2013年6月3日月曜日

平山みき 『鬼ケ島』

平山みきのアルバム『鬼ケ島』(1982.6)は、平山みきのアルバムというよりも、むしろビブラトーンズのアルバムと言ったほうがより正しい。つまりビブラトーンズ・フィーチャリング・平山みき。
このアルバムは日本のニュー・ウェーヴの名盤の一つだと思うのだが、歌謡曲歌手平山みき名義であるためもあってか、今日、見落とされがちなのはとても残念だ。

『鬼ケ島』は、プロデュースが近田春夫。バックの演奏が近田春夫&ビブラトーンズ。曲も全曲近田春夫が作詞し、作曲と編曲をビブラトーンズのメンバー達が行っている。だからまさにビブラトーンズ・フィーチャリング・平山みきというわけなのだ。
演奏は基本的にテクノ/ニュー・ウェーヴ系の音だが、自由な実験精神にあふれていて、エキセントリックな音が随所に散りばめられている。その自由さゆえの躍動感が、アルバム全体にみなぎっているのだ。そしてそのようなクセのある演奏の上で、なお個性を強烈に発揮して舞う平山みきのヴォーカルもまた素晴らしい。

<テクノ/ニュー・ウェーヴの時代>

このアルバム『鬼ケ島』は、1982年の6月に発売されている。
1982年と言えば、1980年にピークを迎えたテクノ・ポップ・ブームが、拡散しながら大衆化しつつあった時期に当たる。
1979年にアルバム・デヴューしてブレイクしたYMOから始まるテクノ・ポップのブーム。「テクノ御三家」と呼ばれたP-MODEL、ヒカシュー、プラスチックスをはじめたくさんのテクノ/ニュー・ウェーヴ系のバンドが次々と登場した。そしてアイドルによる『テクノ歌謡』というのも現れ、大衆化が進行したのだった。
そんな中、近田春夫もヒカシューやテクノ歌謡バンドとして人気のあったジューシィ・フルーツをプロデュースするなどして、テクノ・ポップ・・ブームの一翼を担っていた。
そんな下降しつつあるテクノ・ポップ・ブームの中で、さらにその先の音を作るという大いなる野心のもとに生み出されたのが、この作品『鬼ケ島』だったのだ。たなみにCD化の際の帯の謳い文句には「ニュー・ウェーヴ歌謡の最高傑作」とある。ちょっと安っぽい感じもするが、言っていることに間違いはない。

平山みきは1970年に「ビューティフル・ヨコハマ」でデヴュー、翌71年の2枚目のシングル「真夏の出来事」が大ヒットしてスターとなった。当時の芸名は平山三紀。何と言ってもあの独特の個性的な声が印象的だった。
しかし、この個性的過ぎる声があるいは災いしたのか、その後、中ヒットを何枚か飛ばしたものの、彼女の人気はしだいに下降線を辿る。
そして「真夏の出来事」から十年後、平山三紀は、名前を平山みきと改め、所属レコード会社を移籍して、新しい出発をはかろうとしていたのだった。このとき彼女は33歳。もともと大人っぽい顔立ちではあったが、もうアイドルから完全に脱皮して、大人の女のイメージで大きく一歩を踏み出そうとしていたのだろう。こうして近田春夫とのコラボレーションに臨むことになったわけだ。

<近田春夫と歌謡曲>

私はミュージシャンとしての近田春夫にはそれほど興味がなかった。彼は歌謡曲マニアであり、自身の音楽にもそれが反映されていた。
たとえば彼が結成した最初のバンド近田春夫&ハルヲフォンに『電撃的東京』というアルバムがある。これは歌謡曲のカヴァー集で、このバンドの最高傑作と言われているが、私にはさっぱり面白くなかった。
しかし『鬼ケ島』で私は近田をあらためて見直したのだった。けれども彼はその後今度はファンクや日本語ラップの方へ進んでいき私の視界から消えていくのだった。

しかし私はクリティックとしての近田にはずっと興味があった。
私も近田同様、歌謡曲を聴きながら育った。私の世代の人間がみんなそうだったように、音楽への入り口はラジオだったからだ。そこからはリクエストやヒット・チャートで、歌謡曲とロックがごっちゃに聴こえてきた。だから歌謡曲にも一定の愛着はある。遠藤賢司もそうだし、桑田佳祐もそんなことを語っていた。

しかし、やっぱり歌謡曲とロックとは決定的に違うものだった。
歌謡曲は、しょせん金もうけのための音楽だ。最大公約数に買ってもらうために歌詞の表現は紋きり型だし、アレンジは月並みだった。だからロックに感じるようなリアリティはそこにはなかった。だからみんなロックの方へ、どんどん引き付けられていったのだ。
しかし、近田はロックと歌謡曲を等価に扱う。歌謡曲を音楽的な評価の対象としたのだ。そこが、ある意味意表をついていて新鮮ではあった。
『鬼ケ島』のプロダクションの根底には、歌謡曲そのものを対象化したメタ歌謡曲的な姿勢がある。その意味で、その後1985年の小泉今日子「なんてったってアイドル」(作詞・:秋元康)から1988年の森高千里のブレイクへと続くメタ歌謡曲的な流れに先んじる作品であったと評価することも出来るだろう。

『鬼ケ島』発売当時のLPに添付された筒美京平と近田春夫の対談が興味深い(CD版のブックレットに転載されている)。筒美京平は言わずと知れた歌謡曲の大御所専業作曲家で、このアルバム以前の平山三紀の曲のほとんど全てを手がけていた。だからこの対談は、平山の曲の新旧の作曲者が対するという趣向なわけだ。
曲作りに関して筒美はこう語る。
筒美 「こういう曲が受けるんじゃないかなァと思っていつも仕事をしてます。」
すると近田はこう問いかけるのだ。
近田 「ということは「自分はこういう曲を作りたいんだ」という主張は存在しないのでしょうか?」
筒美 「そういうんじゃないみたい。」
とあいまいに答える筒美に近田はさらにこう詰め寄る。
近田 「でも何かを作品を通じて、発言しようとなさっているんでしょう?」
これにも筒美は次のようにのらりくらりを繰り返す。
筒美 「ボクは近田君みたいに、そう理屈づけしないから、アレだけど…。」
歌謡曲とロックの作り手の意識の違いがくっきりと浮かび上がっていて面白い。売れることを目的とする歌謡曲と、表現としてのロックの違いが明らかだ。歌謡曲マニアであり、筒美京平を敬愛しているはずの近田が、筒美からこういう発言を引き出すとは意外だった。近田もやはり根はロッカーなのだということがわかった。

<サウンドのコンセプト>

この文の冒頭で『鬼ケ島』の演奏について、自由な実験精神にあふれていて、その自由さゆえの躍動感が、アルバム全体にみなぎっていると書いた。これに関連して、CDの川勝正幸によるライナー・ノート(私の持っているのはビクターから1991年に再発されたもの)に紹介されている窪田晴男の言葉が興味深い。窪田は、ビブラトーンズのギタリスト。

窪田によるとアルバムの制作に当たって、まず近田は「画期的なものを作れ。斬新なものならなんでもOK!」という指示を出したのだという。
これを受けてビブラトーンズのメンバーたちがやったのは「音楽的には、ニュー・ウェーヴ、アフリカ、レデエ……ロックを壊すというアプローチですね」と窪田は語る。
そしてこのアルバムを窪田は「新しいことさえやれば勝ちだ!という血気盛んな若者にやりたいようにやらせた、近田さんのプロデュースの圧倒的勝利のアルバム」と評価しているのだった。

たしかにアルバムを聴いているとこの「血気盛んな」チャレンジ精神が伝わってくる。何をやってもアリという遊び心にもあふれている。誰もやっていないことをやろうとするこの態度こそ本来の前衛というものだ。それが結果的に時代を超えて新しいものを作り出したのだ

<平山みきの歌>

一般聴衆ではなく、ミュージシャン仲間たちから敬愛されるミュージシャンを指してミュージシャンズ・ミュージシャンという言い方がある。これにならって言えば、平山みきは、ミュージシャンズ・アイドル、つまり業界の人に愛されるツウ好みの歌い手なのだと思う。
たとえば、遠藤賢司は、1980年のアルバム『宇宙防衛軍』で、「哀愁の東京タワー」のデュオの相手に平山三紀を選んでいた。
また、近田春夫&ハルヲフォンのアルバム『電撃的東京』では平山三紀の1975年のシングル『真夜中のエンジェル・ベイビー』がカヴァーされていた。

平山みきの声はきわめて独特で個性的だ。ウィキペディアではこの声を「鼻にかかった強烈なハスキーボイス」と形容しているが、これは何だか違うような気がする。
ちょっとバタ臭くて平べったい発声。今風の言い方だとエグイということになるかもしれない。
しかもすごいのは圧倒的な存在感を持っていることだ。この声ならどんな実験的な伴奏にも負けそうにない。
私の持っているCDの帯では、「異端の歌姫」と謳っている。私はさらに「異形(いぎょう)の歌謡曲シンガー」と言ってもよいくらいではないかと思う。

歌謡曲を聴いていて、歌詞は陳腐で紋きり型なのだが、肉声の存在感によって、歌詞の字面の意味を超えた世界がそこに立ち現れるということがある。歌の技術の上手い下手の問題ではなく、歌い手の存在感の問題である。たとえば、私の場合、山口百恵とか中森明菜の歌を聴いているとそんなことを感じる。
そして、この『鬼ケ島』における平山みきの歌がまさにそんな存在感の力で歌の世界を作り出していると言える。

<近田春夫の歌詞>

『鬼ケ島』の曲は全曲近田春夫が作詞している。
近田はハルヲフォン解散後のソロ作『天然の美』で、山口洋子ら日本の歌謡曲の作詞家たちとのコラボを行っている。この体験を経て、近田は自分なりの作詞の方法論を獲得したものと思われる。
このアルバムでは、ハイソな人々の世界での下世話な不倫話(「ひろ子さん」)とか、醒めた心情のヒロインたちの恋愛模様と、孤独でもの憂い日常風景などが描かれる。
情景の描写はあいまいなまま放り出されているが、要所で印象的なイメージやフレーズはきっちり決めるという歌謡曲的手法が援用されている。
一方で、たとえば金持ちの一家が、バカ息子の大学の合格発表(たぶん落ちているはずの)を待つ気まずい茶の間の情景を歌った曲(「よくあるはなし」)なんてのもある。これまでの歌謡曲には、絶対なかったシチュエーションだ。これは、逆にこれまでの歌謡曲に描かれた世界を問い返すメタ歌謡曲的な意味を持つ曲と見ることも出来るだろう。

そして注目すべきは、このような詞の世界の根底に、近田春夫によって明確に設定されたヒロイン像があることだ。そのヒロイン像は、平山みきの容貌と声とパブリックなイメージを、近田なりにデフォルメし膨らませて作り出したものと思われる。
具体的には、年上のオトナの女であり、ちょっとケバくてイイ女である。孤独で醒めていて、気だるくてもの憂い。しかし、恋愛においては奔放で、わがままになったりもする。
そして平山みきは、近田の期待以上にこのヒロインのイメージを膨らませて演じきったといえるだろう。
さらに言えば近田には単にそのようなヒロイン像を提示するだけでなく、当然このヒロインを通じて、時代そのものをあぶりだそうとする野心があったものと思われる。

<アルバムの内容と聴き所>

アルバム全体の音の印象としては、軽くてポップ。そして実験精神と遊び心が随所に感じられる。
オシャレっぽい感じにまとめたり、流行やカッコよさを追ったりしないで、とにかくヘンなことをやろうとしている。「民謡風」(窪田晴男の表現)のコーラスがあり、ビートは痙攣的で、メロディはねじくれている。ちょっとオシャレな感じでまとまっているところには、「ユーミンぽーいね」なんていう自虐的なコーラスを入れている(「月影の渚」)。とにかくヘンテコなところがいっぱいだ。しかし、そこが逆にすごくカッコいいのだ。

演奏はシンプルで、ひとつの楽器だけが目立ったりはしない。窪田晴男の編曲のねじれたポップ・センスが光る。
窪田晴男は、このアルバムの発売前にビブラトーンズを脱退し、その後サエキけんぞうとパール兄弟を結成する。パール兄弟のアルバムは、ひととおり聴いているが、ここで見せているような窪田の才能には全然気がつかなかった。

『鬼ケ島』の収録曲は10曲。全曲の作詞を近田春夫、全曲の編曲を窪田晴男が行っている。作曲は近田が2曲、窪田が3曲、福岡ユタカ(パーカッション)が3曲、岡田陽助(ギター)が2曲を、それぞれ書いている。
演奏はビブラトーンズ、それにコンピュータ・プログラマーとして四人囃子の茂木由多加が参加している。

以下、各曲についてひとこと。

< Side A >

1 ひろ子さん(作曲・近田春夫)

アルバム冒頭は、イントロなしでいきなりヴォーカルから始まって意表を突く趣向。
ハイソなクラスの人たちの不倫話。タイトルになっているのに「ひろ子さん」当人は出てこない仕掛けになっている。
写真のアルバムが開かれて昔の自分たちの関係がバレそうになったとき、わざと紅茶をこぼして注意を逸らす主人公。そんな短編小説的みたいなエピソードがニクイ。
こんな内容のお話なのに、無邪気な子供声のコーラスを入れるなど一工夫している。

2 プールサイド・クラッシュ(作曲・福岡ヒロシ)

スピード感のあるニュー・ウェーヴ風痙攣ロック。
「アッセー(汗―)」というコーラスがおかしい

3 月影の渚(作曲・福岡ヒロシ)

月影の海辺の叙情的な恋愛風景。
レゲエ・ビートになるところで聴こえる「ユーミンぽーいね」というコーラスがおかしい。作り手がテレちゃってる感じで、そこがリアル。

4 ドライマティニ(作曲・岡田陽助)

挑発するオトナの女っぷりがたまらなくエグい。

5 蜃気楼の街(作曲・福岡ヒロシ)

個人的にはこの曲がいちばん好きだ。
まず前半の透明感のある叙情がいい。
そして、サビの躍動感。
斜(はす)にかまえている感じの歌が多い中で、この歌のヒロインだけは素直に前向きで印象的。
強い覚悟のサビのフレーズ「振り向きはしない/決めたの あなたと」が素敵だ。
そのフレーズに絡む「エイヤー」というコーラス(窪田のいう民謡風の)がちょっとコミカルだが、前向きな歌だから許そう。

< Side B >

1 よくあるはなし(作曲・窪田晴男)

金持ち一家の茶の間の情景。スポーツカーを乗り回すバカ息子の受験の結果(たぶんダメなはずの)の発表を待つ気まずい雰囲気を描いた歌。バックもそれに合わせて、くねくねと捻じ曲がった屈折した演奏。

2 おしゃべりルージュ(作曲・窪田晴男)

ものうく醒めているOLの日常ソング。
「ラジカセからは/もう大嫌いな シャレたうたが」という近田のキメのフレーズが決まっている。

3 電子レンジ(作曲・岡田陽助)

気だるいレゲエ・ビートのものういOLソング第2弾。
こっちは「あつくならないお皿の気持」がキメのフレーズ。

4 雨ふりはハートエイク(作曲・近田春夫)

虚ろに狂騒的な擬似アフリカン・ビートの曲。スイングしないチョパー・ベース。そこへ、「チャプ チャプ」という児童コーラスがからむ。それが後半水玉のように転がり滑っていく。
途中の「ヨッ、ヨッ、ヨーナノヨッ」というコーラスがかなりヘンテコ。で、何だかカッコいい。

5 鬼ヶ島 (作曲・窪田晴男)

ストリングスがヴォーカルにまとわりつくようでTレックスっぽい。
これは何だかよくわからない内容の歌だ。
以下、私なりの解釈。一見、くたびれてただうずくまっているように見える動物園の動物たち。ところが不意に、そこに得体の知れない不穏な野生の空気を感じ取ってしまった私。野生の光る眼が不気味に私を見つめる。動物園は鬼ケ島(鬼=動物)なのだ。
しかし、曲の最後に聴こえる都会の雑踏のSE。都会そのものもまた野生が潜んでいる鬼ケ島(鬼=人間の野生、本能)なのか。という内容の歌なのだと思う、たぶん。

だとすると近田はここに一種の社会批評、人間批評を盛り込んでいるわけで、だからこの曲をそのままアルバム・タイトルにしたのではないかとも思えてくる。

0 件のコメント:

コメントを投稿