2012年6月19日火曜日

実食「一汁無菜」 梅干でご飯

私はもともと単品のメニューの食事が好きだ。麺類で言えば、もりそばとかもりうどん。ご飯だと、丼ものとかカレーのようなもの。ただしそれをたくさん食べる。こういう食事が栄養的には非常によくないということはわかっているのだが…。
この頃は歳をとってきたせいか、簡素な食事も好きになってきた(でも量は多い)。だから「一汁一菜」なんていう言葉には、がぜん興味がわく。

「一汁一菜」とは言うまでもなく、ご飯と味噌汁とおかず(菜)が一品の食事を指す。しかし、さらにこれに漬物もついている。漬物はこの場合「一菜」には数えないらしい。ご飯に当然付属しているものだからということなのか、あるいは、おかずとして一品に数えるほどのものでもないからなのか。
ただ、日本の食文化について説明する中などで「一汁三菜」という言葉が出てくるときは、漬物も「采」として数えているようだ。ここで言う「三菜」の内訳は、「主采」、「副采」、「副々菜」であり、漬物の類はこの「副々菜」に数えるらしい。

それはともかくとして、私はさらに「一汁無菜」というのを思い描く。おかずらしいおかず、つまり「一菜」はなし。いわゆる「ご飯のお供」だけで食べるご飯だ。
「ご飯のお供(友)」はひところ流行ったが、たぶん明確な定義はないだろう。「ご飯のお供」として名前が挙がるのは、たとえば、海苔、納豆、明太子、生卵、ふりかけ、漬物、たらこ、梅干、佃煮、いくら、塩辛などなど。書いているだけでよだれが出そうだ。
漬物が「一菜」に入らないのなら、これらもみな「一菜」未満ということになる。だからこういうものだけでご飯を食べるのが、すなわち「一汁無菜」というわけだ。

「一汁無菜」には何とも心を引き付けるものがある。以前この「一汁無菜」について以下のようなことを書いたことがある。

ご飯と味噌汁と、この中(上に挙げた「ご飯のお供」)からどれか一品があれば、ご飯1.5合、お茶碗で四杯くらいは、美味しく食べられそうだ。
ただし、「ご飯のお供」は、いずれか一種類でなければならない。二種以上を取り合わせると、お互いに邪魔しあってよろしくない。
海苔でも納豆でも明太子でもふりかけでも、とにかく一種類のものでご飯四杯。そうすれば、そのものの旨さを味わい尽くしたという満足感を得ることができる。
大事なのは満腹感ではなく、この満足感。満腹感も大事だが、私にとってはこの精神的な満足感が食事にはあって欲しい。

それで、いよいよこれを実践してみようと思いたったのだ。

ここで一応念のために言っておくと、これは「粗食」ということを楽しんでいるのではない。すなわち自らに禁欲を課して、精神的な満足感を得ようというのではないということだ。
そういうストイックな喜びではなくて、むしろ、徹底的に食事を楽しもうというエピキュリアン的な気持に従ってのことなのだ。いろいろなものを一緒に食べないのは、一つのものを味わい尽くすためには、他のものが邪魔になるからだ。
だいぶ大仰なことになってしまった。でも「ご飯のお供」を思い浮かべると、それだけでもうお腹が鳴る。ともかく「一汁無菜」を実践してみて、その感想を書いてみることにしよう。

で、その初回は、基本中の基本であるところの「梅干」。
まずひととおり、食材等の説明をしておく。使うのは特別なものではなくて、まったく普通の(普通以下の)ものばかりだ。
炊くご飯の量は、上にも書いたように1.5合。かなり多いかもしれないが、他におかずもないし、満腹になりたいので。これは、私のご飯茶碗でごく軽くよそって(約120g)四杯分になる。
お米は近所のスーパーで一番安い「あきたこまち」(茨城産)だ。これを炊く炊飯器は、圧力炊きのできるものだが、そんなに高級品ではない。ちなみにこの炊飯器は、お米の浸水時間が不要ということになっている。

肝心の梅干だが、これもスーパーで安売りしていたもの。器に移して、パッケージを捨ててしまったので国産のはずだが産地等は不明。安売りしているくらいだから無名のメーカーであることは間違いない。
 大きさは一粒が11~12g(種も込み)。そんなに大きくない。安物なのでけっこう塩分が強い(望むところだ)。カリカリ梅ではなくて、本来の果肉がぐだぐだのものだ。
 ご飯が四杯だから、一粒で二杯はいけるだろうと想定して、小皿に二粒のせる。

 味噌汁は、味噌がマルコメ君で、具材はたまたまキャベツとわかめ。
 と、だいたいこういう陣容だが、さらにいつもの習慣なので、ご飯に黒ごまを振るのは許してもらおう。
なお、当然のことながら栄養のバランスには、とりあえず目をつぶっている。

それではいよいよ実食。
味噌汁を汁椀につける。味噌汁はこの一杯きりで、お代わりなし。
ご飯をお茶碗によそう。四杯がだいたい均等(120g)になるよう心掛ける。よそったご飯に黒ごまをビンからぱらぱら振る。
おかずは小皿にのった梅干二粒のみ。
 日本人の食の原点まさにここにあり、といった景色だ。

まずは味噌汁を一口、二口と飲む。ついいつも本だしを多めに効かせてしまう。でもやっぱりその方がおいしい。ご飯四杯とこの味噌汁一杯がだいたい同時に食べ終わるように、配分を考えながら飲む。
その味噌汁の味で、ご飯を一口、二口、三口と口に運ぶ。味噌汁だけで三口食べられてしまった。考えてなかったけれど、味噌汁あと二,三回すすれば、このままご飯お茶碗一杯くらい簡単にいけてしまいそう。
ご飯を噛んでいると味噌汁の味が薄れていくにつれ、ご飯の旨みと甘みが口の中に広がる。

やがて、ご飯が口の中からなくなるのを見計らって、いよいよ梅干をほんの少しだけ小さくかじる。酸っぱさとしょっぱさがぱっと口中を満たす。唾液がどどっと出てくる。ご飯を箸で口に運ぶ。一口、二口、三口。
味噌汁のときもそうだが、私の場合、口に味があると三口ずつご飯が進むということがわかった。
そして噛んでいると梅干の味が薄れていき、それにつれてまたまたご飯の旨みと甘みが口の中に広がっていく。ご飯てこんなにおいしいものだったんだなあ。
もう一度、梅干をほんの少しかじる。また酸っぱい、しょっぱいからのサイクルが繰り返される。ご飯三口で、最後に旨みと甘みがじわっ。

梅干のサイクルを二回から三回繰り返した後、味噌汁のサイクル、つまり味噌汁をすすり、具を食べ、ご飯を三口。
これを繰り返し、お代わりをして、梅干一個で、お茶碗二杯食べられた。定食評論家の今柊二(こん・とうじ)の表現を借りて言えば、梅干の「おかず力」はかなり優れている。
三杯目のご飯で、もう一粒の梅干に手をつける。
舌が慣れてきて「美味しさ」度が低下するかと思いきや、そういうことはまったくなく、最初に感じた美味しさが持続し続けている。味噌汁、ご飯、梅干し、ご飯の繰り返しで、連続して口直しを行って、そのつど舌がリセットされている感じ。
梅干サイクルと味噌汁サイクルを繰り返しながら、ご飯をお代わりして、四杯目も無事食べ終える。味噌汁も梅干もほぼ同時に終了。これで完食だ。小皿の上には梅干の種が二個。

ごちそうさま。ああ、おいしかった。お腹もちょうどいい感じに満たされたし、何より心も満足。
梅干を食べるつもりだったが、結局一番美味しかったのはご飯そのものだった。梅干は、ご飯の美味しさを引き出す触媒という感じ。梅干の触媒力はすごいというのが今日の実感だ。

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