2012年8月15日水曜日

「北斎展」

『北斎展』(いわき市立美術館)を観てきた。
べつに葛飾北斎に特別の関心があったわけではない。と言うか私はそもそも浮世絵というものにさほど興味がわかない人なのだ。
私の知人に日本美術なら古代から近代まで何でも大好きという人がいる。ところが、ただ唯一、浮世絵だけは例外というのだ。その気持、私にも何となくわかる。わたくし的に言うと、浮世絵のあの何とも感情移入のしようのない感じ、ということはつまり共感の持ちようがないというところがちょっと苦手なのだ。

いきなりの浮世絵批判みたいなことになってしまった。
もう少し言わせてもらうと、北斎と言えば日本人なら誰もが知っているいわば手垢のついた存在である。私だって興味がないとはいえ、一応はその作品について知ってはいるつもりだ。だからなおのこと、あらためて作品を見ようなどという気にはなかなかならない。
というわけで、まったく期待度ゼロの状態で(なら何で観に行くんだ、と言われそうだけど)、会場に足を踏み入れたわけなのだった。

ところがところが…である。結果的には、つい見入ってしまうような作品にも何点か出会い、いろいろな発見もあったりで、思いのほか良い展覧会だったのだ。
会場に入って最初のあたりは、「まあこんなもんだろう」と、流していた。しかし、だんだん進んでいくにつれ、「おっ」とうならされるような作品があり、さらにいくつかの作品には思わず引き込まれてしまった。
何に驚いたのか。何がそんなに良かったのか。簡単に言ってしまえば、その「異常」とも言える造形のセンスだ。
北斎といえば日本を代表す美術家である。先ほども触れたように、日本人で北斎を知らない人はいない。しかし、目の当たりにした彼の作品に見られる美意識は、とても日本のスタンダードな美意識とは言えないものだ。それはもっと「異常」だ。

『富嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』といったシリーズにとくに顕著に見られるのだが、遠近の歪んだ空間の表現や、写実的な描写(たとえば風景)と様式的な表現(たとえば水面の波)との混合や、波や滝の水しぶきの抽象的とも見える表現法などなど…。有名な『富嶽三十六景』の内の「神奈川沖浪裏」、「遠江山中」(手前にのこぎり男)、「尾州不二見原」(手前に桶屋)などみんなそうだ。
そしてとくに『諸国瀧廻り』の落下する水の表現の奇矯なこと。
これらは、日本のスタンダードというより、かなりクセの強い独自のものだ。そしてそのどれもが、現代のわれわれの意表をついてきて魅力的だ。

こうした表現法は、当時の浮世絵購買層の注目を集め、購買意欲を刺激するために、ウケをねらい、どぎつさを強調し、極端な誇張をエスカレートさせていった結果なのであろう、たぶん。その先で行き着いたのが、この強烈で異常で奇矯な表現の数々であったのだろう、たぶん。しかし、それは日本の美を越えて、ワールドワイドの近代意識に通用する普遍的な美だったというわけだ。

北斎は数々の奇行で知られる人物らしい。
生涯に93回も引越しをしたとか、食事は自分では作らずすべて買ってきたものですまし、食べ終わるとその包装やいれものをそのまま放置するので室内はゴミだらけだったとか、絵が売れてそれなりの画料を得ていたのに金額も確認せずに集金の商人に与えてしまうので、つねに貧乏だったとか…。どれも何となくウソ臭いが、むしろ作品の奇矯さから、そんな風変わりな作者像が形作られていったのではなかろうかという気もする。

 最後に展示について。今回の展示数は全部で170点。すごいヴォリュームだ。しかし、同じような大きさのものが延々と並んでいると、最初から最後まで集中力を持続させることはほとんど不可能だ。個人的には100点くらいが限度。ところが、今回の場合、後のほうに行くにつれ作品のテンションが上がってくる感じ。なので、前半でくたびれて後半を流してしまっては何とももったいない。会場構成に何か工夫はないものなのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿