2013年1月29日火曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製らーめん」 2013 初春編

久しぶりに水戸の「つけ麺 坊主」を訪ねた。今年になって初めての訪問。そして何と昨年の11月以来2ヶ月ぶりの訪問となる。ずいぶん長いこと御無沙汰してしまったものだ。何しろ水戸に出てくる機会もなかったもので。
店に向って歩いていくとやっぱり期待で胸がわくわくしてくる。なかなかこんな気持にしてくれるお店はない。

平日の午前11時5分に入店。11時開店の直後だというのにもう先客が一人いた。早いなあ。
券売機に向う。久しぶりなので当然、私の定番の「特製らーめん」にする。そしていつものとおり「白めし」と「ビール」。さらに今回は「ネギ」をトッピング。
カウンターの一番奥の指定席へ。麺とめしの量は「ふつうで」と御主人にお願いする。

さっそく出てきたビールをぐびりぐびりと飲みながら店内を見回す。いつものように掃除の行き届いた店内。BGMにオールディーズが流れているのも同じ。
カウンターの反対の隅に座っている先客は、私と同じ年恰好のオヤジだ。着ているものも何となく同じような雰囲気。以前にも開店直後に私の前に来ていた人のよう気がする。やはり私と同類のラーメン・マニアなのか。私の場合は正確には「坊主マニア」だけど。ちなみに後客は8人だった。商売繁盛で何より。

2ヶ月間、御無沙汰したけれど、何も変わらないなと思っていたら、ちょっとだけ変わったことがあった。
カウンターの目の前に貼ってあるメニューと麺量の表の横に新たに紙が貼ってあったのだ。それによると麺の量に、これまでよりも細かい段階を設けたらしい。これまでの盛(350g)と大盛(450g)の前後に次のような量の盛り方ができたのだ。
「麺半分(170g)」、「麺すくなめ(280g)」、「中盛(400g)」。なるほど。なおここでのグラム数は茹で上がり後の重さだ。
さらにもう一枚貼紙があって、御希望の方には「紙エプロン」の用意があるとのこと。なるほど。
少なめの麺量の設定と紙エプロンの用意というのは、あきらかに女性客とそれから子供連れへの配慮と思われる。客層が広がっているのだろう。ここの御主人は、いつもいろいろ客のことを考えていてエラいなあとあらためて感心する。

そうこうしているうちに「特製らーめん」登場だ。ご飯と刻みネギを従えている。ちなみにご飯とネギの茶碗は同じものだ。つまり、ご飯と同じくらい別の器にネギが盛ってあるのだ。ネギ好きの私にはたまらんねえ。
「特製らーめん」の懐かしいお姿。今日はまたいちだんと中央のもやしとネギが山盛りだ。その周囲に少しだけ赤いスープの「水面」がのぞいている。
レンゲでスープをすくう。どっぷりレンゲを入れる隙間がないので少しずつすくう。今日のスープは脂と甘さがやや控えめで、その代わり旨みが濃いめ。美味い。そして久しぶりの再会がうれしい。久しぶりなので辛く感じるかと思ったが、さほどでもない。
二口、三口とスープを飲み続けているうちに何だか止まらなくなる。十口以上飲んだところで、やっと一息つき、ご飯を二口、三口食べる。それでも気がすまなくて、またレンゲに持ち替えてスープを飲み続けてしまった。

それからやっと具材と麺に取り掛かる。しばらく麺を放って置いたので、そのままだと麺がからまったままになってしまう。そこで、具材の下の方から麺を引っ張り出してはほぐす。しかし、ちゃんとほぐれるのを待ちきれずにさっそく何本かを手繰ってみる。
例によってモチモチの歯応えがおいしい。最後までこの食感のままだと良いのだが、何しろ熱いスープの中なので、だんだん変化していくのが残念だ。そんな心配もあって今度は、どんどん麺を食べ続ける。食感が単調になるので、別盛りのネギも盛大に投入する。そこへカウンター上の壷から唐辛子をさじ一杯追加する。

その後、無心になって麺、もやし、肉、スープ、ご飯と交互に食べ続ける。丼の表面をいっぱいにおおっていた具材と麺が減ってきて、赤いスープが見えてきた頃、だんだん辛さが立ち上がってきた。その辛さとぐいぐい押し合いをし、ときどき押し返されて立ち止まりながら食べ進んでいく。これがこのラーメンの最高の醍醐味なのだ。

食べ始めてすぐ、例によって鼻水が出始め、カウンターのボックス・ティッシュで鼻をかみ続けていた。そこに汗も出始める。最初は額から。次に目の下あたり。そしてだんだん後頭部から首筋あたりまで、汗がしみ出してくる。私の経験では、とくにネギは発汗作用が強いような気がする。
箸とレンゲを持ち替える合間に、頻繁にティッシュで鼻をかみ、ハンカチで汗を拭う。とにかく忙しい。まあ、いつものことなのだが。

 気がつくとどんぶりの底にスープがあと少しの状態になっている。それをきれいに飲み干して完食だ。お腹はぱんぱんの満腹。ああ満足だ。鼻水と汗が落ち着くのもそこそこに、店内も込んできたので早々に立ち上がる。ご馳走様でした。
外に出る。後頭部の汗が風に冷たかった。

いよいよ来月2月は、「極辛麻婆らーめん」と「極辛麻婆つけめん」が食べられる年に二回の限定月間。楽しみだ。今日はちょうどその良い準備体操にもなった。

2013年1月18日金曜日

P-MODEL 「美術館で会った人だろ」

<『イン・ア・モデル・ルーム』について>

P-MODEL(ピー・モデル)のアルバム『イン・ア・モデル・ルーム(IN A MODEL ROOM)』(1979年)は、私にとって思い出深いアルバムだ。まだ社会人になったばかりのハードな日々の中で繰り返し聴いたせいでもある。
これはP-MODELのデヴュー・アルバムだが、この頃の彼らはテクノ・ポップのバンドと言われていた。久しぶりに引っ張り出して聴いてみると、このアルバムは日本のパンク/ニュー・ウエイヴの流れにおける名盤の一つだとあらためて思った。

アルバム全体に、シンセを前面に出したチープなアレンジで、リズム・ボックスやシンセ音のギミックが散りばめてあって、いかにもテクノ的な装いをしている。しかし、バンドの演奏そのものはあくまでパンキッシュだ。
ただ疾走感はあるが、ストレートな怒りをぶつけるというスタイルではない。シニカルで冷めていて、曲の構造はシンプルだがセンスはネジれている。その点では、前年(1978年)に出た、ディーヴォのデヴュー・アルバム『頽廃的美学論』なんかを思わせる。

ほとんどすべての曲は、文明や現代社会をシニカルに批判する内容だ。ただしその批判の仕方が、わりと単純で底が浅い。曲の構造がシンプルなだけに、よけいそれが気にならないではない。まあそこがパンクっぽいとも言えるのだが…。

アルバム前半は何となく言いたいことが空回りしているような感じもある。
しかし後半、「KAMEARI POP」から「偉大なる頭脳」を経て「アート・ブラインド」に収束する展開では、平沢進の思いとセンスが全面展開されている。
とくに「偉大なる頭脳」が良い。シュールな歌詞が、音と一体となってぐりぐりとねじれていくプログレ・ソング。彼らの前身がプログレ・バンドだったことを思い出させる。

<「「美術館で会った人だろ」」>

アルバムの中で一番印象的なのは、やはり「美術館で会った人だろ」。この曲はアルバムに先立ってデヴュー・シングルとして発売されている。
シングル発売を意識したのか、シンセによるテクノ風味が強めの軽快なポップ・ソングだ。だが歌詞はシュールかつ不気味かつ暴力的で、やはりどうしようもなく歪んでいる。

私なりにこの曲を解釈してみよう。

美術館で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ
美術館で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

きれいな額をゆびさして
子供が泣いていると言ってただろ

(中略)

なのにどうして街で会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲よくしたいから
美術館に美術館に美術館に
火をつけるよ

(「美術館で会った人だろ」 詞・曲 平沢 進)

「美術館」は厳密な規律と価値観に支配された空間だ。ここでの「美術館」は、たぶんわれわれが生きているこの社会そのもののメタファーなのだと思う。
この社会で起こる出来事の背後には、さまざまな悲劇や悲惨が潜んでいる。しかし、それらは、何事もなかったかのように隠蔽され、取りつくろわれている。この状態がつまり「きれいな額(=絵)」だ。
美術館で出会ったその「人」は、「きれいな額をゆびさして 子供が泣いている」と言った。うわべのきれいさの陰に隠された悲惨(「子供が泣いている」)を感じ取ってしまうセンシティヴな人なのだ。ゆえに主人公は、この「人」にひかれ、「仲よくしたい」と思う。
しかしこの「人」は、たぶんそれでもまだ「美術館」の規範にとらわれているのだ。そのために「いつも知らんぷり」をする。主人公は彼女をその規範の束縛から解き放ちたいと思う。だから「美術館(=社会)」に「火をつけるよ」なのだ。火をつけて「美術館」を破壊し、人々を自由にし、自分も自由になろうとするのだ。

この曲に漂うどうしようもなくもやもやした不満と怒りは、この解釈のとおりではないかもしれない。しかし、そんな「気分」がここにあることだけは間違いない。
悲惨を抱えた社会、人の感覚を束縛する社会。それに火をつけたいと私も願いながらこの曲を何回も聴いていたものだ。

<テクノ・ポップの時代>

P-MODELは、ヒカシュー、プラスチックスとともに「テクノ御三家」としてくくられている。1980年代のはじめ、当時ブームとなっていたYMOに続くテクノ・ポップの有望株と目されていたわけだ。
1979年のテレビ番組『パイオニア・ステレオ音楽館』(東京12チャンネル)は、いち早く「テクノ・ポップ」を特集し、この三つのバンドを並べて紹介していた。この番組の映像は今でもユー・チューブで見ることが出来る。

このときの演奏をあらためて観てみた。三つのバンドの違いばかりが目に付いて、「テクノ・ポップ」という共通項はさっぱり見えてこなかった。
この中でもっとも「テクノ度」が高いのがプラスチックス。
リズム・ボックスとピコピコの電子音で、あえてチープな音作りをしている。デザイナーやスタイリストなどオシャレ業界の人たちが「お遊び」でやっているバンドと思っていたが、一応ギターなんかは弾いている。
テクニックから解放され、ミュージシャンとして「稚拙(シロウト)」であることを逆手に取って、センスのみで勝負しているところは、パンクやニュー・ウエイヴの精神と同じだ。そこを突き詰めていけば、ワイアーみたいに新しい地平を切り開けたはずなのだが…。
この人たちは所詮「オシャレ」でやっているので、たしかこの後何の展開もなくすぐに消えてしまったのだった。

しかし本当にシロウトばかりだったら、ここまでの展開もあり得なかったはず。そんな彼らの音楽面を支えていたのが、メンバー中、唯一のミュージシャン、元四人囃子の佐久間正英だ。
ところで佐久間は、P-MODELの『イン・ア・モデル・ルーム』のプロデュースも担当している(メンバーと共同で)。もしかすると『イン・ア・…』のテクノ風味は、この佐久間による仕掛けなのではないかという気もするのだが。

ヒカシューは、この番組の映像を見る限り、どこが「テクノ」なのかさっぱりわからない。
そんなレッテルとは関係なくこのバンドの曲と演奏のエキセントリックさは尋常ではない。
ロックの文脈とは無縁。大正ロマンから昭和歌謡にいたる邦楽的な曲調と歌唱とコスチューム。そして、何より狂気に満ちた歌。異様で濃密な世界がそこに出現している。巻上公一はなかなかの異才だ。
で、これってテクノなの?

P-MODELの演奏はとにかく激しく熱い。フロントのギターとベースは、動き回りシャウトする。歌が社会批判だから、まったくパンク・バンドだ。ここにはシニカルで冷めた感じは全然ない。シンセの音が、申し訳程度に「テクノ」っぽいが、やっぱり飛び上がったりして弾いている。
この演奏だけで、彼らをテクノと呼ぶには無理がある。

この番組が作られたのは、1979年のこと。テクノ・ポップのブームが蔓延するのは80年代に入ってからだから、かなり早い時期の放映ということになる。
だからたぶんこの三グループを集めたことに、それほどの深い考えはなかったのではないかと推測する。しかしその後この取り合わせがひとり歩きをして「テクノ御三家」と称されるようになったのではないだろうか。今となっては、このくくりはむしろじゃまというほかない。

P-MODELは、その次のアルバム『ランドセル』も買ってよく聴いた。しかしその後は、彼らもどんどん変わっていき、そして私も変わっていったために、ご縁はなくなってしまった。メンバー・チェンジを繰り返し、音楽性も紆余曲折を経たらしいが、今どういうことになっているのかはまったくわからない。
しかし、このデヴュー・アルバムの放つ輝きは、やっぱり今も失われていない。

2013年1月15日火曜日

「ニッポンのギタリスト名鑑」

『レコード・コレクターズ』誌2013年1月号の特集は「ニッポンのギタリスト名鑑」。今回はこの特集を見て感じたことをあれこれ記してみる。
年末年始でもたもたしているうちに次の2月号が出てしまって、古い話題になってしまったけれど御容赦を。なお2月号のクラプトン『スロー・ハンド』特集についてひとことだけ文末で触れたので、これも読んでみてほしい。

さて今回のギタリスト特集は、なかなか力の入っているのがわかる内容で、私の知り合いやネットの上ではおおむね好評のようだ。しかしじつは私(わたし)的には今ひとつ、という感じ。
特集では、日本のギタリスト112人を紹介している。「名鑑」だからランキングの順位はつけていないが、取り上げ方は三段階に分れている(これが評価?)。1ページ全部を使って紹介している人が5人。半ページで紹介している人が20人。そして残りは、三分の一ページずつ、つまり1ページに三人ずつ掲載という扱いだ。そしてそれぞれのパート内の順番は生年順になっている。

まず冒頭の1ページずつ紹介されている5人だが、これが私には何とも興味の薄い人たちばかりなのだ。
何しろ最初が寺内タケシだからね。いくら生年順とはいえ、これではいきなりの肩すかしだ。この人は、たしかに日本におけるエレキの「伝道師」かもしれないけれど、もはや本来のロックの人ではないでしょ。

鮎川誠とCharの二人は、それなりのロッカーらしい。しかしこの人たちの「歌謡曲」を聴いて、私はすっかり気持が萎えてしまい、以来興味を持てなくなってしまった。その曲とは、鮎川はシーナ&ロケッツのヒット「ユー・メイ・ドリーム」(1979年)、Charの方は大ヒット曲「気絶するほど悩ましい」(1977年)。どちらも売れ線ねらいの駄曲だ。ロッカーが「ユー・メイ」(有名)になりたくて「歌謡曲」に手を出すと、こうやってファンは去っていくのである。

渡辺香津美は、うまい人だけれどあまり個性を感じない。だから魅力も感じない。KYLYNやYMOとのライヴで聴いても、やっぱり全然印象に残らないのだ。
魅力がないという点では、日本のフュージョン系のギタリストは、私にはどれもみんな同じ。

そして鈴木茂。はっぴいえんどは私の大好きなグループだ。だからというわけではけっしてないのだが、この人の印象に残っているプレイは、結局はっぴいえんど時代のものだ。
ソロの代表作と言われている『バンド・ワゴン』は、ヘタウマ(?)のヴォーカルは置いておくとしても、演奏うんぬん以前に曲そのものに魅力がない。

というわけでいきなり斬りまくってしまった。
特集の全体を見わたしてもあんまり関心がわかない。その理由の一つは、この雑誌のこのての特集でいつも感じる「ロック度」の薄さだ。まあ今回の特集の前説でも「ジャンル横断で紹介」と広言しているわけだし、それがこの雑誌の持ち味でもあるのだが…。

フォークの石川鷹彦、中川イサト、村上律からなぎら健壱にいたる名手たちが入っているのはまあ問題ない。ロック・ファンにとってもかなり身近な面々だからね。
でもジャズの人たち、高柳昌行、増尾好秋、川崎燎などは、ややロックからのご縁は薄い。そして田端義夫、木村好夫など歌謡曲の人をあえてフィーチャーしたのは、選択の幅広さをアピールしたのだろうけど、もしかして奇をてらったのでは、とかんぐりたくなってしまう。 

しかしこんな「ロック度」が云々という前に、この特集に私の気持が盛り上がらない本当の理由がじつは別にある。それは、そもそも日本のロック・ギタリストって結局、外国のモノマネしてるだけじゃないの、という思いが私の中にあることだ。まあ、今さらの話なのではあるのだが。英米のロックのモノマネで終わっていて、自分なりの表現になっていなければ、聴く意味はないとも思っている。
そのような意味で今回の特集の中でわずかに私の目に留まったのは、たとえばこんな人たちだ。遠藤賢司、ツネマツマサトシ(フリクション)、山本精一(ボアダムス、ROVO)。他にもいるのだろうがが、残念ながらこれまで私には縁がなかった。 
この人たちはギタリストとしてどうこうという以前に、ともかく音楽そのものが独自で個性的だ。唯一無二 ワン・アンド・オンリー…。その音楽が素晴らしいのはもちろんだが、その志の高さにも惹かれてしまう。

反対にクロス・オ-ヴァー/フュージョン系の人たちはテクニシャンだけどつまらない。日本に影響を与えた海外ギタリストとして今回の特集でも紹介されているアール・クルー、リー・リトナー、ラリー・カールトンらの影響を受けた、というかマネをしてる人たちだ。いちいち名前は挙げない。
フュージョンてしょせん「商業音楽」でしょ。BGMにはいいかもしれないけど、まともに聴く音楽じゃない。

ところで、この特集の記事で知った事実がひとつ。
一風堂の土屋昌巳は、ジャパンのライヴ・アルバム『オイル・オン・キャンヴァス』での客演が印象に残っている。このアルバムで聴ける彼の演奏は、エイドリアン・ブリューばりのヘタウマなギターで、私はこれが土屋のスタイルなのかと思っていた。そしたら、この特集で彼がじつは多彩なスタイルのオール・マイティーなギタリストであることを知ったのだった。

今回の特集で懐かしい名前に出会った。
成毛滋(p.61)、陳信輝(p.64)、竹田和夫(p.51) 森園勝敏(p.54)…といった日本のロック黎明期のギター・ヒーローたちだ。久しぶりに彼らのアルバムを引っ張り出してきて聴いてみた。
成毛滋は、ストロベリー・パス『大烏が地球にやってきた日』(1971)、ソロ作(?)『ロンドン・ノーツ』(1971)、フライド・エッグ『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』(1972)、『グッバイ・フライド・エッグ』(1972)など。
陳信輝は、フード・ブレインの『晩餐』(1970)、ソロ作『SHINKI CHEN』(1971)、スピード・グルー&シンキ『イヴ』(1971)と『スピード・グルー&シンキ』(1972)などなど。
すっかり御無沙汰していたので、この二人については、こんなCD持っていたことを自分で忘れていた。
他に竹田和夫のブルース・クリエイション時代の『白熱のブルース・クリエイション』(1971年のライヴ)とか、森園勝敏は四人囃子のデヴュー作『一触即発』(1974)なんかも聴いてみた。

彼らはとにかくうまい。たいていはクラプトンか、ブルース・ロック系のギター・スタイルをベースにしている。が、本家のクラプトンには当然及ばない。モノマネを越えて独自のスタイルを作り出しているかといえば、それも疑問だ。
しかし彼らの音楽には英米のロックへの強い憧憬がある。そしてさらには、それを乗り越えてやろうという意欲がひしひしと伝わってくる。全然商業的でないし、実験精神にあふれている。
その姿勢にはやっぱり共感するし、感動してしまうのだった。モノマネにもそんな聴きどころはある。そんなことにあらためて気づくきっかけになってくれた今回の特集だった。感謝、感謝。

以下は、おまけでひとこと。
今号(2013年2月号)のレコ・コレ誌の特集はエリック・クラプトンの『スロー・ハンド』。
この特集の前説(p.40)に次の一文がある。
「『スロー・ハンド』は、『461オーシャン・ブールヴァード』と並んで、クラプトンの全キャリアを通じての最高傑作とされています。」
えっ、そんなこと、いつ誰が決めたの?
『スロー・ハンド』がクラプトンのAOR期の「最高傑作」と言うなら、「お好きにどうぞ」というだけのことだ。しかし、これが「全キャリアを通じての最高傑作」だとなると、これは聞き捨てならない。   レイド・バックする以前のクラプトンは全部無視するわけ?。
私は以前「エリック・クラプトンのアルバム5選」というのを選んだことがある。私のセレクションが正しいと言うわけではけっしてないが、世間にはいろいろな見方、考え方があるわけなのだから、「これこれが最高傑作とされている」みたいな、まるで定説のような言い方をするのはよくないと思うよ。

2013年1月10日木曜日

ユーミンの歌がリアルだった頃

昨年2012年は、ユーミンのデヴュー40周年だった。記念のベスト・アルバムが発売されたりしてだいぶ話題になっていた。
記念アルバムの新聞広告は、全面を何ページも使ったもので、そのド派手さ加減にちょっとびっくり。こんなことしなくたって、このアルバムは飛ぶように売れるだろうに。あい変わらずのバブリーぶりだ。

かつてロック少年だった私にも、ユーミンの歌を好んで聴いていた時期があった。今となってはちょっと恥ずかしい過去だ…。
私の好きだったユーミンは、荒井由美の時代だ。デヴューした1972年から76年くらいまで。アルバムでいうと73年のファースト・アルバム『ひこうき雲』、74年の『MISSLIM(ミスリム)』、75年の『COBALT HOUR (コバルト・アワー)』、そしてここまでのベスト盤である76年の『YUMING BRAND (ユーミン・ブランド)』くらいまで。
荒井由美名義ではこの後もう一枚『14番目の月』というのが出たが、これは聴かなかった。この辺からユーミンは何となく遠い存在になる。ただしこれ以降では唯一81年のアルバム『昨晩お会いしましょう』も気に入っている。
この中で私がリアルタイムで買ったのは3枚目の『コバルト・アワー』だったが、結局一番よく聴いたのは、ベスト盤の『ユーミン・ブランド』だ。オリジナル・アルバムではないけれど、ある意味でこのアルバムがユーミンの最高傑作ではないかとも思う。

後の松任谷由実と違って荒井由美の歌は、私にはとてもリアルに心に響いた。
この時期の荒井由実の歌は、あんまり明るくない。どのアルバムにも翳りがある。軽快なアメリカン・ポップ・チューン「ルージュの伝言」でさえ、内容は夫(マイ・ダーリン)が浮気して不安な気持になっている妻の話だ。
アルバムが全体に暗いのは失恋の歌が多いせいでもある。のちにユーミン自身が認めているように、この頃の彼女のアルバムには、「私小説」的な側面があるとのことだ。でも、翳りはあるがけっして湿っていないところがいい。

たとえば彼女の失恋ソングの最高峰(?)「海を見ていた午後」。横浜の山手にある海の見えるレストラン「ドルフィン」で別れた彼とのことを思い出している主人公。

ソーダ水の中を貨物船がとおる
小さなアワも恋のように消えていった
(「海を見ていた午後」『ミスリム』)

ここでは、失恋の痛みがクールな詩によって昇華されている。そんなクールさがよかった。
この頃の荒井由実のヒット曲の多くはこんな失恋の歌だ。「あの日にかえりたい」(シングル)、魔法の鏡」(『ミスリム』)、「12月の雨」(『ミスリム』)、「翳りゆく部屋」(シングル)等など。どれもそれなりに良い曲で、失恋の痛みはそのままに、その思いをクールでハイ・センスな歌の世界にまとめている。
バックのキャラメル・ママ/ティン・パン・アレイの演奏や山下達郎によるコーラス・アレンジも、この洗練された世界に大きく貢献している。

80年代以降のユーミンが、だんだんプロジェクト化するのに対し、この頃の荒井由実のアルバムには、まだ等身大の一人のシンガー・ソングライターの姿がある。
とくにあのあまりうまくないヴォーカルが逆に変にリアルだった。美声ではないし、声に伸びがなくて声域も狭い。でもそこが生々しかった。
たとえば「きっと言える」。転調してキーが上がると、サビの高音が苦しくなる。

あなたが好き きっと言える
どんな場所で出会ったとしても
(「きっと言える」『ひこうき雲』)

繰り返されるこのフレーズを一生懸命にせつせつと歌う姿が、ひたむきで健気(けなげ)で、そして切なかった。

この頃の曲の中で、とりわけ印象的なのは「ベルベット・イースター」と「やさしさに包まれたなら」の2曲だ。
「ベルベット・イースター」は、次のフレーズのイメージが素晴らしい。

空がとってもひくい
天使が降りてきそうなほど
(「ベルベット・イースター」『ひこうき雲』)

4月の小雨の日曜日の朝。低く垂れ込めている雲を、「天使が降りてきそうなほど」低いと形容している。「天使が降りてきそうな」というのは、たぶんイースター(復活祭)からの連想なのだろうけれど、とてもうまい。
けっして失恋の歌ではないのだが、しっとりと落ち着いた曲調も雲が低い日曜日の朝の雰囲気に合っている。
そして後半の一連のフレーズも新鮮だ。

ベルベット・イースター
きのう買った
白い帽子花でかざり
ベルベット・イースター
むかしママが好きだった
ブーツはいてゆこう
(「ベルベット・イースター」『ひこうき雲』)

ちょっと気取っているけれど、シンボリックな雰囲気もある。キラキラと清新なイメージが散りばめられた素敵な一節だと思う。これがデヴュー・アルバムの曲とは驚き。本当に「天才」だったのかもしれない。

もう一曲の印象深い曲「やさしさに包まれたなら」は、現在では超有名曲になってしまった。1989年のジブリのアニメ映画『魔女の宅急便』のエンディング・テーマになり、JR東日本のキャンペーン・ソング、そしてテレビ・ドラマの主題歌などでも使われてすっかりおなじみの曲になっている。
この曲にはバージョンがふたつあって、『魔女の宅急便』に使われた軽快なアップ・テンポのアルバム・バージョンの方が現在では広く知られている。しかし、私は断然、スローなシングル・バージョン(『ユーミン・ブランド』に収録)が好きだ。

この曲の何が良いかといえば、ここには幸福感があふれていることだ。まず誰もが大事に抱えている子供の頃の幸せだった感覚が次のように描かれる。

小さい頃は神様がいて
不思議に夢をかなえてくれた

あるいは次のヴァースでは

小さい頃は神様がいて
毎日愛を届けてくれた
(「やさしさに包まれたなら」『ミスリム』)

そんな子供の頃のような幸福感が、大人になって現れる瞬間がこの歌のテーマとなっている。

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつるすべてのことは メッセージ
(「やさしさに包まれたなら」『ミスリム』)

コーラスで繰り返されるこの一節。至福の時間にいるとき「目にうつるすべてのことは メッセージ」というのは、文学的だけれど、とてもリアリティを感じる。そんな幸福感は、シングル・バージョンの落ち着いたテンポの方がじっくり伝わってくる気がする。

その他に私が好きな曲としては、しっとりとした失恋ソング「雨のステイション」とか80年以降につながる吹っ切れた「チャイニーズ・スープ」(いずれも『lコバルト・アワー』)などがある。
荒井由実の曲は、翳りを感じさせながらオシャレで気が利いていた。バックの演奏も含め気取っていたり、背伸びしている部分もあり、そういうところは今から振り返ると正直、古臭くなってしまっている。しかしそんな部分も含めて、そこには等身大のシンガー・ソングライターとしての荒井由実がいた。オシャレな表現の中にも心に響くパーソナルなリアル感があった。

学生運動の余熱が消え去っていったあの頃。理想実現の闘争も自滅して、挫折感と無力感の中で、みんな呆然としていたあの頃。「就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね」(「いちご白書をもう一度」詞・荒井由美)の時代。
そんな中で折しも私は思春期を送っていた。不安で無力で自意識過剰な青少年だった。そんな呆然としていた自意識過剰の心に、荒井由美の翳りのあるしかもクールな歌は 不思議にリアルに響いたのだった。

その後80年代になってアルバム『昨晩お会いしましょう』で再びユーミンに出会うことになる。
そこでのユーミンは、自分のヴォーカルの弱点をもう完全に個性として活かしきっていた。歌の世界もかなり作り込んであって、どの曲も短編小説のようによく出来ている。あの頃はこのアルバムをBGMとしてずいぶん何回も聴いたものだった。
これに味をしめて、この後に出た82年の『パール・ピアス』や、83年の『リ・インカーネーション』も聴いてみたが、だんだんユーミンは遠いところへと去っていったのだった。

『昨晩お会いしましょう』はそれなりに良いアルバムだが、ここにいるユーミンは、職人としてのソングライターであって、その歌には荒井由実の歌がそうであったような個々の心に響くパーソナルなリアルさはもうなくなっていた。
心の中の微妙なニュアンスを切り捨てて、最大公約数的な紋切り型表現の音楽へと彼女は進んでいった。たとえば「春よ、来い」みたいなね。その結果、ユーミンが大衆の絶大な支持を集めたことは御承知のとおり。
アルバムを出せば必ずチャート1位。派手なコンサートは常に話題になり、まさに「日本の恋」のカリスマとなったのだ。そんな人気も最近は一段落したようだが…。
「ユーミン」とはもう巨大な音楽産業と化したプロジェクト名のように見えてしまう。一人のシンガー・ソングライターであった荒井由実の時代が今は懐かしい。

思い出にひかれて
ああ ここまで来たけれども
あのころの二人はもうどこにもいない
(「カンナ8号線」『昨晩お会いしましょう』)