2014年3月31日月曜日

安全地帯 「じれったい」とアルバム『月に濡れたふたり』


 
玉置浩二の新しいアルバムが出るのにちなんで、この間(20143月)ラジオで、安全地帯と玉置浩二の曲のリクエスト特集をやっていた。何となく耳を傾けていただけだったのだが、次々にかかる昔の曲を聴いているうちに、何だかすっかり懐かしい気分になってしまった。

バンドとしての安全地帯に、特別の思い入れがあるわけではない。彼らが活躍した80年代には、まだ「Jポップ」という便利な言葉はなかった。そうなると、安全地帯はロックというよりは、どちらかといえば歌謡曲に近い所にいる人たちに見えた。自分たちの主張や表現のために音楽をやっている感じもなかった。
そういうこともあって愛着はないのだが、ただ彼らの曲の中には、いくつか好きな曲があった。たとえば「ワインレッドの心」とか「熱視線」、そして何といっても「じれったい」だ。

「じれったい」は特別に好きな曲だ。この曲のどこがそんなにいいのか。歌詞をあらためてながめてみる。何がじれったいのだろう。要するに、恋の駆け引きで、男が女にじらされ、思い通りにならなくてじれったいらしい。みんなそんな内容の歌として聴いているのだろうな。
しかし、私には全然そんなふうには聴こえないのだ。玉置浩二のどうしようもなく熱っぽくて、いても立ってもいられないようなせつない歌い方が、チャラい歌の内容をはるかに越えて、もっともっと深い人間の心の奥底へと私を連れて行く。

これはもっと究極の「じれったさ」を歌った歌だ。この曲には、官能や性愛のその先にある、せつない純愛が歌われている。
純愛は性愛の手前にあると思われがちだ。しかし、ここでは体がひとつになって満たされたのに、それでも心はひとつになれないもどかしさ。心がひとつになれなくて、なお、相手を求め続けずにはいられないせつなさが歌われている、ように感じてしまう。いわば究極のじれったさであり、それはまた人間の究極の孤独のあり様と言ってもよい。

作詞は松井五郎。松井は作詞家だが、ウィキペディアによるとこの曲を書いた1980年代後半は、6人目の安全地帯メンバーとも言われ、安全地帯専属作詞家的な状態だったとのことだ。
だからこの曲も、当然玉置浩二が歌うことを前提にして書かれている。つまり、いっけんチャラい内容ではあるけれども、玉置の歌唱がそれをふくらませていけるような含みを、あちこちにしかけているように見える。

たとえばリフレイン部分のフレーズ。

じれったい こころをとかして
じれったい からだをとかして
もっと もっと 知りたい

ここには官能が満たされたその先で、相手の存在を求め続けるせつない響きがある。
「もっと 知りたい」という言い回しが絶妙だ。もっともっとあなたのことを知って、あなたとひとつになりたいのに、という思いが伝わってくる。

性愛は満たされればそのつど終わる。しかし、相手を求め続ける気持ちはいつまでも終わらない。それが次のような一節だ。

終わらない ふたりのつづきを
終わらない 夜までつづけて
ずっと夢を見せて

そして、この後に先ほどのリフレインの「とかして」が「燃やして」とかわって、熱っぽく激しさを増し、この歌は終わるのだった。

(じれったい) こころを燃やして
(じれったい) からだを燃やして
もっと もっと 知りたい

サウンド的には、ブラスやバック・コーラスがうまく官能性をあおっている。

繰り返すが、この歌は、官能と、その先にある純愛のせつなさと孤独の歌に聴こえる。それは、ひとえに玉置浩二のヴォーカルの力による。この人のヴォーカルは、うまいとよく言われるけれど、むしろ個性が強力なのだと思う。この人のような、むせかえるような官能を感じさせるヴォーカリストは、日本ではあんまり見かけない。
官能性ということで言えば、曲調は全然違うけれど、黒人のソウル系の人たちが放射しているセクシーなアピールを連想させる。その意味で、玉置のヴォーカルはソウルフルとも言えるだろう。

私の見るところ安全地帯には、この「じれったい」に至る曲の系譜がある。「ワインレッドの心」(83年)から始まって、「熱視線」(85年)、「プルシアンブルーの肖像」(86年)、「好きさ」(86年)ときて、「じれったい」(87年)に至るわけだ。
ついでに言うと、この後に、玉置のソロ曲だが「キ・ツ・イ」が続いている。いずれも官能とその先のもどかしくてせつない純愛が歌われていると思う。

当時「じれったい」があまりにも良かったので、アルバムも聴いてみた。歌謡曲の人たちのアルバムというのは、たいてい水増ししたものだ。私も彼らのアルバムに対してはそういうイメージを持っていたから、それまで手を出さなかったのだ。

「じれったい」の収録されているアルバムは『安全地帯Ⅵ 月に濡れたふたり』(1988年)。聴いてみると、これがなかなか良かった。
これに味をしめて、この前後のアルバムもひと通り聴いてみた。しかし、結局、この『安全地帯Ⅵ 月に濡れたふたり』だけがダントツに良かったのだった。あとはアルバムとしては今ひとつだが、『安全地帯Ⅷ 太陽』(1991年)に、よい曲が少しあった。私の手元に残したのは、この2枚だけだ。

『Ⅵ 月に濡れた…』の前作で、安全地帯絶頂期の3枚組大作『安全地帯Ⅴ』(1986年)も、また『月に濡れた…』のあと、活動休止を挟んで作られた『安全地帯Ⅶ 夢の都』(1990年)も、私には全然面白くなかった。で、みんな処分してしまった。
それにしても、安全地帯はアマチュア時代に、レッド・ツェッペリンや、オールマン・ブラザーズ・バンドや、ドゥービー・ブラザーズなどの曲をもっぱら演奏していたという。しかし、そういう痕跡がきれいになくなっていて、一番影響を感じさせるのは井上陽水だ。井上陽水、恐るべしというべきか。

ともかく『月に濡れたふたり』は、安全地帯の最高傑作だと思う。ただし日本のポップスのアルバムがすべてそうであるように、すみからすみまで良いというわけではない。いい曲も多いが、そうでない曲もある。

まず「I Love Youからはじめよう」から「悲しきコヨーテ」と続くオープニング2曲が素敵だ。
「悲しきコヨーテ」は、バービーボーイズの杏子との官能ヴォイス・デュオや、打ち込みビートにシュールなストリングスを絡めたYMO的(あるいはビートルズ的)展開など、魅力がいっぱい。
その後、感情過多でつまらない「Juliet」をはさんで、いよいよ「じれったい」が来る。アルバム収録のリミックス・ヴァージョンには、打ち込みビートとコーラスがループして、イコライジングされたシャウトがかぶさる間奏部分があるのだが、これはまあ余計だ。

この後、坂本九に捧げた「星空におちた涙」と児童合唱団をフィーチャーした「夢のポケット」が続くのだが、これはかなりつまらない。官能のヴォーカリスト玉置には全然「らしくない」曲で、いかにもとってつけた感じ。
その他シニカルなジャズ・ビート曲「No Problem」と、タイトなブラスが魅力的な「Shade Mind」も好きな曲だ。
最後の「月に濡れたふたり」と「Too Late Too Late」は。まあふつう。

もう一枚の『太陽』は、アルバムとしては今ひとつだが、良い曲が何曲かある。
良い曲というのは、「1991年からの警告」、「太陽」、「俺はどこか狂っているのかもしれない」、「SEK'K'EN=GO」の4曲だ。
1991年からの警告」は核戦争の始まりを描いたせつなく悲しい曲。アルバムのタイトル曲「太陽」は、アラビックな旋律を取り入れた意欲作で、やっぱりせつない。「俺はどこか狂っているのかもしれない」と「SEK'K'EN=GO」は、ビートが効いたシニカル・ソングの2連発。この4曲を聴きたくてこのアルバムを手元に残したのだった。

他に「エネルギー」は、官能の先の純愛という点で「じれったい」につながる曲なのだが、いかんせん曲のクオリティーが低い。あとの曲はどれも魅力なし。

どうでもいいことだけど玉置浩二という人は、御承知のように性懲りもなく結婚と離婚を繰り返している。もしかすると、「じれったい」に歌われているような性愛の先の純愛を、この人はまさに実際に追い求め続けている人なのかもしれないな。


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