薄い。そこで鮮やかな黄色になるように、着色料(くちなし)を加えるという人もいた(市販の麺も加えているらしい)。

 結局このような疑問点は自分でいろいろ試してみて、何とかやっと自分なりの配合と手順に辿りついたところだ。
作業上でこれまでとの違いは、「かん水」を入れると生地の段階でかなり弾力があるので、麺棒で延ばすときに手間がかかることだ。麺棒を押し付けて平らにしても、また元に戻ろうとして少し縮んでしまう。だからこれまで以上に何度も根気よく延ばす必要がある。

こうして「かん水」入りの麺を作って食べてみると、やっぱりラーメンの麺とうどんとは、まったく別物であることがわかる。
うどんは塩を入れることによって強いコシが生まれる。しかし、滑らかさはなかなかでない。プロの職人は技術で滑らかさをだしているのだろう。素人には難しい。
ところが「かん水」を使うと、麺はコシと同時に弾力もあってしなやかになる。素人でも比較的容易に、弾力としなやかを得ることができるのだ。
思えば玉子麺を食べていると、汁がしょっちゅう丼の外にはねたものだ。麺を箸ではさみ、持ち上げて口に運ぼうとすると、麺が暴れて汁を飛ばすのだ。ところが、かん水を使った麺は、そのような時でも、しなやかなので箸からすっと下に流れ、注意していれば玉子麺ほど汁ははねたりしないのだ。こんなところでも違いを実感した。

というわけで何とか一応満足できる麺が打てるようになった。
今は、毎日、美味しいラーメンを食べている。しなやかで弾力のある歯応えがうれしい。
ここまでの道のりをあらためて振り返ってみると、やっぱり手作りというのは楽しいものだ。最終的な完成形を食べるのはもちろんだが、そこに到るまでの改良の過程もまた楽しい。
ラーメンは一日一回お昼に食べるだけだ。だから、つまり実験は一日に一回しか出来ない。今度はここをこうしよう、あそこをああしようと思っても、試せるのは一日一回きり。試行錯誤は遅々としてなかなか進まない。しかしこののんびりさ加減を、今は逆に楽しんでやろうという気持になった。
何といっても食べに行くよりお金もかからないし、こんなことを毎日していられるのは最高のぜいたくかもしれない。
では、今日もいただきます。

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2012年7月3日火曜日

ラーメンの手打ち麺のレシピ

〔概 要〕

ラーメンの麺を手打ちで自作するレシピ。
以前玉子麺のレシピを紹介したが(2012年3月「「極辛麻婆らーめん」の自作レシピ」)、ラーメンの麺としては今回のレシピの方が本格的だ。
中華麺を作るときの添加物であるかん水の代わりに、重曹で代用する。かん水は少量の入手が難しいのに対し、重曹は手軽に入手できるからだ。
麺は手で切る切り麺。パスタ・マシンではなく、麺棒で生地を薄く延ばして包丁で切る方式。したがって、そのための道具(のし板、麺棒、駒板、蕎麦切り庖丁)が必要。

〔材 料〕 (一人分 できあがりの生麺で約180グラム)

強力粉 120グラム
水     60グラム (小麦粉の50%)
重曹    3グラム (小麦粉の2~3%)
塩      1グラム (小麦粉の1~2%)

〔手 順〕

手順1 重曹で代用かん水を作る
  
① 計量した水と重曹を鍋に入れて火にかける。
② 温度が上がると気泡(二酸化炭素)が出てくるので、出なくなるまで加熱し続ける(65度以上で1~2分くらい)。
③ 気泡が出なくなったら、火を止めて冷ませば出来上がり。
④ 再度計量し、蒸発して減った分の水を足す。

手順2 生地を作る

① 大きいボールに材料を全部入れて手で混ぜ合わせる。
*最初かなり粘るので、最初だけスプーンを使ってもよい。
*湿っている部分と粉のままの部分ができるので、なるべく水分が均等にいきわたるように混ぜる。
② ある程度混じったら、ひとつにまとめる。
③ まとまったら手のひらでボールの底に押し付け、平らに延ばす。これを二つに折り、また平らに延ばす。
折る方向を変えながらこれを4~5分間繰り返す。
④ 最後に丸くにまとめて、乾かないようにビニールの袋に入れる。このまま2~3時間おいて熟成させる。
*しばらくおいておくと、水分が全体にまわって滑らかな感じになる。

手順3 麺を切る

① 片栗粉を打ち粉にして、のし板と麺棒で生地を薄く延ばす。ある程度平らになったら、麺棒に巻きつけて転がし、さらに延ばす。
生地がだいたい30センチ四方になれば終了。
② 生地を二つに折る。間に打ち粉をたっぷり振っておく。
それをまな板に移し、さらに上から打ち粉を振る。
③ 駒板を当て、蕎麦切り庖丁でできるだけ細く切っていく。
*私は慣れてきたので、けっこう細く切れるようになったつもりだが、それでもまだ太麺~中太麺くらい。
④ 切り終わったら切断面に粉がまわるように手でよくほぐす。
*切断面がくっついたままの部分があれば、ていねいにほぐしておく。
⑤ 好みで縮れ麺にしたい場合は、いったんほぐした後また少し力を入れてひとつにまとめる。こうしてからほぐすと、縮れができる。

手順4 麺を茹でて盛り付ける

① 並行してスープを作り温めておく
*他ページにいくつかスープのレシピを掲載しているのでご参照を。
② 鍋に麺を茹でるためのお湯(1500cc以上)を沸かす。
③ 沸騰したらほぐしながら麺と投入する。
茹で時間は2分前後。麺の太さによって変わる。
④ 茹で上がりを見計らって、丼を温めておく。
⑤ 茹で上がったら麺をザルにあけ手早く湯きりをして丼に入れる。
⑥ 麺の上からスープをかけて出来上がり。

〔おまけ〕

切った直後の麺の断面は切り麺なので四角だが、茹でると円に近くなる。
また、茹でているうちに色も黄色になり、ラーメンの麺らしくなる。市販の麺ほど鮮やかな黄色ではないが、市販のものは着色料を使用しているものもあるらしい。
食感もかん水を使わないうどんや玉子麺と違って、コシに加えて滑らかさがありかなりいい感じだ。