2012年2月10日金曜日

私は温泉が嫌いだ  偏屈日記その2

みんな温泉が好きだ。温泉に行ってゆっくりしたいなと言えば、みんながそうだねとうなずく。
ブームというにはもうずいぶん長いこと、温泉ブームが続いている。定番の温泉から山間の秘湯まで、毎日毎日ラジオやテレビで温泉の情報が流れない日はない。みんな温泉に行って疲れた心と体を癒したいのだろう。温泉の時代である。

こんな時代の風潮の中で、ものすごく言いにくいけど、じつは私は温泉が嫌いです。
世間の人に知られないように、人にはなるべく言わないようにして生きてきた。しかし、ついうっかりはずみで口にしてしまうこともある。すると、またまた周囲から白い眼で見られ、変人扱いされることになる。

近場の温泉で、泊りがけの宴会があったりする。そういう場合、私はいつも温泉には入らないまま帰ることになる。お酒を飲んでお風呂に入ると体に良くないから(これは本当らしい)などと言ってごまかしながら。

でも本当は、もともと風呂が嫌いなのだ。嫌いというより、まず、とにかく面倒。服を脱いで、体を濡らし、その体を拭いて、また服を着る。これが面倒。……あきれてますね。
そして、あの湯ぶねにつかっている時間が、何とも退屈というか、手持ち無沙汰というか、何をしたらいいのかわからないというか、とにかく時間をもてあましてしまう。皆さんそういうときどうしているのでしょう。そんなこと感じないんでしょうね、風呂好きの方は。……そうとうあきれてますね。
ただ唯一例外があって、家族で旅行したとき、風呂上りのあのビールが飲みたいばっかりに、自らすすんで風呂に入る、ということはまあある。
というようなわけで、私は風呂が嫌いなのだ。

それでも不潔になるから仕方なく日常的には風呂に入っている。私の場合は、朝風呂。仕事をしている頃から一年を通じていつも朝風呂だ。この頃のような厳寒の時期も、もちろん朝に入っている。その分早く起きているが、一日を始める段取りの一部になっている。
ちなみに北大路魯山人も朝風呂派で、その後「湯から出れば間髪を入れずビールの小壜を数本痛飲する」のだそうだ(「小生のあけくれ」1959年)。なんとうらやましいこと。
当然、朝風呂については、家族からエネルギーの無駄だからやめろと言われている。たしかにその通りです、スミマセン。
しかし、夜、さああとは寝るだけ、というくつろいだ時間に、この面倒臭いことをするのはいやなのだ。すぐ布団に入って安らかに眠ってしまいたい。

というわけで風呂は、入らなくてよいなら入らないで済ませたい。だから風呂に入るために、入ることを目的として、どこかに出かけていくなんてことは、私にはとても考えられないのでした。
これは私だけなのでしょうか。そうかもしれない。でも、今、一人暮らしの若い人には、バスタブに湯をはってつかることをせず、シャワーだけで入浴を済ます人が増えているという。こういう人たちには、私の気持ちがわかってもらえるのではないかな。

ともかく温泉が大好きな皆さん、世の中の人全員が、あなたと同じように温泉が好きなわけではないのです。世の中には、あなたと違う感じ方の人もいるのです。そんな人もどうか許容してあげてくださいね。

2012年2月9日木曜日

私は犬が嫌いだ  偏屈日記その1

以前、初めてのスーパーに立ち寄った時のこと。店内を歩いていたら、何かお酒のつまみによさそうなものが目に入ったので、うまそうだなと手に取った。そしたら連れに「それ、犬の食べ物だよ」と言われた。よく見るとそこはペットフードのコーナー。恥ずかしかった。
スーパーのペットフード売り場が、いつの間にか充実している。散歩していると、犬を連れて歩いている人を頻繁に見かける。うちの近所には、こんな田舎なのに畑のまん中に犬のトリミングとトレーニングをするお店があったりする。
間違いなくペットブームらしい。犬は家族の一員となり、ペットのためのホテルとか、あるいはお墓まであるという。
飼い主たちは、ペットによって癒しを与えられ、孤独を慰められている。ペットの時代である。

こんな時代の風潮の中で、ものすごく言いにくいけど、じつは私は犬が嫌いです。
世間の人に知られないように、人にはなるべく言わないようにして生きてきた。しかし、ついうっかりはずみで口にしてしまうこともある。すると、一瞬の間(ま)の後、「えっ」と驚かれ、とたんに白い眼で見られ、変人扱いされることになる。
癒しの時代の犬嫌いは、禁煙の時代の喫煙者よりも、もうちょっとさらに分が悪い、というのが私の実感。

私は幼児の頃、一度、犬に追い回されて、咬まれこそしなかったが心底怖い思いをした。たぶんそれがトラウマになっているのだと思う。
いまだに少し大きな犬を見ると怖いと感じる。なるべく離れて行き過ぎることにしている。飼い主は、うちの犬に限って絶対に人に咬みついたりしないと思っている。実際にそのとおりかもしれない。が、第三者である私には、それが猛犬に見えてしまうのである。

そういうトラウマがあるから、怖いだけでなく、犬は嫌いだ。こちらが嫌いだと思っていると、向こうにもそれがわかるらしく、よく吠えられる。
ここから少し偏屈なこと書くけど、犬が吠えかかるのは人間に対して失礼だと思う(半分冗談ですよ)。
たとえば庭で遊んでいる幼児がいて、通りがかりの見ず知らずの人に、「ばかたれ」とか「向こうへ行け」とか声を挙げたとする。いくら子供のしたこととはいえ、失礼だし言われた方はいい気持ちはしないでしょ。
犬だから、動物だから、吠えかけるのはしょうがない、ということになっている。けれど、不愉快になるのは同じだ、少なくとも私には。どうか、吠える犬は人の目に触れない奥のほうに押し込んでおいて欲しい(それでは、番犬にならないか)。
それにしても、本当に犬嫌いの人って私以外にいないのでしょうか。
 
まあ冗談(半分)はこれくらいにして、ともかく愛犬家の皆さん、世の中の人全員が、あなたと同じようにあなたの犬を可愛いと思っているわけではありません。世の中には、あなたと違う感じ方の人もいるのです。そんな人もどうか許容してあげてくださいね。

2012年2月8日水曜日

「一汁無菜」 シンプルなメニューが旨い

 私は単品メニューの食事が好きだ。
 もりそばとか、うどんとか、あるいはご飯と何か一品、つまり「一汁一菜」である。そのかわり、それをある程度の量は食べたい。こういう食べ方は、栄養学的には、当然良くないとされている。たしか一日に30品目の食品を摂りなさいとも聞く。
こんな私に対し、うちの奥さんはいろいろのおかずが、ちょこちょことたくさんある食事を好む。たとえば、セット・メニューとか、幕の内的なものとか、懐石料理風のものである。
ときどき奥さんと外食するときに、彼女に付き合って私もそういうメニューを食べることはある。しかし美味しくても、どうしても多少の不満が残る。
並んでいる中で特に美味しい一品を、もっと食べたいのに食べられない物足りなさがまずある。そして、いろいろなものが目の前に並んでいるが故の気ぜわしさ(これはもちろん私の心の中の問題)。さらに、ひとつずつじっくり味わいたいのに、お互いの味が邪魔しあってしまう感じ。ちょっと大げさかな。まあ、わかる人にはわかるし、わからない人にはわからないだろうな。

こういう食事の嗜好は、私の個人的なものなのだろうか。それとも、男性に特有で一般的なものなのだろうか。サラリーマン諸氏には、毎日毎日、お昼にもりそばだけ食べている人がかなりたくさんいるよね。私もその一人だったけど。
ところが女性に関しては、うちの奥さんと同様の「少量他品目」メニュー派の人にしか私は出会ったことがない。これも女性特有の一般的傾向なのだろうか。そういえば、「レディース・ランチ」と銘打ったものには、そんなメニューが多かったかもしれない。

アメリカの作家ウィリアム・サローヤンの小説「パパ・ユーア クレイジー」の中に私と同じようなことを言う登場人物が出てくる。
これは十歳の男の子「僕」と小説家である「僕の父」との二人の生活を、会話を中心に描いた作品だ。「僕の母」は、離婚したのか別居しているのか、一緒には住んでいない。
それまで母と住んでいた「僕」が、今度は父と暮らし始めることになる。最初の食事のときのこと、「僕の父」が自分の作った料理をテーブルに運び、二人は向き合ってそこに座った。それがどういうメニューだったかはもう覚えていない。が料理は一品だけだった。
「僕の父」が自分は単品の料理を量多く食べるのが好きなのだと「僕」に語る。けれど、おまえのママは、いろいろなものを少しずつ食べるのが好きだった、とも。
「僕の父」と「僕の母」との微妙な生活感覚の違いが浮かび上がり、別居するに至るさまざまな事情がぼんやりと暗示されるエピソードだ。
が、それはそれとして、私は単純にこの「父」の食事の好みに共感を覚えたのだ。ああこの人も私と同じだと。ちなみにうちの夫婦の場合は、互いの食事の嗜好性の違いを乗り越えて(?)、夫婦仲は良いほうです。

私も年をとってきたせいか、最近このような単品嗜好というか「一汁一菜」好きがさらに高じてきた。
ひところ「ご飯のお供(友)」というのが流行った。「食べるラー油」ブームの余波だったかもしれない。
「ご飯のお供」として名前が挙がるのは、たとえば、海苔、納豆、明太子、生卵、ふりかけ、漬物、たらこ、梅干し、佃煮、いくら、塩辛などなど。どれも、かなりそそられる。
ご飯と味噌汁と、この中からどれかひと品があれば、ご飯1.5合、お茶碗で4杯くらいは、美味しく食べられそうだ。
ただし、「ご飯のお供」は、いずれか一種類でなければならない。二種以上を取り合わせると、お互いに邪魔しあってよろしくない。
海苔でも納豆でも明太子でもふりかけでも、とにかく一種類のものでご飯4杯。そうすれば、そのものの旨さを味わい尽くしたという満足感を得ることができる。大事なのは満腹感ではなく、この満足感。満腹感も大事だが、私にとってはこの精神的な満足感が食事にはあって欲しい。

ところで「一汁一菜」は、正確に言うと白飯と味噌汁とおかず(惣菜)一品と漬物の四種をセットにして食べることだ。通常、漬物は数に含めないため主食以外が「一汁一菜」ということになる。
「ご飯のお供」として、名を挙げた品々も、この伝でいけば、ちゃんとしたおかずの数には含まれそうもないものばかりだ。これらのどれか一品だけでご飯を食べると、「一汁無菜」ということになる。

今、一人暮らしをしている義理の父がいる。
ご飯だけは自分で炊くが、料理はほとんどしない。昔の人なので洋風のもの、たとえば肉やソースやマヨネーズやドレッシングは口にしない。それでもインスタントの味噌汁と佃煮や漬物のようなもので、きちんと三食、食事をしている。ときどき、好きな刺身を買ってきて食べることはあるらしい。まさに、「一汁一菜」の日常である。
当然周りのものは偏食による栄養不足を心配するのだがが、当人は平気で、たいした病気もせず元気に暮らしている。
その義理の父が、しみじみ言うのだ。栄養のバランスがどうの、ビタミンがどうのと言うけれど、結局、人間は自分の好きなものを「美味しいなあ」と思って食べてさえいれば大丈夫なんだよ、と。

『レコーディング・ダイエット』の岡田斗司夫の説も思い出す。レコーディング・ダイエット法により、最終の段階に達すると、自分の体が今どの栄養素を必要としているかわかるようになるという。
ストレスの解消や惰性の食習慣から自由になって、すなおに体の声を聞き、その時々に求めている栄養を、食事で摂ればよいのだ。それが一番美味しいと感じるし、栄養の過不足はなくなって太ることもないということだ。

私の好きな単品の食事や「一汁無菜」は、美味しいものを、たくさん食べるということだ。それが美味しければ、あとは何もいらない。栄養的には「バランスが取れた食事」とはは言えないだろう。しかし、そういう食事をすると、おなかも満足するが、何より心が満足する。これって、結局大きくみれば体にも良いことなのではないか。

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2012年2月7日火曜日

原発はいらない

今現在、日本国内で稼動している原子力発電所が3基のみとなった。全部で五十数基ある日本の原発のうち、たった3基しか動いていないのだ。
他は定期検査などにより停止して、そのまま休止している。現在稼動している3基も、今年の4月末までに停止を迎える予定とのこと。そうなれば、国内のすべての原発が停止することになる。
そのため電力供給が綱渡り状態で、電力会社の間で融通し合ったり、使用者に節電を呼びかけているらしい。

しかし、別段、計画停電をしている話までは聞かない。
電力使用の少ない時期ならともかく、このところ厳寒の日々が続いていて、今は電力使用の冬のピーク時期にあたるはずだ。それでも何とかなっているわけだ。
ということはつまり、普通に考えたら、日本は原発なしでも何とかやっていけるということではないのか。

今まで言われてきた「日本の電力供給はかなりの割合で原子力発電に依存しているから、どうしても原発なしでは立ち行かない」というのは、つまり大ウソではないですか。
もうちょっと節電の工夫をし、省エネ技術の開発を進め、その一方で他エネルギーによる発電や自然エネルギー発電にシフトすれば、電力の安定供給は十分可能に思える。

昨年の福島第一原発の事故で、故郷喪失とか避難とか大変な被害を受けた。当時発表されなかった政府の「最悪のシナリオ」を聞くと本当にぞっとする。そしてまだ事故は終わっていない(ドジョウさんは「終息」したと言ったけど)。不安はまだまだ続いている。
もうみんなこりごりしているものと思っていたら、一方で日本経済のためには当面は原子力発電に頼らざるを得ない、などという言い草がまかり通っていて驚く。まったく、こりない人たちだなあ。
安全と経済は、どっちを優先するかではなく、全然次元の違う話でしょう。まず安全があっての経済じゃないの。家が火事になって足元で火が燃えているのに、明日の朝飯は何にしようと考えているようなもの。
原発は即停止して廃止。これを前提にした上で、じゃあどうやって電力を確保しようかという話ではないのか。冒頭に書いたように、とりあえず何もしなくても、何とか電力がまかなえているのは本当に幸いだ。

にもかかわらず、再稼動だの、原発の寿命は40年だの、20年の延長もありえるだの、政府は相変わらず原発路線から転換しようとはしない。

事故を起こした東電福島第一原発の立地している大熊町双葉町に対するバッシングが激しい。
さんざん交付金をもらっていい思いをしてきたくせに、事故で周囲の自治体には迷惑をかけ、しかも国や東電のせいにしている、というような言われ方だ。そう言いたくなる気持ちはよくわかる。
先日の国会事故調査委員会で、双葉町長は「批判されているように原発の交付金で確かに町は潤った。いろいろ整備もした。しかし、今はそれらをすべて失ってしまったのだ」というようなことを言っていた。でもやっぱり、これは泣き言にしか聴こえない。
原発推進派だったはずの町民たちも、東電や国を責めている。絶対「安全」と言っていたのに、ということらしい。
しかし、「安全」なものを設置しただけで、あんなに莫大な金がもらえるはずがない。そんなに「安全」ならそもそも、東京電力の管外ではなく(柏崎刈羽原発もそう)、東京や首都圏に設置しているはず。
ちょっと考えれば、判りそうなものだけど、それが判らなくなってしまったのは金に目がくらんだからだろう。町の財政収入の半分近くが、原発関連のお金(電源立地交付金や固定資産税など)だったという。これも普通に考えれば、かなり異常。

しかしまあそれも今だから言えること。電力会社や国が「安全」と言うのだから信じたくもなる。
だが今回の事故で、原発が絶対安全ではないということがよくわかった。だから、これから再稼動を許可した自治体は、事が起これば被害者だとはもう言えない。

福島の事故後いち早く再稼動を認めた自治体は、玄海原発が立地する九州の玄海町だった。その後、ストレス・テストの導入など国の側のごたごたがあって、結局、再稼動は中止になった。
しかし、よくこの町は再稼動を許可したなと思っていた。そうしたら、その後の報道で、この町の町長の弟の経営する土建屋が、九州電力から56億円もの工事を受注していたとの事。やっぱりね、と思った。これって、限りなくワイロに近い金のやり取りではないの。
全国の原発立地自治体の皆さん、くれぐれも目先のお金で故郷を売らないでくださいね。

私はもともと原発が嫌いだった。事故も心配だけれど、それより何より、運転すると放射性廃棄物ができてしまうのがいやだ。これを無害化することは今の技術では出来ないのだ。
最終的な処理方法は、「地層処分」といって、ガラスで固めて地中深く埋めることだという。
現在のところ反対があったりして、この「処分」は行われに至っていないのだが、次々に増えていく核廃棄物が、埋められるのを待っている状態だという。
こんなのその場しのぎではないですか。地震や事故で、地中で放射能が漏れ出したらどうするのだろう。以前ラジオで、タレントを使いこの「地層処分」の安全性をPRする番組をやっていたが、福島原発の事故後ぱったりやらなくなった。

本来なら、使用済み核燃料を無害化する方法が確立しなければ、原発は実用化してはいけなかったのだ。それを、見切り発車してしまったのが、今の原発だ。
原発は地球を汚す。さかんに言われているCO2によるオゾン層の破壊も問題だが、同様に原発の放射性廃棄物による地球の汚染も大問題だ。自分の子供やその子供たちのために、きれいな地球を残したい。だから原発はいらない。

2012年2月4日土曜日

玉子麺を研究中

節分には豆を撒かないでしまった。去年までずっと続けてきたのだったが、何となくしそびれて…。少し寂しい気もする。
その代わりにうちの奥さんが買ってきたいわしの丸干しを食べた。懐かしい味がした。

さて相変わらず毎日ラーメンを食べている。
私の大好きな水戸のお店「つけ麺 坊主」の味を目差して略式で作っているのだが、そのレシピは以前このブログに書いた。
使う麺はずっとスーパーで生緬を買ってきていた。しかし、このところは自分で麺を打っている。
また、スープは以前どおり激辛なのだが、「坊主」とはちょっと違う方向に行ってみた。別に飽きたわけではないけど、麺も変わったのでちょっと違う味を狙ってのこと。

麺は「かん水」の代わりに玉子を使う玉子麺だ。しかし、まだまだ未完成。材料の配合は試行錯誤中で、麺の切り方は練習中。
「かん水」はラーメンの麺に特有の添加物で、麺に伸びと滑らかさをだす。ラーメンの麺独特の黄色い色はこの「かん水」の色だ。この「かん水」の代わりに、つなぎに玉子を使っているわけだ。

ちなみに試行錯誤中の最新の配合は、小麦粉の中力粉400グラム、塩10グラム、これに玉子2個と水をあわせて200ccにしたものを加えて混ぜる。
面倒なのでこの作業は、ホーム・ベーカリー(「ゴパン」です)の機能を使っている。でも結局は足で踏むので、ここでこねる必要はなく、手で混ぜても十分。
これを丸くまとめてビニールの袋(お米の空き袋を使っている)に入れ足で踏む。平らに伸ばしては折り畳み、また平らに伸ばしては畳むということを5回ほど繰り返す。
そして、これを1,2時間放置して熟成させる。

その後、麺棒で薄く延ばして包丁で細く切ることになる。これがかなり難しい。
まずなかなか思うように薄くならない。あまり力任せに麺棒を押し付けると、生地の組成上よくないらしいので、根気よく延ばす。しかしどうしても厚さ2ミリくらいまでしか薄くできない。
さらにそれを折り畳み、こま板を当ててそば包丁で切るのだが、うまく細くそろって切れない。
麺は茹でると生の状態よりかなり太くなるので、茹で上がりはラーメンというよりうどんに近いもの、というかほとんどうどんそのものになってしまう。もともと材料の配合からいっても、うどんとあまり変わらないわけだし。

今後、生地の伸びをよくして薄くするために、水分の量を増やすなり、中力粉の一部を薄力粉に置き換える方向で工夫する予定。その場合、つながりが弱くなってぶつぶつ切れるようなら、玉子を増やす必要があるだろう。
それで、今のところうどんのような麺なのだが、これはこれなりに美味しく食べている。

スープのほうは、以前紹介した「坊主」風レシピでは、動物系のスープとして鶏ガラスープ(顆粒)と白湯豚骨スープ(顆粒)を使っていた。これを今は試みに味覇(ウェイパー)を使ってみている。麺がかなり太いので、こってりした感じにしたかったのだ。
味覇(ウェイパー)は、知る人ぞ知る(?)高級中華スープの素。成分は鶏骨・豚骨スープがベースだからこれまでと基本的に変わらないのだが、かなりコクがでている感じ。さすが「高級」(値段がけっこう高い)だからか。
これはこれまでの顆粒のスープより塩分が少ないので、その分を補うためもあってオイスターソースを少し入れたら、さらに美味しくなった。

〔追記〕その後、かん水を使った本格的な麺を自分で作れるようになった。興味のある方はご参照を。「ラーメンの手打ち麺のレシピ

2012年2月3日金曜日

自民党のこと消費税のこと

自民党って本当にどうしようもない政党だ。
このところやっていることといったら、相手の足を引っ張ったり、重箱の隅をつついたりするだけ。まったく見苦しい。政策について論議したり、対案を提示したりなんてことは全然しない。
民主党が消費税のことでマニフェストを破ろうが破るまいが、それはよそ様の家のことなんだから、あんたらが口突っ込む筋合いではないでしょ。
谷垣さんは、早期解散・総選挙を求めているけれど、そんなことになったら、自民党に勝ち目があると本当に思っているのか。今の自民党に票を投じる人がいるとは、とても思われない。民主党とともに自民党も討ち死にするのは目に見えている。
それとも私のような政界シロウトには想像もつかない勝算というか目算があるのだろうか。

だいたい今現在顕在化してきた国政上のいろいろの問題は、そもそも長く続いた自民党の失政が招いたものだ。
借金まみれの財政体質。補助金と公共事業中心のバラまきを際限なく続けてきたから、こんなことになんたんじゃないですか。
そして社会保障の破綻。こうなることは目に見えていたのに、対策をずるずると先送りしてきたばかりか、年金をつまらない運用(保養施設など)に使ってドブに捨ててきた。
それから原発を国策としてバリバリ推進してきたこともそう。
また農業政策でも「減反」などという愚策を行ってきた。そうした手厚すぎる保護政策によって、日本の農業を、TPPに加盟したらたちまち壊滅してしまいそうなひ弱なものにしてしまった。
そして、沖縄問題でも表面化しているけど、とにかくべったりのアメリカ追随の姿勢。

振り返ってみると自民党の人たちは、国政そっちのけで覇権争いに明け暮れ、利権を奪い合い、私腹を肥やすことに汲々としてきたとしか見えない。国の行く末のことなどちゃんと考えていた人はいたのか。
現在『週刊 池上彰と学ぶ日本の総理』というシリーズが小学館から刊行されている。吉田茂、田中角栄、池田勇人と一冊に一人ずつ取り上げている。
このシリーズの新聞広告を見ると、「名総理」とか「日本のリーダー」みたいな(うろ覚えだから正確ではない)、要するに「偉人」としてのキャッチ・コピーをつけている。これに、非常に違和感を持った。死ねばみんな「立派な人」になっちゃうわけ。田中角栄なんか犯罪人ではないですか。
現状という結果がすべてを示している。この人たちがだめだったから、日本が今のようなひどい状況になったと言うしかないでしょう。
日本をだめにしたのは自民党だ。しかし、本当に悪いのは、そんな自民党を長年支持し続けてきたわれわれ日本の国民なのだ。だから被害者面(づら)は許されない。

でもさすがにみんな自民党のだめさに気づき、嫌気がさして民主党に投票したわけだった。
私も期待しました。とくに財政の無駄を、ばっさりと切り捨ててくれるものと思っていた。そうすれば、税金は上げなくてもすむと高らかにうたってもいた。
それがねえ、ご覧のとおりですよ。自民党のだめなところを丸ごと継承しているとしか思えない。お金がないというのに今年の国の予算は、過去最高に膨れ上がっている。

今の国会の焦点は、マニフェストであんなに上げないと言っていた消費税の増税問題。足りないなら増税も仕方ないと私も思う。けれども、公共事業をやめてからにして欲しい。
国会議員定数の削減とか公務員給与の減額ばかりが、増税の交換条件として取りざたされるけれど、それでは話を小さくしてしまっている。べつに国民と国(議員と公務員)とが張り合って、いるわけではないのだ。両者で痛みを分け合うという形にして手を打とうとしているようにしか見えない。

とにかく公共事業をこそやめてほしい。八ッ場ダムや整備新幹線など、何千億円もかかるわけでしょう。そんなところにジャブジャブ使うために消費税を取られたくない。
八ッ場ダムや整備新幹線が無駄なのか、本当に必要なのか、それは専門家でないからわからない。しかし、仮に必要だとしても、何もこんなに財政が苦しいときなのだから、先送りするべきでしょ。もう何十年もなかなか進まないできたんだから。ともかく「ない袖は振れない」というのがふつうの考え方のはず。
公共事業で景気浮揚を図りたいというなら、唯一東北の復興に向けるなら許す。全国の土建屋が工事がないと「死活問題だ」と騒ぐなら、全部東北の復興に借り集めたらどうでしょう。

 会社はいつ潰れるかわからない、不景気なのに税金は上がる、年金はもらえないかもしれない。問題山積で、明るい将来はなかなか見えてこない。第一次大戦後、ナチス台頭前夜のドイツが、ちょうどこれと同じような状況だったらしい。
そうした政治の混乱と、人々の不満・不安をついてヒトラーは国民の支持を集めたのだった。
関西方面の例の某市長が、ヒトラーでないことを祈る。

2012年2月1日水曜日

NHK大河ドラマの「タルカス」

今年も早2月になってしまいました。
さてみなさんNHKの大河ドラマ『平清盛』視てますか?たぶん視てないよね。歴代の大河ドラマの視聴率ランキングでワースト3位らしいから。でも、うちは視ている。うちの奥さんが昨年の『江』が好きで視ていたので、その流れで今年も何となく。

それで『平清盛』の初回を視ていたら、私にとっては、ごくごくおなじみのメロディが流れてきたので、ちょっとびっくりした。これ「タルカス」じゃないの、エマーソン、レイク&パーマーの。
エマーソン、レイク&パーマー(以下EL&P)は、1970年代のイギリスのプログレッシブ・ロック・バンドである。「タルカス」は、彼らの2枚めのアルバム『タルカス』に入っている表題曲。
テレビから聴こえてきたのは、この「タルカス」をオーケストラ・バージョンにアレンジしたもののようだった。

しかし、日本の平安時代のお話と、EL&Pという取り合わせはかなり突飛だ。他の劇伴の曲は、このドラマ用のオリジナルのようなのだが、そこになぜこの曲だけを唐突によそから持ってきたのか。もしかしてメロディが似ているだけの別曲なんじゃないか、と半信半疑の気持ちもぬぐえなかった。
そこでネットで調べてみたら、本当にあれは「タルカス」だったのだ。いったい平清盛とEL&Pにどんなご縁があったのか(その次第は、ネットで調べるとすぐわかります)。

ところでNHKの大河ドラマは、その演出法が以前から少々鼻についていた。登場人物たちの感情の表現が、とにかく極端なのだ。台詞まわしが大げさで、登場人物たちはしばしば怒鳴りあっているようにしか見えない。これは「視聴者の皆さま」の誰にもわかり易くするための配慮ゆえなのだろうか。
それともうひとつ、いつの時代の誰を主人公にしていても、何だか話が小さくなってしまうのも面白くない。事件は常に「外」で起こっていて、お話そのものは結局、主人公周辺の人間模様に終始してしまう印象がある。言ってみればホーム・ドラマの歴史版みたいな感じ。
毎年話は変わっても、この点はいつも変わらない。大河演出の型となって受け継がれているのだろうか。
ところでEL&Pの音楽の特徴を少しひねくれた言い方で言えば、「大仰」ということになる。
『平清盛』とEL&P、両者は奇しくもその「大仰」であることにおいてもつながっていることになる。

ネットによるとこの大河ドラマの「タルカス」の一件は、世間ではかなり話題になっているらしく、知らないのはどうも私だけだったようだ。
そういえば先日、EL&Pの二枚組のベスト・アルバムというのが発売された。日本独自編集とのこと。何で今この時期に?と思ったけれど、なるほど、こういうわけだったのね。
そして、こんな風に話題にのぼるとEL&Pは「至高」のプログレ・グループということになり、「タルカス」は彼らの「最高傑作」みたいな言われ方がされる。ずいぶんざっくりした言い方だ。

EL&Pの『タルカス』は、私にとってはすごく愛着のあるアルバムだ。初めて買ったEL&Pのアルバムが、この『タルカス』だった。当時高校1年の私は、例によってなめるようにこのアルバムを繰り返し聴いた。LPのA面全部を占める組曲「タルカス」はもちろん、このアルバムのすべての曲について、隅から隅まで頭の中で再生可能だ。

しかし、今から振り返ると、複雑と思えた音の構造が、意外に単純であることに気づく。だからこそ一般受けして、大ヒットしたのだろうけど。ここにはイエスの曲のようなめくるめく入組んだ音の世界はない。そしてあるように見えた思想的な深さも、じつはない。もともと、そういう人たちではなかったのだ、ということが今ならわかる。

その後しばらく、EL&Pの「最高傑作」の座には『タルカス』が座っていた。が、時代が経つにつれて『展覧会の絵』がときどきそれに取って代わるようになる。そうして現在では、彼らのベスト・アルバムと言えば、疑いもなく5枚目の『ブレイン・サラダ・サージェリー』といことになっている。
私もずっとそう思ってきた。ただ『ブレイン・サラダ・サージェリー』は、プログレというよりも、むしろハード・ロック・アルバムとして、聴いてきたような気もする。グレッグ・レイクの「大仰」ボーカルが全開のせいでもある。

私の好きなEL&Pの他のアルバムは、ファースト・アルバムの『エマーソン・レイク&パーマー』と今では省みる人の少ない4thの『トリロジー』。
とくに、ファースト・アルバムは今聴いてもじつに新鮮だ。リリカルで、ナイーブで、シャープな音を聴くことができる。開発途上でまだ出番の少ないシンセサイザーの代わりに、全面で聴けるアコースティック・ピアノやオルガンの音色が逆に瑞々しい魅力を放っている。意欲的ではあるが、「大仰」さもそれほどではない。
もしかするとじつは、これが彼らの最良のアルバムかもしれない。彼らには悪いけど。