2012年10月10日水曜日

「与えられた形象 辰野登恵子/柴田敏雄」展

国立新美術館の「与えられた形象 辰野登恵子/柴田敏雄」展を見てきた。
自分から進んで見ようとは思っていなかった。ところが薦めてくれる人がいて招待券までもらってしまった。それで思い切って見に行ったのだったが、思いのほか良い展覧会だった。

もともと辰野登恵子は良い画家だとは思っていた。しかし、今回の展覧会を見に行く気になれなかったのは、柴田敏雄との二人展だったからだ。
抽象の画家と社会派(とこれまで私は認識していた)写真家、何ともちぐはぐな取り合わせに思えた。それで見に行く気持を殺がれてしまっていたのだ。
くわえてこの二人は東京芸大の油画科の同級生だったとのこと。新聞には「同級生2人展」なんていう見出しもあった。そういう作品とは関係ないくくりの二人展と聞くと、よけいばかばかしくなってしまった。

柴田敏雄には、もともとあまり興味がなかった。写真集までは手に取ったことはなかったが、写真雑誌でよく作品は目にしていた。彼の作品は、つねに山奥の土木工事による構築物の写真だった。土砂崩れを防ぐためにコンクリートで固めた崖とか、ダムの写真だ。
私はそれらの写真を、自然対人間の対立、あるいは日本社会の発展の裏にある自然破壊、といったような社会派的視点から撮られたものとてっきり思っていたのだった。

今回の展覧会を見て、それがまったくの誤解であることがわかった。
柴田が撮っていたのは、もっぱらそうした土木的構築物が見せる造形的な面白さだったのだ。今回の展覧会を見る限り、初期から近作まで、この視点はまったく変わっていない。むしろ、この造形性への興味は、どんどん深化していっているようにも見えた。
ただそうだとすると、そのような造形的な美をなぜ都市やその周辺ではなく(「ナイト・フォト」シリーズのような例外もあるが)、もっぱら山野の中に求めるのかが今ひとつよく伝わってこない。

さて会場は辰野と柴田の展示室がほぼ交互に配置されている。各展示室の構成は単純にクロノジカルではなく、時代を前後させたりテーマや素材によってくくったりと、なかなか工夫が凝らされている。
辰野の展示では、1980年代の作品を並べた一番目の展示室「1980年代」と二番目の展示室「円と丸から」がやはり素晴らしかった。私にとってはこの展覧会全体の中でも白眉といってよい。

この頃の辰野の作品に特徴的なのは、タイルや建築物に見られる装飾の文様のパターンを、非具象の空間に描き込むことだった。
繰り返される文様の導入は、とりとめのない抽象空間に装飾性をもたらして一定の秩序を与える。また同時に、その文様のパターンは、見るものに一種の既視感を引き起こし、過去の記憶のシーンを呼び覚まそうとする。
しかし、この時期の辰野の作品の素晴らしさは、そのような単なるモチーフのアイデアにあるのではない。何といっても彼女の色彩が放つ瑞々しい叙情性と画面にあふれる躍動感にあると思う。
「円と丸から」のシリーズは、その意味でこの作家の頂点を示す作品群だろう。こんなに豊かで軽やかな情感と浮遊感のある自由な動きに満ちた抽象絵画は、少なくとも同時代の日本にはなかった。

1990年代以降、辰野はまた違う方向へと進んでいく。より現実感のある造形を描く方向とでも言ったらいいか。情感は深化し、造形性は堅固なものとなっていく。
二人の展示室を次々に進んでいくにつれ、両者の作品がどんどん接近しているように見えてくる。造形の重厚さをしだいに増す辰野の絵画と、モノクロからカラーに変わり対象の造形性にさらに集中していく柴田の写真。その距離はもうそんなに遠くない。
なるほど、この二人展の本当のオチは、「同級生云々」ではなく、ここにあったか。と、あらためて企画者の意図を了解した次第。お見事。

でもやっぱり辰野登恵子の個展として見たかった、というのが本音ではある。

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