2012年8月17日金曜日

「須田国太郎展」

「須田国太郎展」(茨城県近代美術館)を観てきた。
考えてみると洋画の展覧会に足を運ぶのは、ずいぶん久しぶりのこと。「洋画」というものに、もうあんまり興味を持てないのだ。しかし、今回は特別だった。
私は以前からこの須田国太郎という洋画家に少なからぬ関心を持っていたのだ。作品に触れたことはそれほど多くないが、この画家の画集は手に入れて図版でだいたいの作品は知っていた。
数年前に須田の回顧展が中央で開かれたが、観に行く機会を逸してしまった。
そうしたら、今回、没後50年ということで、再度、回顧展が企画された。しかもそれが地元水戸に巡回すると聞いて、期待して待っていたのだ。

なぜ私が須田国太郎に興味を感じるのか。
理由のひとつは、彼がかなりデビューの遅い画家である点だ。どうでもいいような理由ではある。
須田は留学から帰ると、高校の講師をしながら制作に励み帝展に応募するがみごとに落選。これが32歳のとき。その後、東京銀座の資生堂画廊で初めての個展を開いたのが、なんと41歳のときだった。
十代や二十代で逝く夭折の画家がもてはやされる日本の近代美術の歴史の中で、須田のこの「遅咲き」ぶりは、いぶし銀のような鈍い輝きを放っている。しかも、周囲とは隔絶したようなあの暗い作風での開花だったのだから。

しかし、私が須田国太郎に興味を感じる本当の理由はもうひとつ別にある。それは、この画家が西欧の油彩画(つまり「本場」の油彩画)をちゃんと見据えた上で、物まねでない「日本固有の油彩画」を生み出そうとした点だ。
この点について語る前にまず私なりの「洋画」観について語る必要がある。
先日の国立新美術館「『具体』展」の感想にも書いたことだが、私は「日本の洋画」というものが、いまだに西欧絵画の模倣の枠内にあると思っている。「洋画」は日本の中で、ガラパゴス的展開は遂げたが、世界にはまったく通用しない奥の細道に入り込んでしまっている。
近代以降日本の独自の美術と言えるのは、1950年代以降の現代美術からだろう。海外において日展の大家の作品は値無しだが、奈良や村上の作品に何億の値がつくことが、このことを如実に示しているとも言える。
須田は京大で美学・美術史を学び、その後渡欧して現地で「本場」の作品にじかに接している。そのようにして深く西欧の絵画を理解したうえで、単なる物まねでない「日本固有の油彩画」を創り出そうとしたのだった。
総体としては、未だに西欧の物まねの域を出ていない「洋画」の中で、はたして須田の「日本固有の油彩画」は実現したのだろうか。そこがずっと気になっていた。

展示作品は約120点。時代別、テーマ別に並んだ作品を見ていくと、描いているテーマの特異性はとりあえずおいておくとして、暗い色彩と装飾的なマチエール(塗ったり削ったりの繰り返しで生まれる)の実現の方に、もっぱら須田の関心は収束していったように見える。
それが「日本固有の油彩画」というものについての須田の結論であったのだろうか。このような表現法こそが、「日本の風土に根を下ろした日本固有の油彩画」(須田自身の言葉)なのだろうか。

そうなのかもしれない。そうなのかもしれないがが、私は手放しで共感することはできなかった。
須田のこのような作風は、厚塗りによって油彩画に接近してきた現代日本画のそれに結果的に限りなく近い。単純化と様式化による装飾性が、写実とミックスされている。日本的な美意識と西欧的な理性の混交。たしかに西欧の模倣の域は脱しているのかもしれない。
ただしかし、決定的に言えるのは現代的でないということだ。ということは、つまり東西を越えた普遍性には到っていないということではないのか。
須田国太郎の生き方、画家としての姿勢、そして「絵との格闘」の軌跡には共感する。しかし彼の作品は、良い意味でも、そしてまた悪い意味でも「日本固有」と言わざるを得ないようである。

平日とはいえ会場はかなり空いていた。やはり、一般的にはマイナーな画家なのだな、とあらためて思った。

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