2012年6月19日火曜日

「大エルミタージュ美術館展」

雨なので「大エルミタージュ美術館展」を見てきた。

6月の半ばの雨の土曜日、用事があって東京に出かけた。用事が済んだあと、展覧会でも見ようと思い国立新美術館に行ってきた。なぜ「雨なので」なのかというと、国立新美術館は地下鉄の乃木坂駅に直結しているので、濡れないで入れるからだ。まあそれだけのこと。

ところで今回はエルミタージュ美術館だが、これまで数々の有名無名の海外の美術館展が日本で開かれてきた。
一般論として、こういう美術館展というのは、内容的にはあまり期待できないというのが私の印象だ。
そもそもその美術館で持っている良い作品を、洗いざらい持ってくるはずがない。みんな持って来てしまったら、本家が空っぽになってしまう。それに大事な一級品を全部ではないにしろ、遠い日本に運ぶというのは、その美術館にとっては大変なリスクのはずだ。
だから、一握りの良いものと、あとは二級品以下の作品で埋めてお茶を濁すというのが、こういう展覧会の通例ではないだろうか。だいたい有名美術館の所蔵品が、すべて一級作品と考えるのが間違いだ。

エルミタージュ美術館展といえば、これまでにも国内で何回も開かれている。しかし、今回は国立の美術館で開いている展覧会なので、これまでとは違うのかなとちょっと期待はした。
展覧会名の頭に堂々と「大」をつけているのも、その辺の違いを強調したいせいではなかろうかとも思った。

それで見てみたわけだが…。結果、あまり面白くなかったというのが率直な感想。
展覧会は大評判だし、ネット上でも圧倒的に好評、そして実際に会場はたくさんの来場者であふれている。なので、一人くらい否定的な感想を言ったところで、何の影響もなかろう、ということで言わせてもらう。

あまり面白くなかったという理由の大半は私の側にある。が、展覧会の中身の方にも多少不満は感じる。それを順番に書き出してみよう。
まず私の側の問題。西欧の近代以前の絵画は、やっぱり私の体質には合わない感じがある。文化の違い、宗教観の違い、世界観の違い人間観の違い、生活の違いがどうしようもなく感じられて、見ていても共感できないのだ。
近代以降は、個人主義の時代ということもあり、もうちょっと身近な感じで見ることが出来るし共感もできる。

でもこの感じっていうのは、日本人に一般的なものなのではないのだろうか。
明治初期に日本に移入されたルネサンス以来の西欧の絵画は結局日本には定着しなかった。そして明治中期に黒田清輝らがもたらした印象派以降の西欧絵画が、結局は日本の洋画のスタンダードになったわけだ。
これを見ても、やっぱり日本人には、印象派以前の西欧絵画は体質的に合わないんじゃないかと思う。自分の感覚を正当化するわけではないのだが。

閑話休題。私がこの展覧会をあまり面白いと思わなかった理由は、展覧会の内容にもある。
第一には、作品の大半が、中型から小品ばかりだったこと。
大きければよいというものではないのだけれども。
第二には、作品が少ないこと。
「西欧絵画の400年」ということで、16世紀から世紀ごとに会場はコーナー分けしてある。しかし各世紀が約20点の中小作品では、あまりにも漠然として、焦点が合わない感じ。
第三には、なじみのある画家の名前があまりなかったこと(知らない私が悪いのかもしれないけど)。
第四には、なじみのある画家も、作品が少なく(1~2点)、しかも、それがあんまりぱっとした作品でなかったこと。
たとえばルーベンス、レンブラント、ドラクロワ、ルソーあたりの作品なんかどうでなんだろう。感銘したというような感想も見かけたけれども。私に見る眼がないのか。

しかしこの展覧会で最大の見所が、アンリ・マチスの大作「赤い部屋(赤のハーモニー)」だった。
この作品は文句なしに素晴らしかった。
装飾的な形態と、色彩によって強引に自分の美の世界を実現してしまうマチスの力技が堪能できた。
このクラスの作品があと4,5点もあれば、十分満足できたと思うのだが。

しかし、土曜日とはいえ会場がたくさんの人でにぎわっていたのには驚いた。
会場の最初のあたりだけ混んでいても、進んでいくうちに飽きて流れが速くなり、後半がすいているというのはよくあることだ。ところがこの展覧会は、最後までみんなていねいに見ていて混雑していた。
日本人というのはほんとに文化的なことに熱心だなと、これには素直に感心した

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