2012年9月3日月曜日

「BEAT TAKESHI KITANO 絵描き小僧展」その他

東京に出て新宿で時間が空いた。ふと思いついて東京オペラシティをのぞいてみることにした。
ここに行くのははじめて。以前からどんなところなのか、一度行ってみたいとは思っていた。が、なかなか足が向かなかった。
行く気が起きなかった理由は簡単。私はNTTが嫌いなのだ。電電公社時代のお役所的ゴーマン体質を濃厚に受け継ぐNTT。その牙城であるオペラシティには、足が向きかねた。
しかしもうそろそろ「大人の対応」ということで…。

あんまりなじみのない都営新宿線に乗り、まったくなじみのない初台の駅で降りると、そこはもうほとんどオペラシティ専用駅なのだった。
オペラシティの全容が理解できないうちに何とかアートギャラリーに辿り着くと、やっていたのは北野武の展覧会「BEAT TAKESHI KITANO 絵描き小僧展」だった。
テレビで再三本人が宣伝していたのはこの展覧会だったのか。

人気お笑い芸人、そして今や日本を代表する映画監督の話題の展覧会、しかも会期は残り一日ということで、入り口には行列が出来ていた。美術展の行列というよりも、どちらかというとデパートのイベント会場の行列に近い客層だ。とりあえず中に入る。

内容は北野の描いた絵画(一部版画などもあり)が半分。
もう半分が北野のオモシロ・アイデア(たとえば魚と動物が合体した生き物とか)を実体化したものが並ぶコーナーである。後者は、お祭りの会場か、はたまた遊園地のようなしつらえになっている。

絵を描くタレントというのはこれまでにもいた。工藤静香とか八代亜紀とか。でもたいていはふつうの日曜画家とおなじで習い事として洋画の作法をなぞっているだけのものだ。
北野の描く絵は、それらとはまったく違う。漫画というか、イラストに近く、いわゆる「洋画」とは別物だ。

一種の開き直りなのだろうが「ペンキ屋のせがれ」と自称しているだけあって、北野の画面は原色にあふれてカラフル、しかも色面はアクリル絵の具によってフラットに塗られている。マチエールはなし。
内容は自分の思いつきやワン・アイデアを具象的に描いたもの。人物や猫がよく登場する。ただし、タイトルはなく、風刺的な意味合いを過剰に込めているわけではない。自分の好きなように描いていて自由な感じが伝わってくる。
「好きなように描く」というのは、できそうでいて素人にはけっしてできることではない。北野の絵はあくまで素人だが、その自由さにおいてやはり才人ならではの絵だなと感心する。

しかし、たぶんかなり意識していわゆる「アート」風にならないように努力しているのだと思う。しかも、これでもアートなのだという主張がその裏には強く感じられる。
会場冒頭のあいさつ文の中で、北野自身が次のように語っている。

「この個展を通して、アートって言葉に、もっと別の意味をもたらせたらいいなと思う。アートって特別なものじゃなく、型にはまらず、気取らず、みんながすっと入っていきやすい、気軽なものであるべきだと思う。」

自由に無手勝流に描いているが「これもアートだ」という主張があるのだ。ツービート時代からの既成の価値観を突いてやろうという批評精神の性根は、ここにも一貫しているのを感じる。
「これもアートだ」という主張を観る者に想起させるかのように、画中の人物の顔は、つねにピカソ風に描いてある。「これってやっぱりアートなのか」と観る者を惑わせる仕掛けだ。あるいは、これを見て観客は、アートって何だろうとあらためて考え始めるのだろうか…。

しかし、その心意気はわかるにしても、全体的に言えば絵画としての感動や感興というようなものは、私にはまったくわかなかった。なるほど従来のアートにはこだわっていないかもしれないが、そもそもこれが広い意味でのアートとも思えない。
ひねったアイデアを具現化した立体物のコーナーは、面白いものもあったが、そうでないものもあった。まあ、絵のおまけみたいなものだろう。じっくり腰をすえてみる気にはなれなかった。

ついでに同時に開催していた所蔵作品展「難波田龍起・舟越保武 精神の軌跡」と「関口正浩展」も観てきた。

このうち難波田龍起のコレクションはじつに素晴らしかった。質、量ともに十分に一つの特別展に匹敵する内容だ。
繊細で控えめな作品群だが、日本における西欧のモダン・アートの影響の中でも最も良質な成果と言えるのではないか。その世界をじっくりと堪能させてもらった。本当に観に来てよかった。
舟越の作品は、頭像が中心でプライベート・コレクションと言った感じ。

関口正浩は、昨年のVOCA展に入選したまだ二十代の若手とか。でもやっていることはちっとも新しくない。こんなことやっていると、北野武に笑われそう。

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