2013年6月19日水曜日

お赤飯日記

■■ ○月△日 お赤飯が食べたいと思う

お赤飯が食べたいと思った。

もともと私はお赤飯が大好物。
しかしそのことを人前で言ってはいけない、と、うちの奥さんからは釘を刺されている。いい大人が、お赤飯が大好きなんて言うとヘンに思われるというのだ。そうなのかな。
私の両親はお赤飯が大好きだ。私の叔父もお赤飯が大好きだった。だから私のお赤飯好きは血筋というわけだ。

しかし、お赤飯というのはかなり手間がかかるものだ。
 ときどきうちの母がお赤飯を作る。まずもち米と小豆は一晩水につけておかなければならない。それから、小豆は茹で、もち米は蒸し器で蒸し上げる。つまり足掛け二日間かかる上に、段取りもかなりの手間というわけだ。炊飯器に入れてボタンをポンというわけにはいかない。

それでもお赤飯が食べたいと思ったのだ。食べたいと思ったときに気軽に作れたらどんなにいいだろう。


■■ ○月□日 炊飯器で炊いてみたが失敗

ネットでいろいろ調べてみたところ、やはり蒸して作るのがいちばん美味しいらしい。しかしこれだともち米を一晩浸水する必要がある。
何とかもうちょっと手軽に出来ないものか。そういえば、うちの炊飯器には「おこわモード」というのがあったはずだ。とりあえずこれでやってみることにした。

もち米とささげ豆を買ってくる。
まずささげ豆を煮る。だいたい10分くらいで硬めに茹で上がった。煮汁には豆の色が出ている。
この煮汁を冷まして、洗っておいたもち米を浸して色づけする。だいたい1時間。
その後もち米と煮汁を炊飯器に入れて、釜の内側のおこわ用の目盛りよりも、やや少なめに水加減する。
そして「おこわモード」でスイッチ・オン。楽しみに炊き上がりを待つ。
約一時間で完成。色は実にいい感じだ。豆の硬さもちょうどいい。しかし、ご飯が全然ダメだった。柔らか過ぎてべちゃっとしている。これでは失敗だ。消化にはよさそうなんだけどねえ。

今日のウンチク ささげ豆の話

本格的なお赤飯は、小豆ではなくささげ豆を使うのだそうだ。
ささげ豆は小豆より粒が小さくて皮が厚い。煮たときに小豆は皮が裂けやすいが、ささげ豆は破れない。皮が裂ける小豆は、切腹に通じるとかで、江戸では武士に嫌われ、ささげ豆が使われるようになったという。
ささげ豆のいいところは、前夜からの浸水がいらないことだ。すぐに煮ることができるし、しかもかなり短時間で煮える。
なお、ささげ豆の量は、もち米の1割が適量とのことだ。


■■ △月○日 再び炊飯器で炊いたがまた失敗する

前回の失敗の原因は、炊く前にもち米を豆の煮汁につけて吸水&色づけしたせいかもしれない。そこで、今日は事前の吸水はなし。研いだもち米をそのまま炊飯器に入れ、豆の煮汁で炊くことにする。水加減はお釜の内側のおこわ用の目盛りどおりにする。
そしてスイッチ・オン。はたして今日の出来は?
結果は…、またしても失敗。きのうよりはいくらかマシだが、やっぱりべちゃっとしている。
もうこの炊飯器の「おこわモード」は信じないことにする。
やはり炊飯器ではダメなのか。

今日のウンチク もち米の水加減

ネットでもち米について調べていると、もち米を炊くときの水加減は、普通のお米のときより少なめにすると必ず書いてある。しかしどのくらい少なめにするのかは、けっこうまちまち。
理論的には、重量比でもち米の0.81.0くらいの水がちょうどいいらしい。もち米1合は150gだから、もち米1合を炊くために必要な水は、何と120~150ccということになる。
なぜ「何と」なのかというと、水が少な過ぎてもち米が、完全に水に浸らないのだ。米粒が水面より上に出てしまう。これでは炊けない。かといってこれ以上の水を入れると、べちゃっとなってしまうわけだし…。だからもち米は、蒸すものなのだ。なるほどねえ。

炊飯器の「おこわモード」の場合、釜の内側のおこわの目盛りにあわせて水加減する。このとおりに水を入れると、もち米1合のとき、水は170~180ccだった。理論上は120~150ccでいいのだから、これでは当然多過ぎる。なるほどべちゃっとなるはずだ。


■■ △月□日 もち米にお米をミックスして大成功

理論的にはもち米を炊飯器で炊くことは出来ない。しかし、これが可能になる魔法があった。それは、もち米にお米(うるち米)をミックスするのだ。最後の望みをこれに賭けてみた。そのレシピは次のとおり。

【炊飯器で炊くお赤飯のレシピ】

1 ささげ豆を煮る
・ささげ豆23gを水300ccで煮る。時間は約8~9分。
・煮上がったら冷まして豆と煮汁を分ける。

2 もち米とお米を混ぜて研ぐ
・もち米1合とお米0.5合。
・水や煮汁による吸水(色づけ)はしない。

3 炊飯器で炊く
・水加減は煮汁に水を足して20CCにする。
・米の上にささげ豆を乗せる(米と混ぜない)。
・「普通モード」で炊く。

このようにやってみたら、予想以上に美味しくできた。さっぱりとして、もちもち感もある。

炊飯器で炊けないはずのもち米が、お米を混ぜると炊けるのはなぜか。
お米を炊く時に必要な水の量は、もち米よりかなり多め。もち米の本来の水加減では米粒が水面より上に出てしまう。しかしこれに混ぜたお米の分のための水が加わると、全体が水の中に入るのだ。しかもその多くなった水は、炊き上がる過程でお米がちゃんと使うから、もち米がべちゃっとなることはない。多めに入れた水をお米が吸い取ってくれるイメージだ。

今回の水加減の根拠は次のとおり。
・もち米1合は150g 必要な水は 150g×0.8=120cc
・お米0.5合は75g 必要な水は 75g×1.3=約100cc
・したがって全体の水は 120+100=220cc

ネット上では炊飯器で作るお赤飯(とか炊き込みおこわ)のレシピがたくさん紹介されている。これらをよく見ると、もち米だけではなく、もち米とお米を混ぜているのが大半だ。
 私はてっきりお米を加える理由を、もち米は値段が高いので、お米で高(かさ)を増やすため、あるいはもち米のもちもち感をセーブするためなのかと思っていた。ところがそうじゃなかったのだ。でも誰もそんなこと書いてなかったな。


■■ □月○日 もち米をセイロで蒸すが失敗する

前回の成功で勢いづき、今度は本格的に蒸してお赤飯を作ろうと思い立った。中華セイロがあるのでこれを使うことにし、蒸し布を買ってくる。
炊飯器のときと同様、まずささげ豆を煮る。
もち米の色づけのため豆の煮汁と研いだもち米を鍋に入れて加熱した。もち米が煮汁を吸って色がつく。
セイロに蒸し布を敷き、そこへ色付けしたもち米を入れて、蒸す。目安は30分から40分くらいとのこと。
しかし、15分経ったところで、様子を見たらお米がもう柔らかくなっている。あわててボールにあけたら、べちゃっとしたお赤飯になっていた。これじゃあ炊飯器で炊いたのと同じだ。わざわざ蒸した意味がない。と、がっかりする。

あきらかに蒸す前に、鍋で煮たのが失敗の原因だ。これはネットのオール・アバウトにあったレシピ。
蒸す方法の場合は、もち米に色をつけるために、事前に豆の煮汁に長い時間浸しておくのが普通だ。しかし、この煮汁と一緒に鍋で煮る方法なら、短時間で手軽だと思ったのだ。しかしやっぱりダメだった。オール・アバウトさん責任とってくれー。

今日のウンチク もち米の吸水時間

一般的にもち米を蒸す場合は、その前に一晩水に浸けておくとされている。
理論的には、30パーセントの吸水で、もち米は炊けるという。2時間浸けておけば、40パーセントは吸水するというから、これで十分炊くことは可能なわけだ。
というわけで、次回はもち米の吸水&色づけを、2時間にしてみることにする。


■■ □月△日 セイロで蒸したお赤飯、今度は大成功

セイロに再度挑戦。今度は、研いだもち米を2時間ほど豆の煮汁に浸けて色づけ&吸水させた。その上でセイロで蒸したら大成功。そのレシピは、以下のとおり。

【蒸して作るお赤飯のレシピ】

1 ささげ豆を煮る
・ささげ豆23gを水300ccで煮る。時間は約8~9分。
・煮上がったら冷ます。

2 もち米を煮汁に浸す
・もち米1.5合を研いで、冷ましたささげ豆の煮汁に浸す(吸水と色づけのため)。煮汁にささげ豆が入ったままでよい。
・時間は約2時間。
・時間になったら、ささげ豆の混じったもち米と煮汁を分離する。煮汁はとっておく。

3 セイロで蒸す
・セイロの上に蒸し布を広げ、もち米とささげ豆を入れる。
・入れたもち米の上をふさぐように蒸し布をたたむ。
・セイロの蓋をして、蒸気の上がっている鍋にのせて蒸す。
・強火のままで、時間は30分。
・途中10分おきに、ささげ豆の煮汁を蒸し布の上からまわしかける(うち水)。1回にかける煮汁の量は50~100cc
・途中20分経ったところで、もち米を蒸し布に包んだまま、上下をひっくり返す。

こうして出来上がったお赤飯の出来ばえはどうか。
ご飯の色はちょうどいい感じだ。食べてみると、私好みの硬めの炊き上がり。さっくりしていて、しかももちもち。このさっくりというのが大事で、炊飯器では絶対に出せない。 
豆は硬めで、ご飯の食感とのバランスもよし。この豆の風味と、ほんのりとしたご飯の甘さもベスト・マッチだ。

この蒸して作る方法というのは、なかなかおおらかなところがよい。材料の分量とか水加減とか、調理時間もかなりアバウト。しかも蒸すときは、様子を見ながら蒸すので、微妙な好みに合わせて仕上げることができる。出来上がりを楽しみにしながらゆったりした気持でキッチンに立てるところがいい。

お昼ご飯にする。インスタントの赤だし味噌汁と、今日のおかずは、キュウリの浅漬けに油あげの煮たの。油あげの煮たのは、私にとってお赤飯の最高のパートナーなのだ。それで、わざわざ作っておいたのである。そして忘れてならないごま塩の大瓶。
質素に見えるかもしれないが、私にとっては最高の御馳走メニューだ。
一口ごとにしみじみと美味しいなあと味わいながら食べた。
昔はもち米は貴重品で、慶事や祭りなど晴れの日にしか口にすることができないご馳走だったという。それを、こんな何でもない日の何でもないお昼に食べられるとは、何てありがたいことだろう。幸せな昼食だった。

2013年6月13日木曜日

越前風おろしたっぷりそば

大根を冷蔵庫の中で持て余してしまうことがたまにある。
おでんにも入れた。風呂吹き大根も作った。さて、それでも残った大根を一気に使い切るにはどうしたらよいか。

そんなとき私は、おろしそばを作って食べる。
おろしそばといっても、たぶん普通の人が思い浮かべるものとはだいぶ様子が違っている。大根おろしがとにかく大量。
大量に作った大根おろしにめんつゆをかけて、そばのつけ汁にするのだ。つまり水なしで、大根おろし100パーセント。
茹でてセイロに盛ったそばを、このつけ汁につけて食べる。どっぷりと浸し、おろしをそばにからめて一緒にすくいながら食べるのだ。なかなか豪快でしょ。

ところで、たいていのそば屋にはメニューに「おろしそば」がある。しかし「おろしそば」と言えば、本来は越前そばのことなのだ。
もうずいぶん前のこと。福井県出身の知人に連れられて日本橋にある越前そばのお店に行ったことがある。
聞けば福井県もそばの産地であり、伝統のそばがあるとのこと。私の住んでいる茨城も有数のそば産地であるから、福井のそばとは如何なるものかと思いながら出てくるのを待った。

出てきたのは、一見して普通のもりそばだ。そばの色が、老舗のそば屋の気取った白っぽい色ではなくて、田舎風に濃いめなのに好感を持つ。蕎麦殻まで挽いてそば粉にするので、色が濃くなるのだが、その方が風味が強くて私は好きだ。
しかし、普通のそばと決定的に違っていたのはつけ汁だった。大根おろしの汁だけを絞って、それにかえしを加えたものだという。
かえしとはしょうゆ、砂糖、みりんを合わせて煮てから寝かせたもの。そばのつけ汁は、これをだし汁で割ったものだ。だし汁の変わりに、このお店では大根おろしのしぼり汁を使っているわけだ。しかもその大根は、辛味大根でけっこうピリリとくるのだが、これがまたいい。
かなり個性的だが、印象に残る美味しいそばだった。

後で調べてみると、越前そばは越前おろしそばとも言うくらいで、大根おろしと切っても切れない関係にある特徴のあるそばなのだった。
その食べ方には、ぶっかけとつけそばの二通りがあるという。ぶっかけは、そばに大根おろしを乗せ、その上からツユをかけて食べる。つけそばは、大根おろしにツユを加えて、これにつけながら食べる食べ方だ。
日本橋のお店で食べたつけ汁は、大根おろしの汁だけを絞って使っていたが、あれは都会風のアレンジだったのだろう。本来は大根おろしを絞らずそのまま使うものらしい。

面白いのは、福井もけっこう寒い地方のはずだが、越前そばには温かいツユで食べるいわゆるかけそばの伝統がないことだ。どうしてだかは知らない。しかし、そばは温めるとコシを味わうことが出来なくなるから、何といっても冷たいもりそばに限る。かけそばがないとは、この越前そばを伝えてきた人たち、なかなか通ではないか。

最近のそば屋のメニューに、温かいかけそば系と冷たいもりそば系に加えて、冷やし系というのを見かける。浅い器に盛った麺に具材を散らし、その上からツユをかけたものだ。
 これは、冷やし中華か、あるいは讃岐うどんの「ぶっかけ」をまねて、最近になって生まれた食べ方かと思っていた。ところが、越前そばにはちゃんと昔からこのぶっかけの伝統があったのだった。

さてそういうわけで、今日の私のお昼は、越前風おろしたっぷりそばだ。
今日はこのためにわざわざ生そばを買ってきた。一応2食分180グラムを食べることにする。そばを茹でるお湯を沸かしながら、大根をおろす。
こういうときは、セラミック製の丸型のおろし器を使う。すごく便利だという評判を聞いて、ちょっと高いけど買ってみた。ところが、使い勝手が悪くて、めったに使っていない。できたおろしを器にあけるときに、まわりをびちゃびちゃに汚してしまうからだ。
しかし大量におろすときには、両手で大根を持ってごしごしできるので使っている。

このおろし器てひたすら大量の大根おろしを作る。今回、できたものをためしに量ってみたら280グラムあった。生そば180グラムは、茹で上がると270グラムになるはずだから。麺と大根おろしがほぼ同量ということになる。
小さなどんぶりに移した大根おろしに、めんつゆを50ccほど加えてみた。
茹で上がったそばを水にさらし、水を切ってセイロに盛る。これで出来上がりだ。

いよいよそばを、大根おろしのつけ汁につけて食べ始める。
つけるというより、そばをどっぷりと浸し、おろしをたっぷりとからめて一緒にすくいながら食べる要領だ。
大根おろしは、もう薬味の域をとうに越え、そばの引き立て役でももはやない。大根おろしそのものが主役といった感じだ。こうなると、そばはむしろ添えもの。でもそれでよいのだ。これは大根を美味しく大量に食べる方法なのだから。大根おろしだけだったら、こんなに美味しくたくさんは食べられないよね。

どんぶりの底におろしを少し残して麺を完食。ここに麺を茹でたそば湯を注いでゆっくりと飲む。今日の生そばには、けっこう打ち粉がついていたので、そば湯にもそれなりに風味がある。
ちょっとしたおまけの幸せ。ごちそうさまでした。

2013年6月11日火曜日

ムーン・ライダーズ 「バック・シート」

<ムーン・ライダーズ最高の名曲 「バック・シート」>

私にとって、ムーン・ライダーズの最高の1曲は、「バック・シート」だ。作詞と作曲は橿渕哲郎。ムーン・ライダーズの4枚目のアルバム『モダーン・ミュージック』(1979.10)に収録されている。

「バック・シート」は、フランスのヌーヴェル・バーグの監督として知られるルイ・マルの映画『鬼火』にインスパイアされて作られた曲という。他にもう一曲、『モダーン・ミュージック』のアルバム最後に入っている「鬼火」(クレジットは原案:松山猛、作詞:佐藤奈々子・鈴木慶一、作曲:鈴木慶一)も、タイトルから明らかなように、やはりこの映画からの影響を受けて作られている。

映画『鬼火』は、日本での公開は1977年。『モダーン・ミュ^ジック』の制作の2年前だ。しかし、フランスでのオリジナル公開は1963年のことだった。
かつては社交界の寵児として享楽的な生活を送っていた主人公の青年アラン。アルコール中毒の治療によるブランクの後に、再びパリに戻り昔の友人を訪ねて歩く。所帯持ち、芸術家、テロリストとして生活するかつての友人たち。
じつはアランはすでに自殺を決意しているらしいのだ。昔の友人たちとの対話によっても、アランは自身が生きるための価値観を見出せない。そしてついには、ピストルによって自らの命を絶つのだった。
この映画は、戦後の若者の価値観の喪失を描いた映画として高く評価されているという。私は見ていないのだけれど。

この映画の影響を受けた「バック・シート」は、自殺をテーマにした暗い曲だ。しかし、歌のシチュエーションは、映画の内容をなぞっているわけではない。さらに、車のバック・シートという安息の空間のイメージを歌の中心に据えている。

Aメロのシンコペートしたリズムに乗って始まる歌いだしは、軽い上に直截過ぎて今ひとつ。とくに「Looseな」という言い回しは、やっぱりちょっと大雑把。

Looseな 恋だった
Loose
な 海は素敵さ
Good Bye 今日までの僕
Good Bye
心はもう醒めている

しかし続くBメロのヨーロッパ的なサウンドと歌詞の世界は重く沈んでいる。

車走らせ夜明けまで 僕は優しくなれる
「スピードあげて」と君は言う Back Seat
道は海の中までも 続いていればいい
君はふるえて目を閉じる Back Seat

この辺の歌詞は、ニュアンスに富んでいて、ルイ・マルの『鬼火』とはまた違う、もうひとつの映画を観ているような気分になる。
やがて車は「がけの上にたどりつく」。そこで繰り返される次のようなBメロの歌詞。

車乗りすて振り向けば 見慣れた幸福
君は眠りにおちてゆく Back Seat
僕は暗いがけの上 静かに眠りたい
誰も知らない僕だけの Back Seat

しだいに死に近づいていく「僕」。冷ややかな意識の中で「見慣れた幸福」な日々が、ずいぶん遠いものに見える。死によって相対化される日常。
この部分のギターが素晴らしい。高音のギターの揺らめくような滑らかなフレーズは、それこそまるで青白く燃える鬼火のようだ。
そしてそのまま不安と解放への期待の中でこの歌は終わる。その後に残るダークで、しかもひんやりと美しい深い余韻がとても印象的だ。


<もうひとつの名曲 「モダーン・ラヴァーズ」>

「バック・シート」の入っているアルバム『モダーン・ミュージック』の中で、もう一曲好きな曲が「モダーン・ラヴァーズ」だ。
「バック・シート」のひとつ前の曲で、このアルバムを聴くときは、連続するこの2曲だけをリピートして聴いている。

「モダーン・ラヴァーズ」とは、ドライでクールな現代的な恋人たちという意味だろう。この曲の印象的なギターは、そんなイメージを反映させて、グルーヴ感のないジャスト・タイムのカッティングを繰り返す。
しかし、このタイトルとは裏腹に歌われている詞は、ウェットな心情を歌っている。そのウェットさが雨の空港の情景と巧みに重ねられている。まあほとんど演歌的な恋愛模様なのだが、そこがなかなか悪くない。

今夜こそは  おまえを残し
旅立つつもりだった  雨さえ降らなければ
デッキにうかぶ  バラのレインコート
おまえの瞳がみえる  夏むきの襟がみえる
雨のエア・ポートはブルー
やさしさはいつもブルー

「今夜こそは  おまえを残し 旅立つつもりだった」主人公。しかし、デッキに佇むレインコートを着た「おまえ」の姿をみつけて、やはり旅立てなくなってしまう。そんな自分の不甲斐なさに主人公の気持はブルーだ。

  MyLove MyLove MyLove MyLove
  冗談じゃないぜ ちょっと気になるだけさ
  モダーン・ラヴァーズ 
  モダーン・ラヴァーズ゙

そんな主人公が言う。自分たちはドライでクールなモダーン・ラヴァーズなんだ。おれは「おまえ」のことが、「ちょっと気になるだけさ」と強がりを言う。しかし、そうやって強がれば強がるほど、主人公の軟弱さ(優しさでもある?)ゆえのウェットでブルーな気持が浮かび上がってしまう。
そんな演歌的な心情と、いかにもニュー・ウェーヴ的なクールなギターの組み合わせが何ともいい感じだ。
 もっともムーン・ライダーズの詞に描かれているメンタリティは、基本的に演歌的あるいはフォーク的だと思う。私の中では、演歌とフォークはほぼ同一だ。


<私とムーン・ライダーズの悲しい過去>

私にとって初期のムーン・ライダーズはとても気になるバンドだった。だから『火の玉ボーイ』(1976.1)から、アルバムは一通り聴いていた。
しかし、新しいアルバムが出るたびに、正直なところいつもかがっかりさせられたものだ。それでも懲りずに、また次のアルバムが出れば聴いてしまったのはなぜか。それは、このバンドの知的で、一種ペダンチックなところに惹かれていたからだ。
アルバムごとにそんな期待と落胆を繰り返したあげく、結局『青空百景』(1982.9)や『マニア・マニエラ』のカセット・ブックあたりで、とうとう私とこのバンドとの縁は切れてしまったのだった。

現在私の手元にあるムーン・ライダーズのアルバムは、『火の玉ボーイ』と『イスタンブール・マンボ』と『モダーン・ミュージック』の3枚だけ。他のアルバムは、全部処分してしまった。

ムーン・ライダーズの一般的な印象は、玄人好きのする、ツウ好みのバンドであり、そのためにコアなファンが多くいるバンドといったところだろう。そしてさらに、メンバー各人のソロ活動や他のミュージシャンとの交流によって、日本のポップス界に隠然たる影響力を持つ強面(こわもて)のバンドというイメージもある。
またバンドが長く続いていることを「奇跡」(「化石」と言われるらしいが)と賞賛され、また音楽的な変わり身の早さを「時流の音に敏感」とほめ称えられたりしている。
しかし、その長い活動のわりに一度も一般的にブレイクすることもなく、また今日たとえば、はっぴいえんどに対するようなリスペクトを受けることがないのも事実だ。
それは彼らが商業的なポピュラリティーを目指さなかったせいもあるだろう。しかし結局、彼らの音楽そのものに魅力が欠けていたということなのだろうと私は思っている。

私にとって彼らの音はいつも中途半端で煮え切らなかった(ファンのみなさん、ごめんなさい)。
音楽性にあんまり独自性を感じない。それは時流にあわせてそのスタイルをころころ変えていたせいでもある。シティ・ポップから出発して、エスニックなものに寄り道し、今度はテクノ・ポップの方へ…。しかも、それぞれの取り入れ方が何とも中途半端。
たとえば『マニア・マニエラ』。このアルバムは、当時あまりにも実験的で難解過ぎるとの理由から、通常の形で発売されなかったとされている。私は実験的な音が大好きなのだが、このアルバムは、当時も今も全然とんがった音には聴こえない。せめてYMOの『テクノデリック』くらいには、実験的であって欲しかった。
それからムーン・ライダーズの歌を聴いていると、やっぱりこの人たちのメンタリティの根っこは良くも悪くもフォークなのではと思ってしまう。その歌にいつも等身大の日常感覚がのぞいている感じがあるからだ。


<アルバム『モダーン・ミュージック』>

1980年前後の日本のテクノ/ニュー・ウェーヴ期における私のアルバム・ベスト3は次の3枚だ。YMOは一応別として、それ以外で当時の私の印象に強く残ったものだ。

-モデル 『イン・ア・モデル・ルーム』(1979.8
ムーン・ライダーズ 『モダーン・ミュージック』(1979.10
平山みき 『鬼ケ島』(1982.6

『モダーン・ミュージック』は、今でもときどき聴くけれども、他のムーン・ライダーズのアルバム同様、良い曲もあるがダメな曲も多いアルバムだ。
ニュー・ウェーヴ・アルバム・ベスト3に選んでおいて何だけど、よくよく考えてみると、良い曲は2曲しかない。「モダーン・ラヴァーズ」と「バック・シート」だ。しかし、この2曲が特別に素晴らしいために、このアルバムの印象が強いのだった。

この『モダーン・ミュージック』について、「アルバム作成に際してなんのアイデアもなかった」が、かしぶち哲郎が持って来た曲「バック・シート」が核になって、アルバムの構想がまとまっていった、というようなことを後になって知った。そしてこの話に私はある意味で大いに納得したのである。
結局このアルバムは、核になった「バック・シート」ともう一曲「モダーン・ラヴァーズ」の2曲を除くと、あとはほとんどつまらない曲ばかり(ファンのみなさんゴメン)。なるほど、それらは「バック・シート」の付けたりとして作られた曲だったからなのか…。

たとえば1曲目の「ヴィデオ・ボーイ」(作詞・作曲:鈴木慶一)。音的にはヴォコーダーのボーカルなどでテクノ風味をあしらっているが曲は凡庸。歌詞の内容はヴィデオに振り回される現代生活を皮肉ったものだが、その批評の視点は月並みで浅いし、ユーモアもヒネリがなくてしかもすべっている。ファンのみなさんはどう思っているのだろう。
 その他どの曲も出来は似たりよったりで、曲としての魅力が薄い。
しかし、そこで歌われる恋愛模様がフォーク的で、しかも描き方が演歌的で浅い。つまり、古いと言うか旧来どおりの感覚なのだ。それが、テクノな意匠をまとっている。そのミスマッチが、いわば味わいどころと言えば言えるのかもしれない。

<追記2014219日)>

かしぶち哲郎が亡くなった。20131217日のこと。食道癌で療養中だったとのことだ。享年63歳。
年末の大瀧詠一の死去のニュースの陰で、失礼ながら、ひっそりと消えていったという印象。

「バック・シート」の作者は、自分のバック・シートに辿りつけたのだろうか。御冥福を祈る。


〔関連記事/日本のニュー・ウェーヴ・アルバム・ベスト3〕

-モデル 『イン・ア・モデル・ルーム』(1979.8
ムーン・ライダーズ 『モダーン・ミュージック』(1979.10
平山みき 『鬼ケ島』(1982.6

2013年6月7日金曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製らーめん」+「味付玉子」 2013

梅雨入り宣言の後、好天がずうっと続いている。絶対に本当はまだ梅雨には入っていないと思う。そんな6月初めのある日、所用があって水戸に出かけた。で、例によって「つけ麺 坊主」さんに寄る。
前回から中5日おいての訪問。6月になってからはこれが初めてだ。

平日の午前11時10分入店。先客は4人。みんな開店待ちして入った人たちなんだろうな。後客は6人。
券売機に向う。今日も例によって「特製らーめん」と「白めし」と「ビール」。そして今回のトッピングは「味付玉子」だ。
カウンター手前の右端に座る。麺とめしは普通盛りでお願いする。

早速到着したビールを飲みながら、厨房の様子を見るともなく見ている。ここの御主人のきっちりした仕事ぶりが気持ちよい。
たとえば麺の湯切りと水切り。ラーメンの麺は、茹で鍋からテボごとあげた後、そのまま勢いよく上下に振って湯を切る。ここの御主人のテボの振り方は、とにかくいつも真剣そのもの。毎回10回以上は降って完全に湯を切っている。

つけ麺のときは茹で上がった麺をいったん水にさらして締めた後、ザルにとって水を切る。御主人はこのとき,麺に上から手を添えて、ぎゅっと押している。こうすると完全に水が切れるのだ。
ちなみに水戸の駅ビルにある某人気店は、つけ麺の麺の水切りがかなりあまい。あまいと食べるとき味を損なうし、つけ汁がすぐ薄くなって具合がよくない。その店のファンの方々は、気にならないのだろうか。

それともう一つ、衛生面でも御主人はきっちりしている。ここの店は券売機で食券を買うシステムなのだが、ときどき大きいお札しかない客がいて、御主人が両替をしている。お札の受け渡しの後、御主人は必ず手を洗剤できちんと洗う。そして、さらにその後、アルコールで消毒もしているのだ。
当たりまえと言えば当たりまえなのだろうが、私はこういう場合に実際に手を洗っている店の人を見たことがない。

さてそうこうしているうちに「特製らーめん」到着。
今日はどんぶりのまん中のもやしと豚バラの小山のわきに、味付玉子がころんと乗っている。この味玉の表面には、唐辛子の粒がちらほら。さすが「坊主」さんだけあっては、味玉を漬けておく調味液も激辛なのだ。
全トッピング・チャレンジ・シリーズの4回目は。この味付玉子。私はトッピングの玉子はめったに頼んだことがない。なぜかというと、ラーメンに乗ってはいても、結局玉子は玉子としてあくまで単独で味わうことになるからだ。これまで食べてきた、ネギやバターやコーンは、ラーメンの味と一体となって、ラーメンの味を引き立て、豊かにしている。玉子にはそういうラーメンとの一体感がない。だから私は「坊主」さんでも、これまで2回くらいしか食べたことがない。
さて今回はどういうことになるか。

ここ2回の訪問で私の「特製らーめん」の食べ方の段取りに決まったパターンが出来た。次の三段階で食べていくのだ。
第1段階  まずスープをレンゲですくって味わう。刻みネギや具材のもやし、豚肉にはいっさい触れず、ただひたすらスープだけを味わい続ける。
この間ときどき、口直しにご飯を食べる。これがまたものすごく旨い。
第2段階  一応スープに満足したら、どんぶり中央のもやしと豚肉の山を崩してならし、さらにまん中辺りに小さな池を作る。そしてそこから、下の方にある麺を引っ張り出し、すくい上げて、今度は麺を味わうのだ。このときも、絡んでくるネギや具材を払いのけ、ひたすら麺だけを味わい続ける。
第3段階 こうしてスープと麺を十分堪能したところで、最後の段階に入る。すなわち、全体をなじませて具材と麺を一緒に食べ、ときどきスープを飲み、ときおりご飯で口直ししながら食べるのだ。
そしてそのまま麺と具材とスープとご飯を、同時に食べ終えるように加減しながら、完食に到るわけである。
こうして食べ終えると、何だかフル・コースを食べたような精神的な満足感が得られるのだ。

さて本日のスープはどうかな。脂、コク、甘さ、そして味噌の風味、どれもちょうどよい。最高のバランスだ。思わず心の中で、拍手をしてしまう。
それから今回は、どんぶりが到着した段階で、迷わずカウターのツボから唐辛子をたっぷり一すくい投入する。いつもちょっと辛さが物足りないのだ。
食べ始めた後で投入すると、唐辛子の粉の食感がよくないので、早めに入れてスープでふやかそうとしたのだった。しかし、どんぶり上の具材とトッピングの山の山頂付近に赤い雪のように留まってしまって、スープに達しない。そこで、スープを飲みつつ、レンゲですくったスープを山頂の唐辛子に回しかけたりしてみた。
食べ進んでいくと、この追加分の唐辛子がちゃんとその分きっちり辛い。口の中はひりひりで、鼻水と汗はいつもより多め。ハフハフしながらも食べることに没入する。ここしばらく、こんな感じがなかったので今日はうれしい。やっぱりこのくらい辛くなくちゃね。

さて、肝心の味付玉子だ。上の段取りで言うと、第1段階と第2段階の間は当然無視だ。第3段階のはじめ頃も、横に寄せておく。この玉子をいつ食べるか、頃合いを見計らうのが楽しい。
そしてやっと終わりが見えてきた頃、ようやく食べてみる気になる。ところが箸で二つに割ってみたところ、なんと…。中の黄身がとろりと全部スープの中に溶け出してしまった。かなり中身の柔らかいタイプの味玉だったのだ。前に食べたときはこんなだったかな。こんなことなら、がぶりと丸かじりすればよかった。
しかたなく、黄身が広がった辺りのスープを絡めながら麺をすくって食べる。玉子の味でほんのりとマイルドだったが、すぐに黄身成分は広がって薄くなってしまった。残った白身を大事に食べようと思ったが、勢いであっという間に食べ終わってしまう。
玉子のつけ汁の辛さは、スープが辛いのでほとんど感じなかった。食べ方失敗したかな。

しかし、とにかくスープまで完食する頃には、いつものように満腹&満足になった。唐辛子の追加投入によりアップした辛さのおかげで、体の中もすっきりした感じだ。ごちそうさまでした。

その後、今回は常磐線の線路沿いに続いている谷間の緑地帯を常磐大学の方まで散歩してから帰った。水戸には、街中に秘境があるのだった。

2013年6月3日月曜日

平山みき 『鬼ケ島』

平山みきのアルバム『鬼ケ島』(1982.6)は、平山みきのアルバムというよりも、むしろビブラトーンズのアルバムと言ったほうがより正しい。つまりビブラトーンズ・フィーチャリング・平山みき。
このアルバムは日本のニュー・ウェーヴの名盤の一つだと思うのだが、歌謡曲歌手平山みき名義であるためもあってか、今日、見落とされがちなのはとても残念だ。

『鬼ケ島』は、プロデュースが近田春夫。バックの演奏が近田春夫&ビブラトーンズ。曲も全曲近田春夫が作詞し、作曲と編曲をビブラトーンズのメンバー達が行っている。だからまさにビブラトーンズ・フィーチャリング・平山みきというわけなのだ。
演奏は基本的にテクノ/ニュー・ウェーヴ系の音だが、自由な実験精神にあふれていて、エキセントリックな音が随所に散りばめられている。その自由さゆえの躍動感が、アルバム全体にみなぎっているのだ。そしてそのようなクセのある演奏の上で、なお個性を強烈に発揮して舞う平山みきのヴォーカルもまた素晴らしい。

<テクノ/ニュー・ウェーヴの時代>

このアルバム『鬼ケ島』は、1982年の6月に発売されている。
1982年と言えば、1980年にピークを迎えたテクノ・ポップ・ブームが、拡散しながら大衆化しつつあった時期に当たる。
1979年にアルバム・デヴューしてブレイクしたYMOから始まるテクノ・ポップのブーム。「テクノ御三家」と呼ばれたP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスをはじめたくさんのテクノ/ニュー・ウェーヴ系のバンドが次々と登場した。そしてアイドルによる『テクノ歌謡』というのも現れ、大衆化が進行したのだった。
そんな中、近田春夫もヒカシューやテクノ歌謡バンドとして人気のあったジューシィ・フルーツをプロデュースするなどして、テクノ・ポップ・・ブームの一翼を担っていた。
そんな下降しつつあるテクノ・ポップ・ブームの中で、さらにその先の音を作るという大いなる野心のもとに生み出されたのが、この作品『鬼ケ島』だったのだ。たなみにCD化の際の帯の謳い文句には「ニュー・ウェーヴ歌謡の最高傑作」とある。ちょっと安っぽい感じもするが、言っていることに間違いはない。

平山みきは1970年に「ビューティフル・ヨコハマ」でデヴュー、翌71年の2枚目のシングル「真夏の出来事」が大ヒットしてスターとなった。当時の芸名は平山三紀。何と言ってもあの独特の個性的な声が印象的だった。
しかし、この個性的過ぎる声があるいは災いしたのか、その後、中ヒットを何枚か飛ばしたものの、彼女の人気はしだいに下降線を辿る。
そして「真夏の出来事」から十年後、平山三紀は、名前を平山みきと改め、所属レコード会社を移籍して、新しい出発をはかろうとしていたのだった。このとき彼女は33歳。もともと大人っぽい顔立ちではあったが、もうアイドルから完全に脱皮して、大人の女のイメージで大きく一歩を踏み出そうとしていたのだろう。こうして近田春夫とのコラボレーションに臨むことになったわけだ。

<近田春夫と歌謡曲>

私はミュージシャンとしての近田春夫にはそれほど興味がなかった。彼は歌謡曲マニアであり、自身の音楽にもそれが反映されていた。
たとえば彼が結成した最初のバンド近田春夫&ハルヲフォンに『電撃的東京』というアルバムがある。これは歌謡曲のカヴァー集で、このバンドの最高傑作と言われているが、私にはさっぱり面白くなかった。
しかし『鬼ケ島』で私は近田をあらためて見直したのだった。けれども彼はその後今度はファンクや日本語ラップの方へ進んでいき私の視界から消えていくのだった。

しかし私はクリティックとしての近田にはずっと興味があった。
私も近田同様、歌謡曲を聴きながら育った。私の世代の人間がみんなそうだったように、音楽への入り口はラジオだったからだ。そこからはリクエストやヒット・チャートで、歌謡曲とロックがごっちゃに聴こえてきた。だから歌謡曲にも一定の愛着はある。遠藤賢司もそうだし、桑田佳祐もそんなことを語っていた。

しかし、やっぱり歌謡曲とロックとは決定的に違うものだった。
歌謡曲は、しょせん金もうけのための音楽だ。最大公約数に買ってもらうために歌詞の表現は紋きり型だし、アレンジは月並みだった。だからロックに感じるようなリアリティはそこにはなかった。だからみんなロックの方へ、どんどん引き付けられていったのだ。
しかし、近田はロックと歌謡曲を等価に扱う。歌謡曲を音楽的な評価の対象としたのだ。そこが、ある意味意表をついていて新鮮ではあった。
『鬼ケ島』のプロダクションの根底には、歌謡曲そのものを対象化したメタ歌謡曲的な姿勢がある。その意味で、その後1985年の小泉今日子「なんてったってアイドル」(作詞・:秋元康)から1988年の森高千里のブレイクへと続くメタ歌謡曲的な流れに先んじる作品であったと評価することも出来るだろう。

『鬼ケ島』発売当時のLPに添付された筒美京平と近田春夫の対談が興味深い(CD版のブックレットに転載されている)。筒美京平は言わずと知れた歌謡曲の大御所専業作曲家で、このアルバム以前の平山三紀の曲のほとんど全てを手がけていた。だからこの対談は、平山の曲の新旧の作曲者が対するという趣向なわけだ。
曲作りに関して筒美はこう語る。
筒美 「こういう曲が受けるんじゃないかなァと思っていつも仕事をしてます。」
すると近田はこう問いかけるのだ。
近田 「ということは「自分はこういう曲を作りたいんだ」という主張は存在しないのでしょうか?」
筒美 「そういうんじゃないみたい。」
とあいまいに答える筒美に近田はさらにこう詰め寄る。
近田 「でも何かを作品を通じて、発言しようとなさっているんでしょう?」
これにも筒美は次のようにのらりくらりを繰り返す。
筒美 「ボクは近田君みたいに、そう理屈づけしないから、アレだけど…。」
歌謡曲とロックの作り手の意識の違いがくっきりと浮かび上がっていて面白い。売れることを目的とする歌謡曲と、表現としてのロックの違いが明らかだ。歌謡曲マニアであり、筒美京平を敬愛しているはずの近田が、筒美からこういう発言を引き出すとは意外だった。近田もやはり根はロッカーなのだということがわかった。

<サウンドのコンセプト>

この文の冒頭で『鬼ケ島』の演奏について、自由な実験精神にあふれていて、その自由さゆえの躍動感が、アルバム全体にみなぎっていると書いた。これに関連して、CDの川勝正幸によるライナー・ノート(私の持っているのはビクターから1991年に再発されたもの)に紹介されている窪田晴男の言葉が興味深い。窪田は、ビブラトーンズのギタリスト。

窪田によるとアルバムの制作に当たって、まず近田は「画期的なものを作れ。斬新なものならなんでもOK!」という指示を出したのだという。
これを受けてビブラトーンズのメンバーたちがやったのは「音楽的には、ニュー・ウェーヴ、アフリカ、レデエ……ロックを壊すというアプローチですね」と窪田は語る。
そしてこのアルバムを窪田は「新しいことさえやれば勝ちだ!という血気盛んな若者にやりたいようにやらせた、近田さんのプロデュースの圧倒的勝利のアルバム」と評価しているのだった。

たしかにアルバムを聴いているとこの「血気盛んな」チャレンジ精神が伝わってくる。何をやってもアリという遊び心にもあふれている。誰もやっていないことをやろうとするこの態度こそ本来の前衛というものだ。それが結果的に時代を超えて新しいものを作り出したのだ

<平山みきの歌>

一般聴衆ではなく、ミュージシャン仲間たちから敬愛されるミュージシャンを指してミュージシャンズ・ミュージシャンという言い方がある。これにならって言えば、平山みきは、ミュージシャンズ・アイドル、つまり業界の人に愛されるツウ好みの歌い手なのだと思う。
たとえば、遠藤賢司は、1980年のアルバム『宇宙防衛軍』で、「哀愁の東京タワー」のデュオの相手に平山三紀を選んでいた。
また、近田春夫&ハルヲフォンのアルバム『電撃的東京』では平山三紀の1975年のシングル『真夜中のエンジェル・ベイビー』がカヴァーされていた。

平山みきの声はきわめて独特で個性的だ。ウィキペディアではこの声を「鼻にかかった強烈なハスキーボイス」と形容しているが、これは何だか違うような気がする。
ちょっとバタ臭くて平べったい発声。今風の言い方だとエグイということになるかもしれない。
しかもすごいのは圧倒的な存在感を持っていることだ。この声ならどんな実験的な伴奏にも負けそうにない。
私の持っているCDの帯では、「異端の歌姫」と謳っている。私はさらに「異形(いぎょう)の歌謡曲シンガー」と言ってもよいくらいではないかと思う。

歌謡曲を聴いていて、歌詞は陳腐で紋きり型なのだが、肉声の存在感によって、歌詞の字面の意味を超えた世界がそこに立ち現れるということがある。歌の技術の上手い下手の問題ではなく、歌い手の存在感の問題である。たとえば、私の場合、山口百恵とか中森明菜の歌を聴いているとそんなことを感じる。
そして、この『鬼ケ島』における平山みきの歌がまさにそんな存在感の力で歌の世界を作り出していると言える。

<近田春夫の歌詞>

『鬼ケ島』の曲は全曲近田春夫が作詞している。
近田はハルヲフォン解散後のソロ作『天然の美』で、山口洋子ら日本の歌謡曲の作詞家たちとのコラボを行っている。この体験を経て、近田は自分なりの作詞の方法論を獲得したものと思われる。
このアルバムでは、ハイソな人々の世界での下世話な不倫話(「ひろ子さん」)とか、醒めた心情のヒロインたちの恋愛模様と、孤独でもの憂い日常風景などが描かれる。
情景の描写はあいまいなまま放り出されているが、要所で印象的なイメージやフレーズはきっちり決めるという歌謡曲的手法が援用されている。
一方で、たとえば金持ちの一家が、バカ息子の大学の合格発表(たぶん落ちているはずの)を待つ気まずい茶の間の情景を歌った曲(「よくあるはなし」)なんてのもある。これまでの歌謡曲には、絶対なかったシチュエーションだ。これは、逆にこれまでの歌謡曲に描かれた世界を問い返すメタ歌謡曲的な意味を持つ曲と見ることも出来るだろう。

そして注目すべきは、このような詞の世界の根底に、近田春夫によって明確に設定されたヒロイン像があることだ。そのヒロイン像は、平山みきの容貌と声とパブリックなイメージを、近田なりにデフォルメし膨らませて作り出したものと思われる。
具体的には、年上のオトナの女であり、ちょっとケバくてイイ女である。孤独で醒めていて、気だるくてもの憂い。しかし、恋愛においては奔放で、わがままになったりもする。
そして平山みきは、近田の期待以上にこのヒロインのイメージを膨らませて演じきったといえるだろう。
さらに言えば近田には単にそのようなヒロイン像を提示するだけでなく、当然このヒロインを通じて、時代そのものをあぶりだそうとする野心があったものと思われる。

<アルバムの内容と聴き所>

アルバム全体の音の印象としては、軽くてポップ。そして実験精神と遊び心が随所に感じられる。
オシャレっぽい感じにまとめたり、流行やカッコよさを追ったりしないで、とにかくヘンなことをやろうとしている。「民謡風」(窪田晴男の表現)のコーラスがあり、ビートは痙攣的で、メロディはねじくれている。ちょっとオシャレな感じでまとまっているところには、「ユーミンぽーいね」なんていう自虐的なコーラスを入れている(「月影の渚」)。とにかくヘンテコなところがいっぱいだ。しかし、そこが逆にすごくカッコいいのだ。

演奏はシンプルで、ひとつの楽器だけが目立ったりはしない。窪田晴男の編曲のねじれたポップ・センスが光る。
窪田晴男は、このアルバムの発売前にビブラトーンズを脱退し、その後サエキけんぞうとパール兄弟を結成する。パール兄弟のアルバムは、ひととおり聴いているが、ここで見せているような窪田の才能には全然気がつかなかった。

『鬼ケ島』の収録曲は10曲。全曲の作詞を近田春夫、全曲の編曲を窪田晴男が行っている。作曲は近田が2曲、窪田が3曲、福岡ユタカ(パーカッション)が3曲、岡田陽助(ギター)が2曲を、それぞれ書いている。
演奏はビブラトーンズ、それにコンピュータ・プログラマーとして四人囃子の茂木由多加が参加している。

以下、各曲についてひとこと。

< Side A >

1 ひろ子さん(作曲・近田春夫)

アルバム冒頭は、イントロなしでいきなりヴォーカルから始まって意表を突く趣向。
ハイソなクラスの人たちの不倫話。タイトルになっているのに「ひろ子さん」当人は出てこない仕掛けになっている。
写真のアルバムが開かれて昔の自分たちの関係がバレそうになったとき、わざと紅茶をこぼして注意を逸らす主人公。そんな短編小説的みたいなエピソードがニクイ。
こんな内容のお話なのに、無邪気な子供声のコーラスを入れるなど一工夫している。

2 プールサイド・クラッシュ(作曲・福岡ヒロシ)

スピード感のあるニュー・ウェーヴ風痙攣ロック。
「アッセー(汗―)」というコーラスがおかしい

3 月影の渚(作曲・福岡ヒロシ)

月影の海辺の叙情的な恋愛風景。
レゲエ・ビートになるところで聴こえる「ユーミンぽーいね」というコーラスがおかしい。作り手がテレちゃってる感じで、そこがリアル。

4 ドライマティニ(作曲・岡田陽助)

挑発するオトナの女っぷりがたまらなくエグい。

5 蜃気楼の街(作曲・福岡ヒロシ)

個人的にはこの曲がいちばん好きだ。
まず前半の透明感のある叙情がいい。
そして、サビの躍動感。
斜(はす)にかまえている感じの歌が多い中で、この歌のヒロインだけは素直に前向きで印象的。
強い覚悟のサビのフレーズ「振り向きはしない/決めたの あなたと」が素敵だ。
そのフレーズに絡む「エイヤー」というコーラス(窪田のいう民謡風の)がちょっとコミカルだが、前向きな歌だから許そう。

< Side B >

1 よくあるはなし(作曲・窪田晴男)

金持ち一家の茶の間の情景。スポーツカーを乗り回すバカ息子の受験の結果(たぶんダメなはずの)の発表を待つ気まずい雰囲気を描いた歌。バックもそれに合わせて、くねくねと捻じ曲がった屈折した演奏。

2 おしゃべりルージュ(作曲・窪田晴男)

ものうく醒めているOLの日常ソング。
「ラジカセからは/もう大嫌いな シャレたうたが」という近田のキメのフレーズが決まっている。

3 電子レンジ(作曲・岡田陽助)

気だるいレゲエ・ビートのものういOLソング第2弾。
こっちは「あつくならないお皿の気持」がキメのフレーズ。

4 雨ふりはハートエイク(作曲・近田春夫)

虚ろに狂騒的な擬似アフリカン・ビートの曲。スイングしないチョパー・ベース。そこへ、「チャプ チャプ」という児童コーラスがからむ。それが後半水玉のように転がり滑っていく。
途中の「ヨッ、ヨッ、ヨーナノヨッ」というコーラスがかなりヘンテコ。で、何だかカッコいい。

5 鬼ヶ島 (作曲・窪田晴男)

ストリングスがヴォーカルにまとわりつくようでTレックスっぽい。
これは何だかよくわからない内容の歌だ。
以下、私なりの解釈。一見、くたびれてただうずくまっているように見える動物園の動物たち。ところが不意に、そこに得体の知れない不穏な野生の空気を感じ取ってしまった私。野生の光る眼が不気味に私を見つめる。動物園は鬼ケ島(鬼=動物)なのだ。
しかし、曲の最後に聴こえる都会の雑踏のSE。都会そのものもまた野生が潜んでいる鬼ケ島(鬼=人間の野生、本能)なのか。という内容の歌なのだと思う、たぶん。

だとすると近田はここに一種の社会批評、人間批評を盛り込んでいるわけで、だからこの曲をそのままアルバム・タイトルにしたのではないかとも思えてくる。