2012年12月25日火曜日

キング・クリムゾン『太陽と戦慄』への道のり(第4回)


<『太陽と戦慄』への道から見えてくるもの>

この1972年年末の英国ツアーのセット・リストは、アルバム『太陽と戦慄』のための新曲6曲と過去の曲「21世紀のスキッツォイド・マン」、そして2曲の即興曲から成り立っていた。
『太陽と戦慄』収録曲と即興曲とは、何となく別ものというイメージが私にはあった。アルバム収録曲の細部まで緻密に練り込まれた音と、ライヴの場で成り行きにまかせて演奏された即興の曲とでは、成り立ち方が全然違うような気がしたからだ。

しかし、それは我々がすでにアルバム『太陽と戦慄』を先に聴いた上で、それに先立つこのツアーの音源を聴いているためなのだろう。
あらためてこれらのライヴ音源を白紙に戻って聴いてみると、アルバム収録曲と即興曲との間にはそれほど大きな隔たりはないということがわかる。

このツアーに足を運んだ観客の立場になってみよう。アルバム『太陽と戦慄』はこの時点ではまだ発表されていない。だからステージで演奏されるのは、「21世紀の…」を除いてすべて未知の曲ばかりだ。
とくにツアー後半からつながって演奏されるようになった「土曜日の本」~即興曲~「放浪者」のパートなど、どこからが即興でどこからが事前に出来上がっている曲なのか、観客はわからないまま一つの流れとして聴いていたことだろう。
「イージー・マネー」~即興曲のパートも同じ。「イージー・マネー」の間奏部など、観客はたぶん即興として聴いていたに違いない。

そんなことを考えていたら、『太陽と戦慄』というアルバムのそこここに即興的な要素が聴かれることにあらためて気がついた。
もちろんこのアルバムにライヴでやっていたような即興の曲そのものは収録されていない。しかし、それぞれの曲の中に即興的な要素があるのだ。きっちり構成されている中に、いわば即興的な要素を内包しているように見える。
たとえば、「太陽と戦慄 パート1」の動から静へと展開する中間部や「イージー・マネー」のじわじわと迫る間奏部分、そして「トーキング・ドラム」の全体だ。そこでは、ライヴの場で鍛えられた即興演奏のエネルギーが、一定の枠の中で噴出している。

このような練り上げられた構成の中での生々しいパワーの発露こそ、新生クリムゾンでフリップが実現したかった音なのではなかろうか。
手堅いテクニシャンぞろいのメンバーに加えて、破天荒なミューアを起用したのは、こうした生なパワーの実現の意図によるものであったと思われるのだ。

このツアーの音源を聴いていると、ミューアの演奏が必ずしもいつも前面に出ているわけではない。それを期待して多くの人はこの時期のブートレグに手を出したわけだが、その期待は裏切られたはずだ。
しかしミューアは、自分が発する音だけではなく、インプロヴィゼーション全体を煽(あお)るという点で、サウンドに貢献していたのではないかと思われる。

今回このツアーの音源を順に通して聴いてみてあらためて思うのは、彼らの即興演奏におけるインター・プレイというものが、どんどん進化&深化していることだ。
ズーム・クラブでの混沌とした世界から、即興演奏は次第に一体感を増してゆく。リズムを軸としたインタープレイは、ときどきジャム・バンド的な様相を見せることもあった。
それが、さらにツアー終盤には、現代音楽あるいは、フリー・ジャズ的にも聴こえるフリー・フォームな即興へと進化している。リズムに頼らない、無調、無ビートのフリーな展開は、緊迫感のみで成立しているより高次なインタープレイと言えるだろう。
ちなみに、ジェイミー・ミューアがクリムゾンの前に参加していたザ・ミュージック・インプロヴィゼーション・カンパニーは、まさにそのようなフリー・フォームのインタープレイを追及していたバンドだった。

<『太陽と戦慄』というアルバム>

このアルバムの曲は、基本的なアレンジは、ここまでのライヴでの演奏と同じだ。ただ、たとえば次のような点が新たにスタジオで付け加えられている。
「太陽と戦慄パート1」では、ラストにドラマの台詞のような人の声が多重に重ねられたSEが入っている。長くドラマティックな展開の曲の終盤に不思議な余韻を添えている。
「土曜日の本」では、テープの逆回転による奇妙なギターのメロディが聴こえる。あっさりしたヴォーカル・チューンに不思議な陰影が付け加えられている。最後の方でヴォーカルにコーラスも重ねられている。
「イージー・マネー」では冒頭からジェイミー・ミューアが大活躍だ。とくに間奏では、ミューアの奇抜でかつデリケートなプレイをじっくり聴くことができる。

ツアーのライヴ音源と比較するために、久しぶりに何度も繰り返しこの『太陽と戦慄』を聴きなおした。
『クリムゾン・キングの宮殿』とはまったく違ったコンセプトであることが、あらためてよくわかった そして、ここからが現在に続くフリップのクリムゾンの始まりであったことも。
さらにそれまでのサウンドと大きな隔たりを感じたディシプリン期のクリムゾンが、フリップにとってはそれ以前から連続しているものであったことも何となくわかったような気がする

ところで、今回の『ボックス』や、それに先立つ『コレクターズ・キング・クリムゾン』シリーズによって、この過去のライヴ音源がオフィシャル化された際に、それぞれの即興曲にタイトルが付されている。
ビート・クラブのときの即興曲につけられた「The Rich Tapestry Of Life」のように、特別のいわくのあるもの(ミューアからフリップに宛てた葉書の一節による)もある。しかし、大半はたぶんちょっとした言葉遊びといった感じのものだ。

そこから想像するに、ミューアのアイデアによるという曲タイトル(アルバム・タイトルでもある)「Larks' Tongues in Aspic」も、そんな言葉遊び的なノリでつけられたものと思えてくる。
ロックのライターたちが昔からしたり顔で引用してきたこのタイトルについてのブラッフォードのコメントがある。すなわち「ひばりの舌=優美さ、繊細さ」、「アスピック=荒々しさ」の象徴という絵解きだ。これはまあ話半分くらいに聞いておけばいいのではないか。
この辺のニュアンスについて触れた『レコ・コレ』誌2012年12月号『太陽と戦慄』特集の木下聡「英国人の言語感覚から再考する」が。舌足らずのまま、尻すぼみに終わっているのは残念だ。

<おわりに>

今回私は『太陽と戦慄 40周年記念エディション』CD+DVD版を手に入れた。このCDの方には、3曲のボーナス・トラックが入っている。「太陽と戦慄 パート1」と「トーキング・ドラム」のオルタネート・ミックス、そして「土曜日の本」のオルタネート・テイクだ。
ボーナス・トラックというのは面白かったためしがない。所詮は「おまけ」だからね。しかし今回のこの3曲は、意外にもどれも素晴らしく良かった。

「太陽と戦慄 パート1」と「トーキング・ドラム」は、フリップのギターとミューアのプレイが強調されている感じ。
「土曜日の本」は、ヴァイオリンと逆回転ギターの入っていない、ヴォーカルとギターだけのシンプルな演奏。繊細さが際立っている。
どれもオリジナルの曲に新しい光を当てると同時に、それぞれのテイク自体もオリジナルに匹敵するくらいの良い出来だと思う。

それにしても1972年年末ツアーの音源を良い音で聴きたい。ほとぼりが冷めた頃、こっそりとこの『40周年記念ボックス』のディスクがバラ売りされる、なんてことはないのだろうか。そうなることを心から祈っている。

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