2012年5月5日土曜日

「靉嘔展」と「田中敦子展」を観る

連休の一日、東京都現代美術館を訪ねて「靉嘔展」と「田中敦子展」を観てきた。

この二つの展覧会、なかなかよくできた取り合わせだ。二人とも日本を代表する前衛美術家であることはもちろんとして、それぞれ著名な前衛美術集団「フルクサス」と「具体美術協会」に属していたという点でも共通している。
さらに実際に展覧会を観て、美術家としての二人のあり方が、次のような点でパラレルであると私には感じられた。

すなわち二人の共通点としてまず第一に、①従来の美術表現に対する批判、あるいは否定を制作の出発点としていること。
次に、②その結果、それまでにないまったく独自の表現を作り出したこと。靉嘔ならレインボーの作品、田中なら電気服。
そしてここからが私見だが、③その表現が自身にとっての大きな「呪縛」となり、そこから逃れようともがくことが、その後の表現の軌跡となったこと、である。

 靉嘔展の会場に入ると、暴走する表現主義とキュビズム的表現があり、その合間に深化する孤独感が垣間見え、やがてパフォーマンスの嵐の中へと突入していく。そうして至り着いたのがレインボー・カラーによるミニマル形態という表現だったことがわかる。
レインボーの作品の意義は、何よりもまず美術史や美術についての既存の価値観(美術は高級なものという価値観)に対する批評であったろう。外界を構成する事物のミニマル的な表現という作家の言い分は、後でくっつけたもののような気がする。
 しかし、このシンプルで強い表現のスタイルは、たちまち作者自身を縛りつけることになる。何を描いてもみんな同じになってしまうからだ。どうやってこの呪縛から逃れるか。その後の靉嘔の歩みは、ほとんどこのための試行錯誤であったように見えた。

田中敦子にも同様のことを感じた。
誰も行なったことのない表現をモットーに、新しい表現に挑戦した「具体美術協会」の作家たち。田中の「ベル」や「電気服」もそうした独自性の追求の結果として生み出されたものだ。
当然そこには、それまでの美術表現、美術の価値観に対する批評、否定、批判が内包されている。いくら「電気服」の電球の点滅が美しいといっても、この作品の意義は、新しい美の創出よりもむしろその批評性の方にあると私は思う。
しかしそれはともかくこの強烈な「電気服」に、田中は縛られ、その呪縛の中で、その後の画家としての活動は終始したといってもよいだろう。どこまでいっても画面に現れるのは電球のイメージである丸と、配線コードのイメージである線のみなのだった。

「前衛」とは既成の価値を否定し、新しい何ものかを生み出していくことだろう。靉嘔も田中敦子も、そのような強烈な意思によって、まったく新しい表現を創出した点は素晴らしいと思う。
しかし、それが「呪縛」となって以後、その「呪縛」から逃れる過程においては、自分自身が戦う相手になってしまっていて、初めにあったような既成の価値に対する強い批評性は失われてしまっているように見えて、私には残念だった。
その意味で、とくに靉嘔の展示作品の数の膨大さと、近作の巨大さは、ちょっとばかり虚しくも見えたのだった。

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