2013年3月23日土曜日

「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」展

茨城県近代美術館で2013年2月5日から3月20日まで開かれていた展覧会「二年後。自然と芸術、そしてレクイエム」展を見てきた。
開会直後から気にはなっていたのだが、このタイトルに気持が萎えてしまい、ついつい行きそびれていた。結局、閉幕直前ぎりぎりに駆け込みで見ることになってしまった。
それにしてもこの展覧会タイトル、句読点を含んでいてひどく散文的だ。そして、展示の中身の方も、このタイトルにみごとに(?)対応して散文的な内容だった。何となくまとまりがなく雑然とした感じ。

受付でこの展覧会のチラシをいただいた。裏面の説明文が、なかなかスバラしい。最近ではめったに目にしなくなった哲学的とも言えるような内容の文章である。
たとえば「自然とのあいだに想定していた遠近法の世界が崩壊する恐怖」とか、「私たちは、死者たちと共に在ることで、生かされている」といった難しい言い回しが並んでいる。知的な刺激を感じる反面、抽象的過ぎてこの展覧会の解説にはなっていないことも事実。
結局何だかよくわからないまま展示室に足を踏み入れた。

後で美術館のホームページを見て、この展覧会の趣旨と概要を何とか理解することができた。
この展覧会は、次の三つのグループの作品から成っているとのこと。すなわち、(1)震災(関東大震災、阪神淡路大震災、東日本大震災)に関わる作品、(2)それぞれの作家が独自の視点で自然の本質を捉えようとした作品、そして(3)死者を思う作品。
言うまでもなく芸術にとって「自然」も「死」も古くから問い続けられてきた大きなテーマのはずである。ここでこの三つのグループの作品をくくるのが東日本大震災の体験ということになるらしい。
その前提として、「突然おこった大地震は私たちのものの見方に影響を与えていると思われる」(茨城近美HPより)とあるように、今回の震災によりわれわれの自然と死者に対する認識が大きく変化したことが指摘されている。
その新しい認識をもとにして「震災」と「自然」と「死者」をひとくくりにしようというわけだ。

しかし、その点に関して私は実感として納得できない。また来るかもしれない自然の脅威を恐れつつも、結局はこれまでとあまり変わることなく自然と向き合っているのが現実ではないのか。死者についても同様だ。
何しろ、あのような被害をもたらした原発に対してさえ、何ごともなかったかのように再稼動を容認し、今後も依存していこうとする「懲りない」人たちが世の主流を占めているくらいなのだから。

というわけで、この三つのグループの作品をひとつに関連付けることには無理を感じた。
さらに(1)の震災に関わる作品のグループも、①作品そのものが震災をくぐり抜けたという作品(横山大観「生々流転」や木村武山の杉戸絵など)と、②震災を描いた作品(萬鉄五郎「地震の印象」など)ないし震災をきっかけとして制作された作品(河口龍夫の作品など)とに分かれる。
前者①は来歴は震災に関連しているものの、作品の内容は当然震災とは無関係だ。だからこの二つを一つのグループとしてまとめるのもおかしな気がする。

会場ではこれら三つのグループの作品がコーナー分けされることなく混在して展示されている。これも一定の意図があってのことなのだろう。しかし私は関連のないいろいろなテーマの作品がばらばらに並んでいるような印象を受けた。

ここまで展覧会の趣旨そのものについてゴタクを並べてしまった。しかし本来私の持論としては、展覧会全体のコンセプトはどうあれ、その中に良い作品があれば、それは良い展覧会ということになる。ちなみに良い作品はないけれども、コンセプトだけは良い展覧会というものもあり得ないと思う。
さて今回の展覧会ではどうか。
何といっても牧島如鳩(まきしま・にょきゅう)の「魚籃観音像」と橋本平八「石に就て」の印象が強烈だ。この美術の既成概念を逸脱したヘンテコな迫力。久しぶりに美術館で理屈抜きのセンス・オブ・ワンダーを味わった。
それからあとは、現代作家たちの作品がどれも充実していた。とりわけ井上直、野沢二郎、間島秀徳らの作品には、深い内省と沈思が感じられて良かった。
中でも井上の描く世界は震災後のわれわれの心象風景を象徴的に示していて心打たれた。もっともっとこの作家の他の作品も見たい気がした。

それから横山大観の「生々流転」と河口龍夫の作品が向かい合うように並んでいたのも印象的だった。
河口は一定のコンセプトをもとにして作品を生み出す作家だ。一種のコンセプチュアル・アートなのだが、それを造形としてまとめるデザイン・センスが非常に優れている。
しかしややもするとそのデザイン・センスが、コンセプトを超えてしまっているようなところがある。コンセプトが骨太に迫ってこないのだ。今回もそんな感じをちょっと受けた。

片や大観の「生々流転」は何しろ重要文化財であるから、近代絵画の最高峰ということになっている。
しかし、これは結局、人の一生を水の流れになぞらえるというコンセプトを、優れたデザイン・センスで視覚化した絵解き画なのだと思う。
しばしば行われているようにこの作品をその造形性ではなく精神性という観点で語るのは、一見、的外れのようでいて、じつはこの作品のコンセプチュアル・アートとしての本質を抑えた当を得た発言なのかもしれない、とさえ思えてくる。
 というわけで、大観と河口の向き合う配置は、その対比から(たぶん)期せずして大観のコンセプチュアル性を思い起こさせるという点でとても面白いものだった。

美術館はこの展覧会を、「3.11の震災から二年後の時期にあたり、自然の不条理という現実に対して美術と美術館が何をなしえるかを問う企画展です」(茨城近美HPより)と謳う。しかし、その一方で「芸術が震災後の社会に力になれるなどとは申しません」(展覧会チラシ)とも語っている。もちろん後者が正しい。
悲惨な現実を前にして美術は無力だ。しかし、人間が生きていくためにやはり美術は不可欠なものだと思う。
だから美術館は直接に不条理な現実にコミットしていく必要はない。なすべきは良い作品を見せること、見せ続けることなのだ。ひたすらそのことに専心して欲しいと願う。それがつまり震災に打ちひしがれた人を含むすべての人々が生きていくことを支えていることになるのだから。

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