2014年1月15日水曜日

追悼 大瀧詠一


昨年(2013年)の末に大瀧詠一が亡くなった。
死因は、最初リンゴをのどに詰まらせたためと報じられた。
それを聞いた私は、不謹慎な話だが、いかにも大瀧詠一らしいなと思ってしまった。もちでもなく、こんにゃくゼリーでもなく、リンゴをのどに詰まらせるなんて…。
そして彼の最初のソロ・アルバムに収められている曲「それはぼくぢゃないよ」の一節を思い出した。

うす紫に湯気がゆれるコーヒーポットに
つぶやき声が かすかに かすかに
きみの髪がゆっくりと 翻ったら
僕は林檎のにおいでいっぱいさ

(「それはぼくぢゃないよ」詞:松本隆 曲:大瀧詠一) 

この曲「それはぼくぢゃないよ」は、はっぴいえんどのファ-スト・アルバム通称『ゆでめん』の中の「朝」の続編みたいな曲だ。陽だまりのようにピュアな幸福感に満ちている。「救済」をも感じさせるこの曲の中で、「林檎」はその幸福感を象徴するイメージとして使われている。他ならぬそのリンゴによって天に登っていったとは、なんて大瀧らしいんだろう。
その後病院で確認されて、本当の死因はリンゴではなくて解離性動脈瘤であることがわかった。訃報が訂正されたのは、翌日のことだった。

大瀧詠一は、今となっては私にはずいぶんと遠い存在になっていた。近年の彼があまり目立った活動をしていなかったからというわけではない。そうではなくて、私にとっての大瀧詠一、私の好きな大瀧詠一は、もう40年近くも昔のはっぴいえんど時代の彼だったからだ。あの頃の大瀧は、まだロックの人だった。熱くてトンガッていた。
当時の彼の曲と、そしてクセのあるヴォーカルは、ウエットでシリアスだった。社会に対して斜めに視線を向けていて、しかも細野晴臣のように生硬になり過ぎることなく、しなやかさを失わなかった。

はっぴいえんど時代の大瀧の曲の数々、たとえば「春よ来い」、「かくれんぼ」、「いらいら」、そして「はいからはくち」等々。どの曲もあの頃のわれわれが抱えていた、形にならないもやもやとした気分(それは社会に対する反発や閉塞感や不安などから生じたものだった)を見事に代弁し、発散してくれていた。ロックとはそういうものであり、だからこそロック少年たちは熱い思いを寄せていたのだった。

しかし、ソロになった大瀧詠一は、ポップスの人になってしまった。社会に背を向けて、アメリカン・ポップスという趣味の世界、彼の曲のタイトルをそのまま借りれば「趣味趣味音楽」(『ゴー!ゴー!ナイアガラ』)の世界に閉じこもってしまったのである。
オールド・アメリカン・ポップスを下敷きにした大瀧の趣味趣味音楽の世界は、どうにも能天気で、あまりにも現実離れしていた。何しろ社会に対して怒りのこぶしを振り上げたパンクの嵐が吹き荒れ始めていた時代である。大瀧の音楽は、私にはまったく感情移入不能で、自分には縁のないものに見えたのだ。
こうして大瀧詠一は、私にとってどんどん遠い世界の人になっていったのだった。

しかし、その後1981年のアルバム『ロング・バケイション』で、私は再び大瀧詠一に出会うことになる。世間的にも大ヒットを記録し、それまでほとんど無名だった大瀧詠一の存在を大きく世に知らしめることになったアルバムだ。
私的には、このアルバムの曲のどこまでも乾いた感じにひかれたのだった。演歌からフォーク、ニュー・ミュージックへと形は変わっても、じめじめとしたウエットな感覚はちっとも変わらない日本のポップス。そんな中で『ロング・バケイション』の世界は、カラッと乾いていて何とも日本離れしていた(ただしラストの「さらばシペリア鉄道」だけは例外だが)。そこに、日本のポップスへの批評性をも感じたのだった。

 それがきっかけで、あらためてそこまでの大瀧のソロ・アルバムもさかのぼって買った。結局あんまり聴かなかったのだが…。
今回あらためてCD棚から私の持っている大瀧詠一のアルバムを引っ張り出してきた。出てきたのは次の5枚。自分でもすっかり忘れていた。

『大焼詠一』(1972年)
『ナイアガラ・ムーン』(1975年)
『ゴー!ゴー!ナイアガラ』(1976年)
『ナイアガラ・カレンダー』(1977年)
『ロング・バケイション』(1981年)

彼の主宰したナイアガラ・レーベルからは、大瀧が関係したたくさんのアルバムが出ている。しかし、『ナイアガラ・トライアングル』とか、『CMスペシャル』とか、『多羅尾伴内楽團』のような変則的なシリーズ企画物をのぞくと、大瀧詠一のソロ・アルバムと言えるのは上の5枚だけだ。
この他、大瀧詠一名義のアルバムとしては『デヴュー』というのもあるが、これはベスト盤。また『ロン・バケ』の後には『イーチ・タイム』というのが出ているが、私は持っていない。
ちなみに大瀧が亡くなって、このところこれらのアルバムがかなり売れているとのことだ。

大瀧詠一の追悼ということで、手元にあったこれらのソロ・アルバムを久しぶりに聴いた。以前聴いたときとはだいぶ印象が違ったし、いろいろな感慨もわいてきた。これらのアルバムの詳しいレヴューは、あちこちで語られるだろうから、ここでは私の印象を簡単にメモ的に記しておくことにする。

□ 『大瀧詠一』1972年)

はっぴいえんど時代に出た大瀧のファースト・ソロ。アメリカン・ポップのテイストがきつ過ぎて、私は気にいらなかった。アメリカン・ポップスは商業主義音楽だと思っていたし、私には感情移入し難いものだった。
しかし、今聴くと、この後の大瀧趣味全開のソロ・アルバム群に比べれば、むしろかなりはっぴいえんど色を強く感じるアルバムだ。そして何より曲も良いし、ところどころ何とも言えない哀愁があってなかなかの名盤だと思った。
もし、はっぴいえんどが解散しないで存続し続けていたとしたら、ラスト・アルバムのHAPPY END』みたいなヘンな方向ではなくて、この大瀧のソロ・アルバムの方で聴ける音楽性へと展開していく可能性もあったのではなかろうか。

□ 『ナイアガラ・ムーン』(1975年)
□ 『ゴー!ゴー!ナイアガラ』(1976年)
□ 『ナイアガラ・カレンダー』(1977年)

エレック/コロムビア期ナイアガラ時代の3枚。このうちとりわけ『…ムーン』と『…カレンダー』は名盤だと思う。『…カレンダー』については、大瀧自身も96年の時点で、自分の最高傑作と述べていた。
この時期、一説によるとナイアガラ・レーベルは、コロムビアと年間3枚のアルバムを制作するというハードな契約を交わしていたらしい。そのためもあってか、これらの3枚には、『ロング・バケイション』のように、じっくり作り込んだ感じはない。
しかし、逆に怒涛のような勢いと、思い切りの良さがあって、そこが何とも言えない魅力になっている。

またアメリカン・ポップスを中心にしつつも、ニューオーリンズ・サウンドなど、さまざまなワールド・ミュージック的リズム・アプローチが過激に試みられており、大瀧のミュージシャンとしての胃袋の大きさを感じさせる。
その辺の感じは、意外にも、大瀧とはまったくテイストが違うと思っていた細野晴臣のソロ世界とかなり通じているような印象だ。細野は同じ趣味世界でも、ノスタルジックでオリエンタル、大瀧とは全然方向が違うと思っていたのだが。
いずれにせよ、自分の趣味に閉じこもっているように私には見えた大瀧の音楽は、広く世界に向って開かれていたということになる。

そしてちょっと驚いたのは、70年代のこの3枚のアルバムの中で、81年の『ロング・バケイション』の世界はすでに十分に提示されていたということだ。
この時点では、ほんのひとにぎりの人にしか認められなかった大瀧詠一の音楽の世界(だからこそこの後2年間の沈黙があり、ソニーへの移籍があったわけだろう)。それが、80年代になって『ロング・バケイション』で、いきなり圧倒的なポピュラリティを得ることになったわけだ。
どうしてそんな事が起きたのだろう。
もしかしたら、大瀧のマニアックな音楽のあり方に、時代がやっと追いついたということなのだろうか。たしかに時代はどんどん趣味の方へ、マニアの方へと向ってきた。大瀧のマニアックな姿勢は、ある意味で時代を先取りしていたと見えなくもない。

□ 『ロング・バケイション』(1981年)

この乾ききったドライな空気感が、じつに気持ちよい(「シベリア鉄道」を除く)。
曲や演奏が練り込まれているのはもちろんとしても、それまでのエレック/コロムビア期のアルバムで展開してきた自分の音楽の世界を、パッケージ化して、誰にもわかりやすく提示したのが大ヒットの要因のひとつかもしれない。ジャケットのイラストの変化が、まさにそれを象徴している。
これは言い方を変えれば、自分の音楽的な個性を、ひとつの「芸」として確立したとも言える。この点は、80年代に入ってからのユーミンのブレイクの仕方と同じだ。

リンゴとともに逝った大瀧詠一。最後にもう一度、彼の曲「それはぼくぢゃないよ」の一節を引いて、御冥福を祈りたい。


茜色の朝焼け雲 ひとつ千切れて
ほころんだ空に 夢が紡がれる
(中略)
まぶしい光のなかから のぞきこんでいるのは
それはぼくじゃないよ それはただの風さ

(「それはぼくぢゃないよ」) 


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