2015年2月15日日曜日

ジョニ・ミッチェルの二つの箱


前回、ジェームス・テイラーとジョニ・ミッチェルについて書いた。その折ネットを見ていたら、ジョニ・ミッチェルのボックス・セットがふたつも出ていることを知った。どちらもなかなかすごいシロモノだ。
ひとつは「Joni Mitchell the Studio Albums 1968-1979」というCD10枚組。もうひとつが「Joni Mitchell / Love Has Many Faces: A Quartet, A Ballet, Waiting To Be Danced」というCD4枚組の箱だ。

Joni Mitchell the Studio Albums 1968-1979」は、68年のデビュー・アルバム『ジョニ・ミッチェル』から、79年の『ミンガス』まで、ワーナー時代のスタジオ・アルバム全10作を収めた何とも壮大なボックスだ。2012年に発売されたようだ。驚いたのはその値段で、何とアマゾン価格で4312円。1枚当たり400円とちょっと。これじゃあ、ほとんどタダみたいなものではないか。
私は74年の『コート・アンド・スパーク』以降のアルバムは全部持っているけれど、初期のアルバムについては71年の『ブルー』しか手元にない。持っていないのは4枚。4枚のためにこのボックスを買うべきか?紙ジャケだし。

アマゾンのこのボックスのページからたどっていくと、こういう類のボックスが他のアーティストについてもいろいろ出ていることがわかった。タイトルは「Original Album Classics」とか、「Original Album Series」とか、「The Studio Albums」となっていて、それぞれのアーティストのオリジナル・アルバムをひと箱にまとめたものだ。特徴は、とにかく廉価なこと。しかも一応、紙ジャケ仕様。そのかわり、紙ジャケの造りは簡素(粗悪?)で、ブックレットやパンフの類はいっさいなし。
どうやらこういう形の売り方が昨今の流れらしい。CDの売り上げがどうしようもなく落ち込んできたので、旧譜を二束三文でたたき売ってしまおうという魂胆らしい。そう思うと何だか悲しい気持ちになってしまった。そしたら、ジョニの10枚組に対する気持ちもすっかり冷めてしまったのだった。

もう一つの方のボックス「Joni Mitchell / Love Has Many Faces: A Quartet, A Ballet, Waiting To Be Danced」は、アンソロジーだ。発売されたのは昨年(2014年)の11月。今のところ国内発売の話はないようだ。
何度も書いてきたように、私はもう箱は買わない、と心に誓ったのだが、このボックスにはちょっとドキドキしてしまった。『レコード・コレクターズ』誌のアルバム評で激賞されていたからだ(20152月号「リイシュー・アルバム・ガイド/海外盤」)。
内容は「ジョニ自身が2年の歳月をかけて選曲し、構成を手掛け、絵画を寄せた」ものとのこと。詳しいことは各自で検索してください。とても興味深い。
「アルバム・ガイド」の評者の宮子和眞は、このボックスを「才能の閃きに圧倒されるのと同時に心の奥が癒されて優しい気持ちになる」といきなりほめちぎっている。さらに「新曲や未発表曲はひとつもない編集盤なのに4枚のCDがすべてニュー・アルバムのように聞こえる」というのだ。そして最後には「極上の一作」という決めの一言が添えられている。
そそられるなあ。癒されたいなあ。しかしちょっと高いなあ。アマゾン価格で5017円。何と上の10枚組よりこっちの方が高いではないの。でも、最近のディランのバカ高い値段設定よりは、よっぽどリーズナブルなのだがなあ。
と、悩んでいる今日この頃。さて、私はこの箱を買うのでしょうか。


2015年2月13日金曜日

変わらないジェームス、変わり続けるジョニ


ジェームス・テイラーとジョニ・ミッチェルは、かつて恋人同士だった。1970年前後。二人のそれぞれのキャリアのごく初期の頃のことだ。
二人の関係は、その頃に作られたいくつかのアルバムに刻まれている。たとえば1971年のジェームス・テイラーのサード・アルバム『マッド・スライド・スリム』では、「強きものは愛」、「きみの友だち」、「遠い昔」の3曲で、ジョニ・ミッチェルによるバック・コーラスが聴ける。中でも、「遠い昔」のジョニの歌声は、可憐で情感にあふれていて、とてもとても印象的だ。
また同じく1971年のジョニ・ミッチェルの4枚目のアルバム『ブルー』では、「オール・アイ・ウォント」など3曲にジェームス・テイラーがギターで参加している。コード・カッティング中心のジョニに対し、ジェームスのギターは、絶妙なピッキングでサウンドに奥行とふくらみを与えている。とりわけ「オール・アイ・ウォント」での、ジョニのヴォーカル&ギターとの軽妙な絡みは何とも素適だ。
二人はこうして互いのアルバムに客演したほか、ジョイントでツアーも行っている。その様子を伝える貴重な記録が、『The Circle Game 』というライヴ・アルバムだ。名義は「Joni Mitchell & James Taylor」となっている。このアルバムは、ジャケットも音の編集もかなり雑な造りなので、私はずっとブートレグだと思っていたのだが、最近アマゾンで入手可能なことを知った。ということはオフィシャル盤なのか?
中身は197010月、ロンドンのロイヤル・アルバートホールでのコンサートから収録したもの。二人のみの演奏によるアコースティック・ライヴで、各々のソロ&デュオの計11曲が収録されている。初々しい二人のいかにも仲睦ましい様子が伝わってくる。

ところで、私も隠居生活に入ってまもなく4年。思い切って仕事を辞めて、本当に良かったと思っている。いやなことから解放されて、楽しい毎日だ。もちろん、ビンボーと引き換えなんだけどね。しかしそんな私でも、ときどき癒されたい気分になることがある。人生って、やっかいなもんだな。

そんなときに聴きたくなるのが、ジェ-ムス・テイラーだ。ジェームス・テイラーの『マッド・スライド・スリム』。世評の高いセカンド・アルバムの『スイート・ベイビー・ジェームス』ではなくて、私は断然このサード・アルバムが好きだ。
高校生の時にこのアルバムを手に入れて、すっかり夢中になり、毎日毎日、繰り返し聴いたものだ。あの頃もこのアルバムを聴いては癒されていたことを思い出す。

ハード・ロックばかり聴いていたロック少年が、何でいきなりこんな穏やかな音楽に引き込まれてしまったのか。それはジェームス・テイラーの歌声に漂う「陰り」のせいだ。そして孤独で内省的で呟くような歌い方にも。それはこの人独特のものだった。
孤独感という点では、当時のニール・ヤングにも共通するものがあった。しかし、ニールの孤独の表現が、より直接的だったのに対し、ジェームス・テイラーのそれはもっとソフィスティケートされていた。そしてそのぶんだけ、ジェームスの孤独とあきらめは、底深いもののように感じられたのだ。
彼とキャロル・キングの登場で、いきなり「シンガー・ソングライター」というジャンルが確立した。しかし、ジェームス・テイラーのような陰りを抱えた「シンガ―・ソングライター」は彼の前にも、そして後ろにもいなかった。彼の音楽は、まさにワン・アンド・オンリーのものだったのだ。

後で知ったことだったが、彼の陰りのある歌は、個人的な絶望の果てに辿りついたものだったのだという。しかし、彼のそんな個人的な歌の世界が、まさに時代とシンクロしたのだ。1960年代から70年代へという時代の変わりめの気分を、幸か不幸か彼の歌が見事に代弁してしまったのだった。一躍彼は時代の寵児になる。

しかし私のジェームス・テイラーは、『マッド・スライド・スリム』で終わってしまった。どういうわけか次のアルバムが出ても買わなかった。
先年、ある友人にこう言われた。「『マッド・スライド・スリム』がそんなに好きだったんなら、悪いことは言わないから、ワーナー時代の6枚は絶対持っておいた方がいいよ。つまり『スイート・ベイビー・ジェームス』から『イン・ザ・ポケット』までね」
で、私はこの友人のアドヴァイスに素直に従った。紙ジャケの再発盤で、6枚をそろえたのだ。

ジェームス・テイラーの歌の世界は、どこまで行っても不変だ。不変のまま繰り返されている。プロデューサーが変わろうが、バックのミュージシャンが変わろうが、私にはどのアルバムもほとんど同じにしか聴こえない。結婚して家庭を持って明るくなったとも言われるが、私にはそうは聴こえない。
そして悲しいことに時代の方は変わっていったのだ。一時(いっとき)、時代を代弁していた彼の歌は、たちまち時代に置き去られて孤立することになる。繰り返される彼の歌の世界は、私にも色あせて見えた。さらに、孤立しているだけならいいのだが、私には彼の音楽が何となくAORの流れに飲み込まれてしまったようにも見えた。

これに引き換え、その後のジョニ・ミッチェルの歩みは目を見張るばかりだ。ジェームスと別れた彼女は、フォーク・シンガーから脱して70年代の後半に、次のような7枚のアルバムを作った。

『コート・アンド・スパーク』(1974
『マイルズ・オブ・アイルズ』(1974
『夏草の誘い』(1975
『逃避行』(1976
『ドンファンのじゃじゃ馬娘』(1977
『ミンガス』(1979
『シャドウズ・アンド・ライト』(1980

どれも良いアルバムだ。ソング・ライティングだけでなく、サウンド・プロダクションにもジョニの神経が細かく行き届いている。そして何より1枚ごとに果敢に変わっていこうとするジョニの凛々しい姿勢が素晴らしい。ジャズやワールド・ミュージックも取り入れるなど実験的であるが、同時にしっとりとしていて、ちゃんとポップでもある。『ドンファンのじゃじゃ馬娘』や『ミンガス』にいたっては、ほとんどプログレッシヴと言ってもいいくらいだ。だから当然売れなかったらしいが。
ここには時代に左右されない自分独自の世界を作り出そうとする強い意志がある。「自立」はしばしば孤独と裏腹だ。ジョニの音楽の姿勢には、そんな孤独を乗り越えた人が持つであろうタフネスを感じてしまう。

これらのアルバムの中で私がとくに好きなのは、『夏草の誘い』、『逃避行』、『シャドウズ・アンド・ライト』の3枚だ。これと初期の『ブルー』は、今もときどき聴いている。
『シャドウズ・アンド・ライト』は、ライヴだが、ウェザー・リポートやパット・メセニーグループの面々がなかなか良い演奏を聴かせている。この時期のウェザー・リポートは、初期のアヴァンな方向性から一転、「哲学」なき漂流を続けていた。だがここでは、ジョニの「哲学」の手足になることで、見事によみがえったものと思われる。

変わらないジェームスと変わり続けるジョニ。時代と見事に交錯した『マッド・スライド・スリム』でのジェームスの輝き。そして、変わり続けることで時代を大きく超越したジョニの孤高の精神。どちらもロックだ。そして、どちらも愛おしい。


2015年1月31日土曜日

本場のブルースとイギリスのブルース、そしてクリームのこと


今年も友人のI君から年賀状が届いた。彼は古くからの友だちで、学生時代の私のロック仲間だ。
彼の年賀状には、音楽生活に関する近況が添えてある。今年の年賀状によると、昨年の彼は古いロックからどんどんさかのぼってブルースを聴くようになり、ブルースの3大キングを経て、ついにはロバート・ジョンソンに行きついたとのことだった。

これを読んで私も久々にブルースが聴きたくなった。そこでCD棚の奥から手持ちのブルースのCDを引っ張り出してきたのだった。しかし久しぶりに聴くブルースの音は、何だか今ひとつ耳にしっくりこない。粗野なヴォーカルと、ペケペケと鳴るギターの音色が何ともなじめない感じ。
ロックの源流とはいえ、ブルースはロックそのものとは明らかに大きな隔たりがある。そう感じる人は少なくないだろう。

私も含めてロック・ファンの少なくない数の人たちは、ブルース・コンプレックスを抱いているのではないだろうか。あこがれのロック・ヒーローたちがリスペクトしてやまないブルースという音楽。興味をひかれて実際にブルースを聴いてみると、どこがいいのかよくわからない。そこで、自分にはブルースの良さがわからないというコンプレックスを抱くようになるわけだ。

それでもこの正月は、ひととおり自分の手元にあるブルースのアルバムを順繰りに聴いてみた。耳が慣れてくると、それなりに面白くなってくる。自分の好みに合うものと、合わないものがわかってくる。
I君がたどり着いたロバート・ジョンソンの良さは、じつは私にはわからない。クラプトンやキース・リチャードもこの人を敬愛していることはよく知られているが、私には縁がないようだ。
私がいいなと感じるのは、巨匠では、エルモア・ジェイムスや、ジョン・リー・フッカーや、ハウリン・ウルフたち。たしかにロックの根っこはここにつながっているような感じだ。もうちょっと新しい世代では、オーティス・ラッシュと、そして何といってもフレディ・キングがいい。このへんはもうほとんど、ロックと地続きと言ってもいい。

そんなわけでブルースを聴いていたら、イギリスのバンドがカヴァーしている曲がいくつも出てくる。フレディ・キングの「ハイダウェイ」とか、ハウリン・ウルフの「スプーンフル」、「シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド」、「キリング・フロア」(ツェッペリンの「レモン・ソング」)などだ。

それでついでにイギリスのブルース・バンドのCDも引っ張り出して聴いてみた。フリートウッド・マックとか、チキン・シャックとか、サヴォイ・ブラウンとかだ。この三つは、ブリティッシュ・ブルースの3大バンドと言われているらしい。それと、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ。
これらのバンドのやっていることは、やっぱり本家米国のブルースとはかなり感触が違う。カヴァー曲をオリジナルと聴き比べるとその違いは明らかだ。本家のブルースが持っている乾いた感じがない。ブリティッシュ・ブルースは、もっとセンチメンタルで、ウエットだ。そしてまさにそこが魅力なのだ。
ブルース・ギタリストで、ブルースに関するライターとしても知られる小出斉は、ブリティッシュ・ブルースから聴き始めて、しだいに本場のブルースにはまっていったと、どこかに書いていた。しかし、同じようにブリティッシュ・ブルースを聴いていても、結局私のように本場米国のブルースには行かなかった(行けなかった)人も多いはず。ブリティッシュ・ブルースは本場のブルースとは異質であり、ブリティッシュ・ブルースなりの独自の魅力を持っている。ロック・ファンの多くは、まさにそちらの方に強くひかれていたからだ。

ブルース・ブレイカーズつながりで、ついでにクリームのアルバムも聴きたくなった。あらためて聴いてみると、やはりクリームはいい。すごいバンドだったことを、今更ながら痛感した。
ブルースのカヴァーをよくやっているとは思っていた。思ってはいたけれども、あらためてカヴァー曲を原曲と聴き比べてみると、その違いに驚く。
それまでのブリティッシュ・ブルース・バンドは、原曲をなぞるように演奏していた。クラプトンが参加していたブルース・ブレイカーズの「ハイダウェイ」(フレディ・キング)なんかもそうだった(ギターのソロ・パートは別だが)。
ところが、クリームの場合は、カヴァーといっても、ほとんど彼らのオリジナルと言ってもよいくらいに改変されている。「スプーンフル」、「シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド」、そして「クロスロード」など、どれも斬新な解釈と、クールでダークなセンスが光っている。これはまさにロックだ。ブリティッシュ・ブルースと、ブルース・ロックの境界はこのあたりにあるんじゃないかと思う。

クリームの「カヴァー」曲の中でも素晴らしいのはクラプトンの「クロスロード」だ。
クラプトンのオールタイム・ベスト・ワンと言えば、私は断然この曲だ。「ホワイト・ルーム」や、「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」や、「レイラ」や、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」や、「ティアーズ・イン・ヘヴン」もある(以下省略)。けれども、やはり最高なのはこの曲に尽きる。
でも、この曲のオリジナルであるロバート・ジョンソンの「クロス・ローズ・プルース」(2テイクある)は、クラプトン版とは全然違っている。これを聴いても、うっかりするとクラプトンの原曲とは気付かないくらいだ。そこには、クラプトンの「クロスロード」で特徴的なあのリフもない。
「クロスロード」と言えば、本場のブルースを聴いているときに、いくつか気がついたことがある。
ジョン・リー・フッカーに、「ダスティー・ロード」という曲がある。ヴォーカルのフレーズが「クロスロード」にちょっと似ていて、歌詞も少し共通している。全体にせわしなく、たたみかけるような曲調で、クラプトンの「クロスロード」のアレンジには、もしかするとこの曲からの影響が少しばかり反映されているのでは…と思った。
それからハウリン・ウルフの「ダウン・イン・ザ・ボトム」のリフが、クラプトンの「クロスロード」のリフと似ている。正確に言うと、クラプトンのリフの前(まえ)半分を繰り返しているような感じなのだ。
クラプトンは、ウルフ・バンドのギタリストであるヒューバート・サムリンの影響を受けている。当然この曲もよく知っていたわけで、「クロスロード」のリフのアイデアは、こんなところから得た可能性もわりと高いんじゃないか思われる。
でももちろん「クロスロード」が最高なのは、リフだけでなく、そのギター・ソロの素晴らしさによるんだけれど。

オシャレ系音楽から始まった(前回の記事参照)今年の新年は、いきなりブルースに飛んで、結局クリームに落ち着いたわけだ。はたして今年の私の音楽生活は、どんな展開になることやら。


2015年1月22日木曜日

私の好きな「オシャレ」音楽


私はロック・ファンとしては「硬派」だ。「硬派」のロック・ファンとは、どういうことかと言うと、ロックの中でもとりわけプログレッシヴで、アヴァンギャルドで、アグレッシヴなものを好むのだ。ひとことで言えばシリアスなロックが好き。ポップなものも嫌いではないが、イギリス的なねじれたセンスのポップが好きだ。そういうわけでロックでも、安直でお気楽(きらく)で能天気なのはノー・グッド。
しかし、そんな「硬派」な私でも、ときおり「オシャレ」で気の利いた音楽が聴きたくなることもある。そういうときに私が聴くのが、シャーデーと、スティーリー・ダンと、ホール&オーツだ。それぞれCDを数枚ずつ持っている。
じつは、この寒かった年末年始(2014年から15年にかけての)に、もっぱら聴いていたのが、この三つのグループだった。そこで、今回は私の好きな「オシャレ」音楽についてのお話。

ところでこの3組の共通点を強いて挙げるとするなら、いずれも音作りに関して完璧主義ということになるだろうか。そしてジャジーだったり、ソウルっぽかったりするが、とにかく高度に洗練されていること。オシャレだけれども、けっしてお気楽ではない。
この完璧主義がピークに達しているのが、シャーデーなら『ラヴ・デラックス(Love Deluxe)』(1992)、スティーリー・ダンなら『彩(エイジャAja)』(1977)、ホール&オーツなら『プライベート・アイズ(Private Eyes)』(1981)あたりということになる。これらは、いずれも名盤であると同時に、それぞれの代表作ということになっている。

でも私の好きなのは、じつはそういうアルバムではなくて(一応持ってはいるのだけど)そこに至る少し手前の時期のアルバムなのだ。完璧になる前の、まだちょっとユルさのある音がいい。
シャーデーは、1984年に『ダイアモンド・ライフ(Diamond Life)』でデヴュー。いきなり独自のジャジーで洗練されたサウンドを確立した。その後『プロミス(Promise)』(1985)、『ストロンガー・ザン・プライド(Stronger Than Pride)』(1988)と、さらに洗練の度を高めていく。そして4年間のブランクをおいて発表した『ラヴ・デラックス(Love Deluxe)』(1992)は、まさにダイアモンドの結晶のようなアルバムだった。確信に満ちたサウンドが、美しく屹立していた。
面白いのは、アルバム・ジャケットの雰囲気も、こうしたサウンドの進化を何となく反映していること。どのアルバムもヴォーカルのシャーデー・アデュの美しいポートレイトなのだが、ファーストの『ダイアモンド・ライフ』のジャケットでは、まだどこか媚を売るようなメイクだった。それが、アルバムを重ねるごとに、どんどん自立&自律した女性へと存在感を増していく。
そして『ラヴ・デラックス』では、黒く硬質なひと固まりのオブジェと化したヌードで登場している。さらにその後に出たベスト・アルバム『Best Of Sade』(1994)では、ジャケットいっぱいにクローズアップされたアデュの顔が、悠然とまっすぐこちらを見つめているのだった。
私はフェミニストのつもりだし、自立した女性は好きだが音的には、完璧な『ラヴ・デラックス』よりも、もう少し穏やかな音を好む。アルバムでいうと、セカンドの『プロミス』あたり。スモーキーなアデュのヴォーカルが漂わす、はかなげな風情が何ともたまらない。

スティーリー・ダンの二人(フェイゲン&ベッカー)も完璧主義だ。職人的、もしくは病的といってもいいくらいに。そのこだわりが頂点を極めたのが、1977年の『彩(エイジャ)』ということになる。
当時、愛読していた『ミュージック・マガジン』誌上でも、このアルバムは大きな話題になった。超一流のスタジオ・ミュージシャンをぜいたくに起用した演奏の完璧さと、細部までこだわり抜いた精緻な音作りが絶賛されていた。以後、『彩(エイジャ)』はロック史に輝く名盤という定評を得ることになる。私にとっても発売と同時に購入して繰り返し聴いた思い出深いアルバムだ。
しかし、今はほとんど聴かない。なるほど演奏もサウンドも完璧かもしれない。だが、肝心の曲そのものに魅力がないのだ。スティーリー・ダンの曲と言えば、「ドゥ・イット・アゲイン(Do It Again)」(73)とか「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」(74)が印象深い。けれども、『彩(エイジャ)』には、これに匹敵するような名曲が一曲も入っていないのだった。

というわけで私的には1974年のサード・アルバム『プレッツェル・ロジック(当時は副題が「さわやか革命」)』あたりが好きだ。のちにドゥービー・ブラザースに入るジェフ・バクスターがまだバンド・メンバーだった頃の作品だ。この人の豪快でおおらかなギター・プレイが、このアルバムにほんの少しだけ泥臭くてのどかな雰囲気を付け加えていた。そこがよいのだ。

ダリル・ホール&ジョン・オーツは、言うまでもなく80年代のオシャレ音楽界を席巻したグループである。そんな彼らのサウンドのピークを記録したのが、3枚のセルフ・プロデュース作、すなわち『モダン・ヴォイス(Voice)』(1980)、『プライベート・アイズ(Private Eyes)』(81)、そして『H2OH2O)』(82)ということになる。いずれも完璧なサウンドによる怒涛の勢いのヒット曲が並んでいる。ほとんど「産業ロック」とも呼べそうなのだが、その手前で何とか踏みとどまっている感じだ。それはこの人たちが完全な商業ベースではなくて、その根っこにかろうじてロック・スピリットを持っていたからではないかとも思う(とくにダリル・ホールの方。彼はクリムゾンのロバート・フリップとも共演している)。

しかし、やっぱり私が好きなのは、ちょっとくつろいだ感じのある彼らの初期のアルバムだ。中でもセカンド・アルバム『アバンダンド・ランチョネット(Abandoned Luncheonette)』(1973)がいい。ジャケットは、郊外の打ち捨てられたレストラン(つまりこれがアバンダンド・ランチョネット)。タイトル・ソングは、過去を回想しながら人生の機微を歌ったものらしい。しかし、ジャケットに写る都市の郊外のひなびた情景に、私はのどかな空気感を感じてしまう。そして、このアルバム全体の音にもまた、こののどかさを感じてしまうのだ。そこが気にいっている。

私の「オシャレ」音楽について、はこれでおしまい。
ここからはおまけ。今回の記事を書くにあたってネットを見ていたら、面白い話を見つけたので紹介しよう。
ひとつは「シャーデーの白いドレスの行方」(ブログ『STRONGER THAN PARADISE 踊るシャーデー鑑賞記』) 。アデュがライヴで着ていた白いドレスが、何とシニード・オコナーに受け継がれたという話。しかも、シニードは、例の事件の時、まさにこのドレスを着ていたというのだ。
そしてもう一つ、「ダリル・ホール&ジョン・オーツ Abandoned Luncheonetteの逸話」(ブログ『Entertainment Everyday ONE』)。これは、アルバム『アバンダンド・ランチョネット』に写っている件の廃屋となった実在のレストランをめぐる話だ。ホール&オーツのファンがここに立ち寄っては、記念に破片をもぎ取っていき、ついには消滅してしまったという。
どちらも興味深くてぐいぐい読ませる。文章もうまい。ネットの音楽についての記事と言えば、表面的な感想に終始したつまらないものが大半だが、その中で珍しく良質な読み物に出会えてうれしくなった。

えっ、おまえのこの記事も「表面的な感想に終始」してるだろうっ…て。その通りでした、すみません。


2014年12月5日金曜日

ボブ・ディラン&ザ・バンド 『ベースメント・テープス・ロウ』


ディランのブートレグ・シリーズ第111集『ベースメント・テープス・ロウ』(The Basement Tapes Raw: The Bootleg Series Vol. 11)を買った(201411月発売)。あくまで『…コンプリート(デラックス・エディション)』ではなくて、『…ロウ(スタンダード・エディション)』の方。
正直言って『コンプリート』と『ロウ』のどっちを買うか迷った。『コンプリート』が6枚組、全138曲収録で、お値段は¥20,000+税。これに対し、『ロウ』の方は、2枚組、全38曲収録で、値段は¥3,600+税。ディラン・ファンは、きっとみんな『コンプリート』の方を買ったんだろうな。私はいろいろ考えた末に『ロウ』にした。

このアルバムの発売を知ったとき、ブートレグ・シリーズの前作『アナザー・セルフ・ポートレイト』と同様、今回もやっぱりパスしようかなと思った。理由はふたつある。ひとつは、値段がバカ高いこと(デラックス・エディションの方)。他のアーティストのボックスと比較しても異様に高いし、これのスタンダード・エディションと比べてもおかしな値段設定だ。スタンダード・エディションが2枚組で3600円なんだから、6枚組なら3600円×3で、10800円くらいでよさそうなもんだ。これはあきらかにディラン・ファンの足元を見ている。いいかげんにしてほしいな。

そしてパスしようと思ったもう一つの理由は、1975年に出たペースメント・テープス・セッションの公式盤『地下室』が、そもそもあんまり好きじゃなかったからだ。
しかし久しぶりに『地下室』を引っ張り出して聴いてみたら、これがすごく良かった(という話は前回書いたとおり)。歳をとってこのアルバムの良さがわかるようになったということなのだろうか。これらの曲を録音した時のディランは、たしか26歳だったはずなんだけど。
ともかく、そうなると俄然、今回のブートレグ・シリーズの『ベースメント・テープス・コンプリート』が欲しくなってしまった。

折しも今月号の『レコード・コレクターズ』誌(201412月号)はこのアルバムの特集。ついじっくりと目を通してしまった。読んでいて記事の本題ではないけれど、75年の『地下室』に関する記述にはちょっとびっくり。『地下室』収録のザ・バンドのみの曲8曲は、本当はベースペント・テープス・セッションのものではないというのだ。看板に偽りがあったというわけだ。

あと今回の特集でひっかかったのは、『レコ・コレ』誌の特集がいつもそうであるように、このアルバムを過大に評価し過ぎている感じがすること。
ベースメント・テープスが、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』や、ザ・バーズの『ロデオの恋人』に影響を与えたというのは、まあわかる。しかし、さらにグレイトフル・デッドの『ワーキングマンズ・デッド』とか、ストーンズの『ベガーズ・バンケット』や『メインストリートのならず者』とか、トラフィックのセカンド・アルバム、そしてビートルズのゲットバック・セッションにまでその影響が及んでいるというのは、はたしてどうか。多少なりの影響はあったにしても、要するにルーツ・ミュージックへの回帰が時代の大きな流れだったということでしょ。ベースメント・テープスの影響だけを取り上げるのはちょっとおかしい。

で、それはともかく『ベースメント・テープス・コンプリート』はどうするか。買うのか、買わないのか。
記事中の文章でやっぱり気になったのは、『コンプリート』の内容についての次のような個所。「1分にも満たない断片的なものやグダグダな演奏のものまでひっくるめて、すべて入っていた」とか、「はっきりいって、ディランが歌っているのでなければ、ただのゴミといったものもなくはない」(佐野ひろし「新たな研究段階に入った“ベースメント・テープス”の実像」『レコード・コレクターズ』201412月号)
コンプリートと言うからには、たしかにそういうものも含まれているんだろうな。つまり、資料性が高いということにはなる。
でも、毎日楽しんで聴くにはちょっとヘヴィ過ぎる感じ。
そこで結局私は、スタンダード・エディションの『ベースメント・テープス・ロウ』を選択した次第。何で「ロウ(Raw)」というのか不思議だったけれど、これは『地下室』収録曲の音が後から手を加えられたものであるのに対し、こちらは「原形のまま」という意味のようだ。何だか『地下室』を過剰に意識しているような気もするのだが。
『ロウ』の方を買ったのは、結果的にはいい選択だったと思う。安いし、厳選された良い曲がいっぱい入っているし、しかも気軽に聴ける。この気軽に聴けるというのがいい。で、ここ最近、ずっとこればっかり聴いている。

『ロウ』収録曲のうち『地下室』とダブっている曲には、「復元ヴァージョン」とか「オーヴァー・ダブなし」と表示されている。『地下室』の曲と聴き比べてみたが、どちらもそれなりに良かった。ディランの歌の本質はそんな違いには左右されないという感じがする。くねくねとうねり、強引に引っ張るディランのヴォーカル・フレーズ。それが何だか魔法のように、私の心を引き付けるのだった。


2014年12月4日木曜日

ボブ・ディラン&ザ・バンド 『地下室』(1975)


ちまたでは、ディランのブートレッグ・シリーズ第11集『ベースメント・テープス・コンプリート』(The Basement Tapes Complete: The Bootleg Series Vol. 11、201411月)の発売が話題になっている。が、今回は、あえてこのブートレッグ・シリーズではなくて、ベースメント・テープスの最初の公式盤である1975年に出た『地下室』のお話。

今回のブートレッグ・シリーズも買おうかどうしようか迷った。こういうときに私は、手元にあるそのアルバムの関連音源を聴いてみることにしている。そこで今回はベースメント・テープス関連のアルバムということで、75年の『地下室』、ザ・バンドの『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』、ディランの『ジョン・ウィズリー・ハーディング』、そしてついでにザ・バーズの『ロデオの恋人』なんかを聴き直してみたのだった。それぞれどんな関連があるかは省略。
そうしたら自分でも意外だったことに、久しぶりに聴いた『地下室』が、すごく良かったのだ。何で「意外」かというと、私はこのアルバムが、ずっとあまり好きではなかったからだ。ゴメンね。

私はこの『地下室』を、1975年の発売と同時に手に入れて、ずいぶん繰り返し聴いたのだ。しかし、全然その良さがわからなかった。
このアルバムが出た1975年といえば、ディランは生涯で2度目のピークを迎えていた頃だ。74年に『プラネット・ウェイヴズ(Planet Waves)』、75年には『血の轍(Blood on the Tracks)』、そして76年には『欲望(Desire)』が発表された。いずれも名盤だ。その深く鋭い叙情は、聴く者の心をわしづかみにした。
思えばこんな一連の名盤群のはざまに『地下室』は発売されたのだった。見劣りしてしまうのは、しょうがない。『地下室』のデモ録音のような大雑把な演奏と歌は、当時の私の心には全然響かなかったのだ。

ついでにいうと、『地下室』のアルバム・ジャケットもいただけなかった。あの猥雑でごちゃごちゃしたジャケットのイメージは、収められている曲と演奏が、庶民というか大衆の音楽に根ざしたものであることを表しているのだろう。その意図があまりにも単純過ぎて面白味がないのだ。
そんなふうだから、その後このアルバムを聴くことはめったになかったし、あまりいい印象も持っていなかったのだ。

ところが、今回久しぶりに引っ張り出して聴いてみたら、なかなか良かったというわけである。ファンキーでラフでワイルドなところがまず魅力的だ。しかも、それが気取っていなくて、自然体の演奏なのもいい。しかし、もちろんそれだけではない。それだけではないのだが、この良さをどう表わしたらいいのだろう。

ちなみに、このベースメント・テープス・セッションの曲を、ザ・バーズがアルバム『ロデオの恋人』で2曲ほどカヴァーしている。「どこにも行けない(You Ain't Goin' Nowhere)」と「なにもはなされなかった(Nothing Was Delivered)」だ。
ザ・バーズの『ロデオの恋人』は、カントリー・ロックの先鞭をつけた作品と評価されている。しかし、今の耳で聴くと、ここで聴けるのは、ただのつまらないカントリーそのものだ。ディランのカヴァー2曲も、じつに平板で凡庸な演奏。
しかし、この演奏を聴いてみて、逆にディラン&バンドの元の演奏がいかに魅力的かがよくわかる。ディランのうねうねとよじれた歌い回し、そしてバンドの悠然としたサポートぶり、それが一体となってじつに味わい深いのだ。

ところで、発売以来ずっと興味がなかったので、この『地下室』に関する情報は、ほとんど何も知らなかった。なので、今回、ブートレグ・シリーズの発売にあわせて遅ればせながら知った『地下室』に関する事実の数々は、私にとってはまさに“驚きの真実”だった。
いちばん驚いたのは、収録されている全24曲中、ザ・バンド単独の8曲が、じつはベースメント・テープスのものではなかったことだ。そればかりか、何とその8曲の中には、75年の時点での新録も含まれていたというのだ。
また、ディラン参加の曲にも、ザ・バンドによるオーヴァー・ダブが施されるなど、かなり手が加えられているという。これらは、このアルバムの編集にあたったロビー・ロバートソンの仕業ということだ。

ちなみにロビー・ロバートソンは、ずっと私のギター・ヒーローのひとりだった。ザ・バンドの曲作りの中心人物(「ザ・ウェイト」とかね)であると同時に、その渋いギター・プレイは他に類がなかった。しかし、だんだんこの人の良くない評判を聞くようになる。そしてあの映画『ラスト・ワルツ』で見た彼の姿。本当にうさん臭い人物に映った。
なるほど『地下室』を、本来の姿から、よりザ・バンド色の強い形に改変する事など、彼ならいかにもやりそうなことに思えた。

とはいえそんなディランよりもザ・バンド側に偏ったこのアルバムの音楽性は、割り切って聴けば、そんなに悪くはないのだった。ザ・バンド的にみると、ここで聴ける音は、『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』とセカンド・アルバム『ザ・バンド』の中間あたりに位置するように聴こえる。これはこれで良い。もう一曲「アイ・シャル・ビー・リリースト(I Shall be Released)」が入っていれば完璧だったのだが。
ただし、このアルバムを、オリジナルのベースメント・テープスが録音された1967年の作品と考えてはおかしなことになる。どちらかというとロバートソンが手を加えた1975年の作品と考えるべきだろう。だからこそ、オリジナルの形である今回のブートレッグ・シリーズの『ベースメント・テープス・コンプリート』の発売に大きな意義があるわけだ。

さてそれで、ブートレッグ・シリーズの方は買ったのか?って。それはまた次回にね。


2014年11月29日土曜日

ジョージ・ハリスンの箱


ジョージ・ハリスンの箱、「アップル・イヤーズ196875」が発売された(20141015日国内発売)。ジョージ・ハリスンがアップルから出した最初のソロ・アルバム6作を、リマスターしてDVDと本つきでボックスにしたものだ。
 私もビートルズ好きで、ソロ初期のジョージ・ハリスン好きで、しかもついでに「箱」好きときているから、当然この箱にも興味をそそられたのだった。

しかしやっぱり引っかかるのは最初のソロ・アルバム2枚。すなわち『不思議の壁』と『電子音楽の世界』のこと。これは、誰もが御承知のとおり、ジョージのアルバムではあるが、「別格」というか「番外編」の存在だ。思い切り言い方を変えれば、クズorゴミということになる。私も一応持ってはいる。持ってはいるが、どちらも2,3回しか聴いたことがない。それ以上聴く気も起きないし、また聴く必要もないシロモノ。これを、ボックスの一部とはいえ、また買い直すというのはかなり抵抗がある。

しかし、ここで考えはぐるぐる巡って、思い直すのだ。
もし、『オール・シングス・マスト・パス』が、オリジナル通りの形で再現されて収められているのなら、この箱を買ってもいいかな、と。

2001年に『オール・シングス・マスト・パス』のリマスター盤が、〈ニュー・センチェリー・エディション〉と銘打って出たのだが、これには本当にがっかりした。
「がっかり」の第一は、ジャケットが変更されていたこと。オリジナルのモノクロームの写真に、着色が施されてカラーになっていた。しかも、インナー・スリーブでは、このジャケットの風景の背景に、建物や高架の道路が描かれ、田園が都市化されていく様子を示していたのだ。そうやって「オール・シングス・マスト・パス」というフレーズの意味を、絵解きしたつもりなのだろう。けど、これじゃあ台無しだ。この言葉の持つ深遠な意味が、きれいさっぱりと拭い去られている。

がっかりしたことの第二は、アルバムの曲構成がいじられていることだ。元のアルバムにあった練り上げられた構成の妙が損なわれてしまっていた。
オリジナルはLP3枚組で、A面からF面までの6面の各面が、それぞれ巧みに構成されていた。ところが、このリマスター盤では、CD2枚組になり、ディスク1の最後、つまりLPではC面の後に、5曲のボーナス・トラックが追加されているのだ。これでは全体の流れが乱されてしまう。ボーナス・トラックの中には、「ビウェア・オブ・ダークネス」のデモ・テイクなど聴きものもあった。しかし、「マイ・スイート・ロード」の新録なんかは完全に蛇足だろう。
それでもこれだけならCD化の際によくあることだから、まあやむを得ないと言えなくもない。しかし、LPの3枚目のアップル・ジャムの収録にあたっては、曲順が変更されているのだ。3枚目の冒頭にあった「アウト・オブ・ザ・ブルー」が、ラストに回されている。これはかなり違和感がある。

そんなわけで、今回のボックスに収録されている『オール・シングス…』が気になったわけなのだ。本来の形に戻されていればよいのだが…。事前の情報によると、ジャケットはオリジナルのモノクロを再現している(ただし箱ではなくてデジパック仕様)ようなのだが、中身は、2001年のリマスター盤と同じとのこと。これでは、がっかりだ。

それでも、こういうときの常で、一応手持ちの盤で、この箱に収められている6枚のアルバムを聴いてみることにした。
『不思議の壁』と『電子音楽の世界』の2枚は、やっぱり今聴いてもゴミでした。
『オール・シングス…』は、やっぱり素晴らしい。ぜひともオリジナルを再現したエディションを発売してほしいと思う。くどいようだけど、私の要望は次の点だ。①ジャケットはモノクロのボックス仕様。②CDLPにならって3枚組。③インナー・スリーブもオリジナルとおりの色違いを再現。④そして、当然、アルバム構成は、オリジナルとおりで、もちろん曲順はそのまま。ボーナス・トラックはいらない(どうしても入れるならディスク2のラストに)。

さて、『オール・シングス…』の後に出した3枚のソロ・アルバムはどうか。『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』、『ダーク・ホース』、そして『ジョージ・ハリスン帝国』の3枚だ。
ところで『不思議の壁』と『電子音楽の世界』はあくまで「番外編」、『オール・シングス…』は、それまでビートルズ時代から書きためた曲をいっきに大放出したスペシャル版ということなので、本来の意味でのジョージのソロ・アルバムは、『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』からだ、と言っている人がいる。たしかにそうなのだろう。そして、そうだとすると、ジョージ・ハリソンという人の才能は、まあ「それなり」ということになる。この3枚のアルバムが、どれも「それなり」の出来だからだ。

ただ、この人の曲とヴォーカルには、何とも言えない哀愁がある。とくにこの3枚には、『オール・シングス…』よりももっと強く哀愁を感じる。『オール・シングス…』の音はかなり厚めだったので、それがない分、よけいはっきりとヴォーカルの個性が聴こえるのだろう。ジョージの根強いファンの多くがこの哀愁に魅かれるのも良くわかる。
しかし、私にとってのジョージは、結局『オール・シングス・マスト・パス』だけの人なんだなあ、ということをあらためて確認したしだ次第。
で、結論、「アップル・イヤーズ196875」は買いません(でも、中古で安く出ていたら買ってもいいかなあ…)。