2013年2月28日木曜日

はっぴいえんどのロック魂

<神格化されるはっぴいえんど>

私ははっぴいえんどの音楽を、リアル・タイムに聴いて育った世代だ。彼らが活動をやめてから40年の年月が経つが、その間も若い人たちが彼らの音楽に触れて次々に新しいファンが生まれていると聴く。
はっぴいえんどを後追いで聞く人が増えるにつれ、遡ってこのグループに対する評価がじわじわと高まっているらしい。その理由の一つを「4人が解散後それぞれメジャーの音楽シーンで名を成したから」と考える人も当然いるだろう。
しかしこれを湯浅学は断固として否定する。「それ逆でしょ。はっぴいえんどの4人が、あのような(優れた)作品を作る人たちだったから、その後活躍したんでしょ」(湯浅「はっぴいえんど」『レコード・コレクターズ』20044月号)。

私はこの湯浅の意見に賛成だ。ただし半分だけ。
やっぱり、その後の細野晴臣参加のYMOの社会現象的ブレイクや、大瀧詠一の『ア・ロング・ヴァケイション』の特大ヒット、そしてついでに松本隆の歌謡曲作詞家としての大御所化がなければ、はっぴいえんどのここまでの評価の高まりは果たしてあったのだろうかと首を傾げたくもなる。海の向こうには、クラプトンやベックやペイジがいたために過大評価されているとしか思えないヤードバーズのような例もあることだし。

そういう新しいファンによってなのだろう、はっぴいえんどは、その後どんどん「神格化」されているようにも見える。それに伴って、何ともとんちんかんな「伝説」が、まことしやかに流布されているのも目にする。
たとえば、「はっぴいえんどが登場するまでは、ロックは英語で歌われるのが当たりまえだった」とか、「はっぴいえんどが日本語のロックの創始者だ」とか、あるいはひどいのになると「はっぴいえんどが現れるまで自作自演でロックを演奏するバンドはなかった」なんてことまで言われている。

はっぴいえんどの前に日本語のロックはあったのだ。たとえばジャックスがいて、岡林信康がいて、遠藤賢司がいたのだ。
なのになぜ先のような伝説が生まれたかといえば、たぶん「日本語ロック論争」のせいだ。日本語のロックというものがあり得るか否かというちょっとした騒ぎがあり、その俎上に乗せられたのがたまたまはっぴいえんどだった。そのために彼らが日本語のロックの創始者ということになってしまったのではないのか。

<幻の「日本語ロック論争」>

この「日本語ロック論争」だが、当時リアル・タイムでこの騒ぎに立ち会っていた者として言わせてもらえば、そもそもこの騒ぎに「論争」の実体などなかったのだ。
当時の印象で言えば、これは『ニューミュージック・マガジン』誌の制定するレコード賞の日本のロック部門の選考方針に不満を持った内田裕也が、いちゃもんをつけるに当たって「日本語はロックに乗らない」という因縁のつけ方をしただけの話だ。

『ニューミュージック・マガジン』誌(現在の『ミュージック・マガジン』)は1970年からレコード賞というのを始めている。この年の第1回レコード賞の日本のロック部門の第1位には岡林信康の『私を断罪せよ』、第2位にはエイプリル・フールの『エイプリル・フール』が選ばれている。
1971年の第2回の同賞日本のロック部門の第1位がはっぴいえんどの『はっぴいえんど(通称ゆでめん)』で、第2位が遠藤賢司の『niyago』だった。
この賞が発表されたのが71年の4月号で、これを知った内田裕也が翌月の5月号の座談会で、この結果にかみついている。第1回の岡林にしろ第2回のはっぴいえんどにしろ、どちらもURC系のフォークの奴らで、こんなのロックじゃないだろうと内田はたぶん思ったのだ。それを言いたくて、日本語でロックはできないという言い方をしたように聞こえた。

そしてこの「日本語でロック」云々という言いがかりだけが独り歩きして、いろいろな人が求められて意見を述べ、誌面をにぎわせた。それらの意見はそもそも前提も問題意識もばらばらだからちぐはぐで、議論はかみ合わないままに、うやむやになって消えてしまった。それだけの話だ。
この騒ぎの本質が、ロックは英語か日本語かという言葉の問題ではなく、ロックという移入文化の受容をめぐる論争だったと指摘する篠原章氏の分析は秀逸だ(はっぴいえんど『GREEEATEST LIVE! ON STAGE』の同氏のライナー)。

ともかく重要なのは、われわれリスナーの実感として、ロック的なバンド・サウンドに乗せて日本語で歌うのは、はっぴいえんどが登場した当時すでにそんなに特別なことではなかったということだ。
はっぴいえんどに先立って岡林信康のアルバム『私を断罪せよ』や『見る前に跳べ』があり、遠藤賢司の『niyago』があった。はっぴいえんどの『ゆでめん』(70)や『風街ろまん』(71)が出た1970年から71年にかけては、高田渡『ごあいさつ』、加川良『教訓』、小坂忠『ありがとう』(以上3枚は他ならぬはっぴいえんどがバックで演奏)、ガロ『GARO』など日本語のロック・サウンドと言えるものが世に出て、私も含めたロック・ファンの間では、かなり聴かれていたのだ。
演奏する方も聴く方もそれを「日本語のロック」と意識していたかどうかはともかくとして、音楽としての違和感はなかった。だからはっぴいえんどの登場が「日本語のロック」の出現という点で衝撃ということはなかったのだ。
「日本語ロック論争」と聞くと若いリスナーはそんなつまらないことで、論争があったのかとあきれるだろう。当時の私たちもまったく同じ思いだったのだ。

そのような「日本語ロック」の状況の中ではっぴいえんどが特異であったとすれば、それは次の3点だ。
まず彼らの音が、本格的なウェスト・コースト・サウンドであり、それに日本語の歌詞を乗せたことだ。
二番目に、その日本語の詞が、「ですます調」を過度に強調していることと、さらに古風な純和風の語彙を散りばめていて現代詩のような文学性を感じさせるものであったこと。
そして三番目に、その歌詞の音への乗せ方(音節の区切り方)が、しばしば不自然であり、しかもその不自然さを強調しているフシがあったことだ。たとえばその一例。

あたりはに/わかにか/きくもり (「颱風」)

こうした特異性ゆえに、一部の人々は違和感を感じ、はっぴいえんどは「日本語のロック」」という看板を、その先頭で担ぐことになったのかもしれない。

<はっぴいえんどのロック>

しかし、こうした特異な特徴は、当時高校生だったわれわれにとっては、とても魅力的に映ったのだった。そしてこの特徴は、彼らのアルバムにあふれる機知やユーモアのセンスや遊び心と一体となってわれわれを引き付けた。

私たちが引かれた機知やユーモアや遊び心とはたとえばこんなところだ。
あやか市の動物園」冒頭の「ひい、ふう、みい、よお」というカウント。気取って「ワン、ツー、スリー」とやらず、こんなところまで和風の歌詞と対応しているところがおかしい。
それから「空色のくれよん」のカントリー・ヨーデル、「暗闇坂…」の「ももんがー」という歌詞、「はいから・びゅーちふる」や「颱風」などノヴェルティ・ソングの等身大のユーモア・センス、そして「愛飢を」の五十音をそのまま歌ってしまうという遊び心…、挙げていけばきりがない。彼らのアルバムにはこんな自由な空気感があった。
個人的には、はっぴいえんどの独特な詞の世界にも強く魅かれた。1972年に出た松本隆の詩集『風のくわるてつと』も手に入れて熟読したものだ。だから、はっぴいえんど以降の松本の歩みはとても悲しかった。

当時よくはっぴいえんどのことを「あれはフォークだろ」といってけなす人がいた。初期のはっぴいえんどの熱いライヴを聴けば、彼らが紛れもなくロック・バンドであることがわかる。
しかし、はっぴいえんどが「フォーク」であるという指摘は、ある意味では間違っていない。あの当時、フォークこそが若者のリアルな表現のジャンルであったという意味においては。

1968年頃から欧米の曲のコピーでなく、自作自演で歌う人たちが登場してくる。ここから、社会体制や既成の価値観や商業主義にとらわれない若者の自由でリアルな表現としてのフォークが台頭してくる。70年には、そうした動きを受けてURCが設立されるわけだ。
このURCからデヴューしたはっぴいえんどもまたこの自由でリアルな表現を目指したという点で、一連のフォークの「精神」を受け継いでいると言えるだろう。

しかし世界的な視野から見れば、この自由な表現の「精神」こそが、ロックの魂なのだ。ビートルズやディランのやったこと、そしてニュー・ロックやフラワー・ムーブメントを思い浮かべるまでもなく、ロックは単なる音楽のジャンルであることを越えて、自由な表現の手段であり、実験の場であった。
そのような観点において、結局はっぴいえんどはロックの魂を持った紛れもないロックのバンドだったのだ。

はっぴいえんどの切り開いた道は、結局ニューミュージックという大きな流れを作り出す。ニューミュージックは、それまでの商業主義的な歌謡曲とは全然違う新鮮でリアルな音楽としてもてはやされた。しかし、どんな音楽ジャンルもそうであるように、ニューミュージックもまたたちまち商業化し形骸化しリアルさを失っていった。
「日本語のロック」の創始者としてではなく(事実誤認だし)、ニューミュージックの祖であるからでもなく、自由でリアルなロックの魂の体現者としてはっぴいえんどの存在は輝いている。そんな輝きの放つ音として彼らの音楽は聴かれるべきだと思う。


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4 件のコメント:

  1. はじめまして。
    はっぴいえんど関連の記事を大変面白く読ませてもらいました。「日本語ロック論争」についてはリアルタイムでこうだったという話を読むのは初めてで、いろいろと腑に落ちました。私は80年代中盤、高校生だったころに、はっぴいえんどについて知りました。熱心なファンではないかもしれないけど、時折思い出して聴いています。

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    1. コメントありがとうございます。
      はっぴいえんどの「神格化」はますます進むばかり。
      いたずらに祭り上げるのではなく、もっと素直にこのバンドの良さに触れてほしいと思います。

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  2. HEがらみの何かがある度に思い出すように聴いて、そのたびに今イチ時間無駄にしたって感想。
    しかし、夏なんですをきっかけに一曲一曲と次第に30年かけて浸食されたのには、今驚いてる。
    福生のPOPs仙人にあらためて合掌。

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  3. たしかに颱風の歌詞、特徴的ですね!、今まで意識してこなかったので、驚きました。

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