2013年2月7日木曜日

寿司を握る日々

<寿司を握る日々 1>

このところ私の昼食は、毎日握り寿司だ。すごいでしょう。もうちょっと正確に言うと、自分で握ってそれを食べているのだ。
「修行中」なので、最初の頃は安いネタばかりだった。たとえば、かまぼことか、カニカマとか、刺身こんにゃくなどなど。回転寿司なら一皿100円クラス。
しかしこれでも、かまぼこはイカのつもりで、カニカマはもちろんカニのつもり、そして刺身こんにゃくはマグロのつもりなのだ。なんだか落語の『長屋の花見』みたいだな。貧乏長屋の面々が、お茶をお酒に、大根の漬物をかまぼこや卵焼きに見立てて花見をする話だ。

もともと私も人並みに寿司が好きだ。けれど隠居の身となってからは、すっかり寿司とのご縁が薄くなってしまった。
うちの奥さんが生(なま)ものをあまり好まないということもあって、店に食べに行くということはまったくない。
ただし我が家では、家族の誕生日に寿司の出前を取る慣習がある。寿司を食べるのはこのときだけだ。だから年に四回。それ以外はほんのときたまスーパーで、パック入りのものを買ってくるくらいだ。

なぜ自分で寿司を握ろうと思ったのか。もちろん、寿司を手軽に安く食べたかったのだ。
この間うちの奥さんの誕生日に久しぶりに出前を取って寿司を食べた。これがすごく美味しかった。また食べたかったが、何しろ寿司は高い。それなら自分で作ってしまえっ、と思い立った次第だ。
これまで、こんなノリで、うどんとラーメンを自分で工夫して作ってみたことがある。どちらも自分なりには満足するものができた。さて、今回はどうなるか。

まずネットで寿司の作り方を調べてみた。今は本当に便利な時代だ。動画で寿司を握っている様子をいろいろ見ることができる。ただ細かいところまでは、なかなかよくわからない。しかし、たくさん見ているうちに、何だか自分でもすぐできるような気になってきた。
それから、寿司めしの作り方もわかった。そこで、さっそくトライしてみたのだ。

ここで、寿司の作り方を、調べた情報に私の体験を加えて紹介しておこう。自分も作ってみようという人のために。そんな人いないかな。

<寿司のマニュアル 寿司めし編>

寿司めし(シャリ)の作り方は、意外に簡単だった。
ご飯にまぜる寿司酢の材料は、調べればすぐにわかる。ちなみに、私の場合はこんな配合だ。

【寿司酢の材料(お米1合につき)】
酢  大さじ1.5
砂糖 小さじ1
塩  小さじ0.5。

酢に砂糖と塩をよく溶かすために、火にかけると書いてあったが、よく混ぜれば加熱しなくても溶けた。
ご飯をかために炊いて、これに分量の寿司酢をかけ、よく混ぜれば出来上がり。
飯台で混ぜるのがいいらしいが、私は一人前で少量(1合)なので、メラミン製のボールにご飯をあけて混ぜている。
ご飯に液体(酢)を混ぜるわけだから、びちゃびちゃになるのではとちょっと心配だった。最初はたしかにそうなるのだが、少しおくとご飯が吸ってべちゃべちゃ感はなくなる。

私は酢の代わりに黒酢を使っている。ネタが安ものなので、せめて寿司めしは美味しくしたいと思ったのだ。
なお私の炊飯器には炊き方のメニューに「すしめし」モードがあったのでこれを使っている。

<寿司のマニュアル 握り方編>

寿司の握り方の基本の手順はだいたい以下のとおり。言葉だけで説明するのは難しいのだが…。
握る前に、手に寿司めしが付かないように、「手酢(手水とも言う)」といって水に酢をくわえたもので手を湿らせておく。

① 右手で寿司めしをつかみ、そのまま片手で軽く小さい丸型にまとめる。
 左手の手のひらにはネタを置く。人差し指から小指までの、指の付け根と第二関節の間あたり。

② ネタの上に右手の丸い寿司めしをのせる。
そして右手の人差し指を寿司めしに上から添えながら左手で握る。

③ 左手を開き、握った寿司を指先の方に転がして半回転させ、ネタと寿司めしの上下をひっくり返す。
ネタを上にしたまま、左手の元の位置に戻す。
そして再び右手の人差し指を上から添えながら左手で握る。

④ 左手を開き、上下左右の側面を右手の親指と人差し指ではさんで整える。
それを右手で持ち上げ、寿司の両端(手前側の端と向こう側の端)を180度回転させて入れ替える。
そしてこれを三たび右手の人差し指を添えながら左手で握る。
手を開いて右手で形を整えて出来上がり。

このときあまり強く握ってはいけない。形をしっかりさせたいし、ネタとご飯をしっかりくっつけたいので力を入れてぎゅっと握りたくなる。しかしそうするとご飯がおにぎりのように固まって、口に入れたときのほどけ具合がよくないのだ。
なおふつうは②で、寿司めしをのせる前に、ネタにわさびをつける。しかし、私の場合はつけ過ぎが心配なので、ここでつけずに、食べるときにつけることにしている。

<いろいろな失敗といろいろなコツ>

最初いざ握ろうとしたら、指にご飯が盛大にくっついてしまって、全然握るどころではなかった。もちろん手には手酢をつけて湿らせておいたのにである。
そこで少し多めに手酢をつけると、今度はつかんだご飯がびしょびしょになってばらばらとほぐれてしまう。
しかし何回かやっているうちに、手につかないようにして、ご飯が扱えるようになってきた。

わかったのは手の湿らせ方が、意外に大事なポイントということ。手についている手酢が多すぎても少なすぎてもいけない。
指の先につけ両手をこすり合わせるようにしてのばす。濡らし過ぎた場合は、拍手のように手をたたいたりして、よけいな水分を飛ばす。しかも、一個握ったらそのつど手酢をつける必要がある。
それでもだんだん手にご飯の粘りが付いてくるので、数個握るごとに冷水で手を洗うのだ。冷水なのは、手を冷やした方がご飯がつきにくいからだ。
そもそもそれ以前に寿司酢とまぜたご飯は、ある程度冷ます必要がある。温かいとやはりその分粘るのだ。最初は省略してしまったのだが、なるほどどの作り方にも書いてあるように、たしかにうちわで扇ぐ必要があったのだ。

寿司めしが手につかないようになってはきたものの、次は形をうまくまとめることができなかった。
まず右手に寿司めしを取るとき、どうしても多く取り過ぎてしまう。それを握ると、寿司というより小さめの不恰好なおにぎりになってしまった。
これも何回かやっているうちに、だんだんつかむときにちょうどよい寿司めしの量がわかってくる。私は一回にお米を1合炊いているが、今はこれでいつも18~20個作れるようになった。

形の方は、ネタと寿司めしを置く手の上の位置が問題だった。手のひらの真ん中に置くと、おにぎりになってしまう。上のマニュアルに書いたとおり、指の付け根と第二関節の間、つまりあくまで指の上に置くようにする。これがわかると、いい形に握れるようになった。
形がうまく作れないと、ついぎゅっと力が入ってしまったのだが、要領がわかればそれほど力はいらない。

ただ形はそれなりにできても、ときどき問題があった。ネタが寿司めしにうまくくっついてくれないことがあるのだ。かまぼこや刺身こんにゃくなどはとくにそうだ。
しかし、それでもあせらずにネタを軽く押さえ形を整える。そのまま少し落ち着かせると、食べるときには何とか一体になってくれることがわかった。

<寿司を握る日々 2>

ちょっと上達してくるとやっぱり、魚をネタにして握ってみたくなる。そこで値段が安めでネタになりそうなものをスーパーで物色した。
しめさばを最初に買ってきた。これが思った以上にうまく握れたのだ。次いで今度は、安売りしていたトラウト・サーモンとか、ビンチョウマグロを柵(さく)で買ってきて、自分でネタ用に切って作ってみた。
握ってみるとこれらの魚のネタは、かまぼこなどよりすっと握りやすいのだ。ネバリがあるので寿司めしと密着する。また柔らかくしなるので握りながら形を整えやすく、きれいな形に仕上がるのだ。
これですっかり楽しくなってしまった。もちろんプロのようにはいかない。寿司の形はでこぼこがあったり、いびつだったりする。大きさもばらつきができる。でも自分で食べる分には、まったく問題ない。

こうなると次は人に食べさせたくなる。
そこで、ある休日の夕食に寿司を握ってみた。材料は少しだけ奮発した。
もっとも上に書いたように、うちの奥さんは生の魚を好まないので、魚はなし。スーパーで、握り寿司用のボイルしたエビ、タコの刺身、刺身用のイカの柵、厚焼き玉子、それから寿司用のガリ(しょうがの甘酢漬)を買ってきた。
ネタのメニューは、エビ、タコ、イカ、卵焼き、カニカマ、そして軍艦巻きのコーン・マヨネーズ。
握ったものを一人前ずつ長方形のお皿に盛ってガリを添えると、なかなかりっぱな見栄えの握り寿司になった。もちろんうちの奥さんにも好評だった。

やっぱり自分で作るのは楽しいものだ。
さてこれからどんなネタで握ってみようか。しばらく修行の日々が続きそうだ。

<おまけー寿司の思い出>

最後に寿司の思い出をひとつふたつ。

ときどき一緒にお酒を飲む友人がいる。だいたい三月(みつき)に一度くらい。数年前のある時期には、彼と毎回寿司屋で飲んでいた。
そこは水戸ではちょっと名の通ったある寿司屋だった。カウンターに並んで座って、おまかせのつまみでお酒を飲む。お刺身や、ちょっとした焼き物なんかが出てくる。
そして、途中から寿司を握ってもらうのだ。これもネタはおまかせ。そして、お腹がふくれたところで終わりにする。店にいるのはだいたい2~3時間。そんなにお酒は飲まないが、友人やその店の主人とも話ははずんで毎回楽しいひと時を過ごした。
お勘定はこれでだいたい一人分一万円以上で二万円以下。ぜいたくだけど、たまにはいいかなと思っていた。今では懐かしいぜいたくな思い出だ。

それから安い方の寿司の思い出。上野駅の中にあった回転寿司の話。
勤めていた頃、東京には月に1,2回出かけた。用向きが終わって、上野に戻り帰りの電車を待つ間、よくこの回転寿司に寄って小腹を満たしたものだった。何しろ他の店のように、注文したものが出てくるまでの待ち時間がないのがいい。半端な待ち時間でも入れて便利がよかった。
何しろ駅にあるのでいつも客がいる。だからいつまでも回りっぱなしの皿はなくて、次々に握りたてが供給されるのも気に入っていた。

ここでは寿司をつまみながら、たいていお酒を飲んだ。あふれそうなコップの酒に小さな枡をはかせて出てくる。コップからこぼれた酒を枡で受けるのだ。燗酒なのにあっという間に出てくるのが不思議だが、そこもまた都合がよかった。
夕方になると当然のことながら店は半分「居酒屋化」する。カウンターに座っていると、左右にいろんな人間模様が垣間見える。それらをつまみにしながら、ちびりちびりとお酒を飲むのだ。もちろんお寿司も食べるけれど。
このお店も、先年の上野駅のリニューアルで今はなくなってしまった。ちょっとだけ残念だった。

2013年2月6日水曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「極辛麻婆らーめん」 2013

今年もいよいよ2月になった。2月は「坊主」ファンにとって、一年の中で8月と並んで特別の月である。言うまでもなく、この月の間だけ限定のメニューが食べられるからだ。
そのメニューとは、これまで何度も紹介したが「極辛麻婆らーめん」と「極辛麻婆つけめん」のふたつ。「極辛」コンビだ。
2月になったのですぐ行きたかったのだが、いろいろ事情もあって、数日経ってからの訪問となった。

平日の11時5分入店。先客なし(後客4人)。珍しく一番乗りだ。
券売機の前に立ち迷わず「極辛麻婆らーめん」のボタンを押す。1080円也。それと「白めし」と「ビール」。
カウンターのいちばん奥に座って、麺とご飯の量はいつものとおり「普通で」と御主人にお願いする。
作っているところを見ていると、いつも食べている「特製らーめん」より、やはりスペシャルな分だけよけいに手間がかかっている。

そして程なく「極辛麻婆らーめん」登場。昨年の8月に食べて以来の久しぶりの対面だ。
どんぶりの上にはトッピングがこんもりと山盛り。
いちばん上には赤い粉末(唐辛子と魚粉のミックス?)が、かなりたっぷりかかっている。その下には刻みネギと麻婆豆腐が見え、そのわきに海苔が一片。
具材は、これに加えて、もやし、豚肉、メンマ、ニラ、そして刻んだ柚子など。この内。もやしと豚肉はいつも食べている「特製らーめん」でおなじみだが、当然その量は少ない。他の具材があるわけだから、やむを得ないことではあるが、ちょっとさみしい。好きなので。
このトッピングの山の周りに赤いスープが少しだけのぞいている。

レンゲでスープをすくって飲む。脂が多めで、甘さもけっこうあり、かなりいい感じだ。もちろんちょっと辛い。
スープを何回も口に運んで味わう。というか、そうしてスープを減らしておかないと、ふちからこぼれそうなのだ。そのままではトッピングを崩すこともできない。
やがてご飯を食べて一息ついたところで、いよいよトッピングの山をおそるおそる崩していく。赤い粉が全面に広がっていく。混ぜるとこぼれそうなので、上の方から食べていく。

麺の歯応えがいいな、と思っていると間もなく、辛さがぐぐっと立ち上がってきた。「極辛」を食べていると、だいたいいつもそうなのだが、途中、麺の熱さで辛さが暴れだすのだ。今日の場合は、かなり早い時点でこの辛さの暴走がやってきた。
いつもより実際に辛いのか、それとも私の体調のせいか。
そこからはひいひい言いながら食べ続けることになる。「特製らーめん」を食べているときは、こういうことはない。そして、久しぶりに口の中がイタい感じになった。

いつも以上に、鼻水が出る。汗も噴き出し始めた。鼻をかんだり、汗を拭いたりで、いつもよりさらに忙しい。
そこからはもう無我夢中だ。他の事は何も頭にない。
以前も感じたが辛いと胃が収縮するのだろうか、途中でかなり満腹な感じになる。
それでもなんとかやっと完食。いつになくかなり大変だった。食べ終わった後、お腹が一杯で、コップの水も飲めないほどだ。
シャツの襟元はいつのまにか汗でびっしょりと濡れていた。
しばらく頭はハイというか呆然としたまま。こんなことは珍しい。やがて爽快感と満足感がじわじわとわき上がってきた。

混んできたのでどんぶりをカウンターの上に返すと、御主人が「極辛」完食記念の例のタオルを渡してくれた。店の名入りで、唐辛子色の真っ赤なタオルだ。もう何枚もたまっているが、今日のは苦労したのでとくに貴重だ。
ご馳走様でしたと、早々に店を出る。この次は、もう一つの「極辛麻婆つけめん」を食べよう、と性懲りもなく思った。

2013年2月2日土曜日

遠藤賢司のアルバム5選

今回は、孤高の人 遠藤賢司のアルバム5選。
遠藤賢司も映画『20世紀少年』で主役になった(といっても名前だけだけど。しかもあちらは遠藤「健児」。ただ遠藤賢司本人も脇役で出演していた)。あれで少しは有名になったのだろうか。

遠藤賢司は、私にとってちょっと近くて、でもやっぱり遠い存在だ。何が近いかというと、遠藤賢司は私と同郷なのだ。彼と私は同じ町の生まれ。また、私の兄弟や友人の出た高校の先輩でもある。

だが、まあ実際はそんなこととはあんまり関係なく、遠藤賢司の音楽そのものに強くひかれてきた。
何といっても最初にテレビで見た彼のライヴの印象が強烈だった。1970年前後のことだったと思う。例の山高帽と、肩章のついた軍服姿で、たしか「夜汽車のブルース」と「カレー・ライス」と「満足できるかな」を歌ったと思う。ステージで椅子に座ったままアコースティック・ギターをかき鳴らし、ホルダーのブルース・ハープを吹きまくる彼の姿は、ものすごくカッコよかった。当然私もマネした。
その後彼の生の演奏には、茨城や東京のライヴ・ハウスで2,3回接したことがある。

しかし、彼はどんどん自分の趣味の世界へと沈潜していく。
もともと政治的なメッセージや社会風刺を歌う人ではなかった。「気をつけろよベイビー」とか「続東京ワッショイ」みたいな風刺的な曲もあるにはあったが。彼の歌のほとんどはプライヴェートな世界に終始していた。それがだんだん趣味化していくのだ。

遠藤賢司が好むのは、猫、プロレス、カレー、歌謡曲、SF、UFO…。カレーとSFは私も大好きなのだが、でも一人で遊んでいる遠藤賢司の姿を見せられても、他人の私には「だからどうなの」というしかないことになる。

私が好きなのは、ロッカーとしての遠藤賢司と、そして初期の情念の歌い手としての遠藤賢司だ。しかし、この人のアルバムはつねに中途半端だった。私の期待する遠藤賢司の魅力をきっちりと詰め込んだ、決定版と言えるようなアルバムはついに出なかった。いい曲もあれば、そうでない曲もある。全体としては、スカスカな感じのアルバムばかり。
熱烈なファンが多い遠藤賢司だが、そんなこんなで、私はそこまでのファンにはなれなかったのだ。
さてそこで、私なりのこだわりから選んだアルバムは以下のとおり。

<遠藤賢司のアルバム5選>

第1位 『不滅の男遠藤賢司バンド大実況録音盤』(1991年)
第2位 『遠藤賢司黎明期LIVE!』(1989年 録音は1968~71年)
第3位 『東京ワッショイ』(1979年)+ 『宇宙防衛軍』(1980年)
第4位 『KENJI』(1974年)
第5位 『niyago』(1970年)
次 点 『70年代ライヴ』(『遠藤賢司特得箱キング・オブ・ワッショイ』(2005年)の中の1枚)

<遠藤賢司のアルバム5選についてのコメント>

第1位 『不滅の男遠藤賢司バンド大実況録音盤』(1991年)

1989年から90年にかけての遠藤賢司バンドのライヴ音源を集めた2枚組。トリオ編成だが、一部の曲で、のちに正式にバンドのメンバーとなる頭脳警察のトシもゲスト参加している。

録音は悪い(しかも一部はモノラル)。しかしそんなことが全然気にならないような、ラウドでグランジな演奏が炸裂している。よけいなものをそぎ落とした裸のロッカー遠藤賢司の姿がここにある。
中でも2枚めの「プンプンプン」の中盤で聴ける遠藤賢司のエレクトリック・ギターとトシのパーカッションによるフリー・フォームな爆音インプロヴィゼーションは圧巻。

 アコースティックの弾き語り曲は余計だが、「猫が眠っている」だけは例外。その呪術的な禍々(まがまが)しい迫力は、前後のエレキな爆裂曲の間に違和感なくぴったりとはまっている。

このアルバムと同じ年にニール・ヤングはグランジなライヴ・アルバム『weld』を出した。日米の孤高の表現者のパラレルな歩みを感じた。

第2位 『遠藤賢司黎明期LIVE!』(1989年)

発売は1989年だが、デヴュー前後の1968年から71年までのライヴ音源を集めたアルバム。オリジナル・アルバムではないが、選曲は遠藤賢司自身によるとか。

初期の遠藤賢司が、情念の歌い手としてどれほどすごい存在であったかがわかる。とくに「夜汽車のブルース」、「本当だよ」、「猫が眠ってる」には深い情念の響きを感じる。
スタジオ版と違って重苦しいリズムの「夜汽車のブルース」、魂のうめき「本当だよ」、琵琶奏法ギターで呪術的な「猫が眠ってる」。遠藤賢司個人のというより、時代の底の方に流れている暗い情念を体現している感じだ。人間存在の暗黒がそこに垣間見えている。
その他、呪文のような「外は雨だよ」、のちの遠藤賢司バンドを思わせる爆音電気サウンドが鳴り響き、最後の息をふりしぼるように歌う「終わりの来る前に」も強烈だ。

この時期に録音されたのが、ファースト・アルバム『niyago』と名作と言われているセカンド『満足できるかな』だった。いずれも世評は高い。しかし『黎明期LIVE!』を聴いてしまうと、ライヴの場での当時の遠藤賢司のすごさが、この初期2枚のスタジオ・アルバムにはほとんどまったく盛り込まれていないことがわる。

第3位 『東京ワッショイ』(1979年)+ 『宇宙防衛軍』(1980年)

この2枚は同率で3位というわけではなく、2枚あわせて3位というつもり。つまり2枚あわせて一人前。

『東京ワッショイ』は、A面の<東京サイド>はいいとして、B面<宇宙サイド>がよくない。ハード・ロックの「UFO」を除けば、「ほんとだよ」の8分以上に及ぶ再演とインスト曲が2曲で、だらだらとして盛り上がらない。
続編ということになっている『宇宙防衛軍』の方は、あくまで「お遊び」のアルバム。自分の趣味嗜好にとことんこだわったその「遊びっぷり」が味わいどころなんだろう。もしかするとその姿勢そのものが、世間に対するひとつの主張になっているのかもしれない。しかし、音楽として何回も聴き込むほどのものでもないだろう。まあ「白銀の翼」とテクノ風味の「夜汽車のブルース」の再演は別として。
というわけで、この2枚をあわせてやっと一枚分というわけだ。

『東京ワッショイ』のA面<東京サイド>はとてもよい。珍しく(?)無駄な曲が一曲もない。
オープニングの「東京退屈男」のキッチュなアジアン・プログレでいきなり期待は高まる。そして、軽快に疾走するロックンロールのタイトル曲「東京ワッショイ」で盛り上がる。四人囃子プラス山内テツ(ベース)のバッキングもエッジが聴いていてよい。
続く3曲目は一転してブルース。ポール・コソフへの鎮魂歌「天国への音楽」だ。前曲からの動から静への展開もいい。次の「哀愁の東京タワー」は臆面もなくクラフト・ワークな曲。でもこれがまたなかなかよい。
そして、シニカルで狂騒的な「続東京ワッショイ」から怒涛の「不滅の男」へ。これで終わっちゃえばよかったのに。B面はいらなかった。

「不滅の男」はこの後、遠藤賢司のテーマ・ソングとなる。それにしても、ここで歌われる自信はいったいどこから来るものなのだろう、とつくづく思う。
「お前はお前 俺は俺」という割り切りから生まれる絶対的な自己肯定なんだろうけど、自分が「いつも最高」で「天才」で「不滅の男」とまで言い切れるのがすごい。むしろそう言いきることで、そうあろうということなのか。あやかりたい。

ところでロックと歌謡曲の狭間でねじれて花開いた<東京賛歌三部作>というのを私はかってに考えている。
それは、近田春夫&ハルヲフォンの『電撃的東京』(1,978年)と、遠藤賢司の『東京ワッショイ』(1,979年)と、そして沢田研二のシングル「TOKIO」(1980年 加藤和彦の作曲・プロデュースで、作詞は糸井重里)だ。どんなもんでしょう。

第4位 『KENJI』(1974年)

ロック的な展開と宇宙テーマ、そしてついでに言えば横尾忠則のジャケットという点で、後の『東京ワッショイ』(1979年)のプロトタイプ的な作品。しかしこれは、何とも聴きどころの少ないアルバムではある。
その聴きどころとは、まず何といっても冒頭の確信に満ちたロック・ナンバー「踊ろよベイビー」だ。高中正義のポップ・センスとギターが光る。そして次の渋いブルース「淋しい夜にはギターをひこう」。
それから「気をつけろよベイビー」もよい。ワウを効かせたエレクトリック・ギター(洪栄瀧)とうねるベース(山内テツ)が、遠藤賢司のヴォーカルと絡み合いねじれあって、不穏に暴走していくさまが圧巻。

しかしその他の大半がつぶやき系の曲ばかり。「星空のワルツ」、「おはよう、こんにちわ、こんばんわ、おやすみ」、「ふりそそぐ星」、「君のいない日」、そして本当につぶやきだけの「けんちゃんの宇宙旅行」。
こういうつぶやくように歌うタイプの曲は苦手なのだ。なので、アルバム全体の印象としてはスカスカな感じ。

だがしかし、ラストのまるで「ヘイ・ジュード」のように悠然とアルバムを締めくくる「またいつか会いましょう」を聴くと、また最初から聴き返したくなるのだった。

第5位 『niyago』(1970年4月)

遠藤賢司の記念すべきデヴュー・アルバムだ。出た当時は、日本のロックとして『ミュージック・マガジン』誌のレコード賞を受賞して話題になった。このあとの遠藤賢司の道のりを知ってしまった眼で振り返れば、やっぱりこれはフォーク・アルバムと言うしかないだろう。

「夜汽車のブルース」、「君がほしい」、「雨あがりのビル街」の3曲で大瀧詠一抜きのはっぴいえんどがバッキングをつとめている。その演奏はどうこう言うほどのものとも思われない。ただ、これらの曲が、詞も含めてほとんどはっぴいえんどの曲のようにも聴こえてしまう。彼らのデヴュー・アルバム通称『ゆでめん』にそのまま入っていてもおかしくない感じがする。実際、「雨あがりのビル街」は、はっぴいえんどがライヴでカヴァーしていた(『1970フォーク・ジャンボリー』(東芝EMI 1998)で聴ける)。
そのくらいこの時点で、遠藤賢司とはっぴいえんどの歌の世界は近かったのだ。

「夜汽車のブルース」を除けば、私のあんまり好きではない静かでつぶやき系の歌が並んでいる。「ほんとだよ」も「猫が眠っている」も、この時期のライヴで聴けるような深い情念を感じさせる禍々しさはない。そこが全然物足りない。
だが名盤の誉れ高い次作『満足できるかな』に比べると、こちらの方が私は好きだ。少ない音と言葉が、俳句のようにシンプルで、孤高で切々としているところがよい。

次点 『70年代ライヴ』(『遠藤賢司 特得箱(スペシャルBOX)キング・オブ・ワッショイ』2005年12月のDisk3)

遠藤賢司の1972年以前の初期のライヴは、上の『黎明期LIVE!』を除くと、全日本フークジ・ャンボリーなどのイヴェントごとの実況録音盤に分散して収録されている。
そこで、ランキングとしてはかなり変則だが、単品では発売されていないこのアルバムを次点として挙げることにした。これは、既発、未発を含めイヴェントごとの演奏をコンパクトに一枚にまとめたアルバムだ。2005年に発売されたCD4枚組ボックス・セット『遠藤賢司特得箱(スペシャルBOX)キング・オブ・ワッショイ』の中の一枚。

冒頭の2曲、「夜汽車のブルース」と「満足できるかな」がすごい。1970年の全日本フォーク・ジャンボリーでの演奏で、勢いに乗ったギターとハーモニカの超絶演奏が素晴らしい。それと、72年の春一番コンサートでの「満足できるかな」も同様だ。アコースティックだが、この演奏はもう完全にロック。遠藤賢司が、出発点からロックの人だったことがあらためてわかる。

こんなことを書いていたら例の『遠藤賢司実況録音大全 [第一巻] 1968-1976』が何だか欲しくなってしまった。まずいな。

2013年1月29日火曜日

「つけ麺 坊主」訪問 「特製らーめん」 2013 初春編

久しぶりに水戸の「つけ麺 坊主」を訪ねた。今年になって初めての訪問。そして何と昨年の11月以来2ヶ月ぶりの訪問となる。ずいぶん長いこと御無沙汰してしまったものだ。何しろ水戸に出てくる機会もなかったもので。
店に向って歩いていくとやっぱり期待で胸がわくわくしてくる。なかなかこんな気持にしてくれるお店はない。

平日の午前11時5分に入店。11時開店の直後だというのにもう先客が一人いた。早いなあ。
券売機に向う。久しぶりなので当然、私の定番の「特製らーめん」にする。そしていつものとおり「白めし」と「ビール」。さらに今回は「ネギ」をトッピング。
カウンターの一番奥の指定席へ。麺とめしの量は「ふつうで」と御主人にお願いする。

さっそく出てきたビールをぐびりぐびりと飲みながら店内を見回す。いつものように掃除の行き届いた店内。BGMにオールディーズが流れているのも同じ。
カウンターの反対の隅に座っている先客は、私と同じ年恰好のオヤジだ。着ているものも何となく同じような雰囲気。以前にも開店直後に私の前に来ていた人のよう気がする。やはり私と同類のラーメン・マニアなのか。私の場合は正確には「坊主マニア」だけど。ちなみに後客は8人だった。商売繁盛で何より。

2ヶ月間、御無沙汰したけれど、何も変わらないなと思っていたら、ちょっとだけ変わったことがあった。
カウンターの目の前に貼ってあるメニューと麺量の表の横に新たに紙が貼ってあったのだ。それによると麺の量に、これまでよりも細かい段階を設けたらしい。これまでの並盛(350g)と大盛(450g)の前後に次のような量の盛り方ができたのだ。
「麺半分(170g)」、「麺すくなめ(280g)」、「中盛(400g)」。なるほど。なおここでのグラム数は茹で上がり後の重さだ。
さらにもう一枚貼紙があって、御希望の方には「紙エプロン」の用意があるとのこと。なるほど。
少なめの麺量の設定と紙エプロンの用意というのは、あきらかに女性客とそれから子供連れへの配慮と思われる。客層が広がっているのだろう。ここの御主人は、いつもいろいろ客のことを考えていてエラいなあとあらためて感心する。

そうこうしているうちに「特製らーめん」登場だ。ご飯と刻みネギを従えている。ちなみにご飯とネギの茶碗は同じものだ。つまり、ご飯と同じくらい別の器にネギが盛ってあるのだ。ネギ好きの私にはたまらんねえ。
「特製らーめん」の懐かしいお姿。今日はまたいちだんと中央のもやしとネギが山盛りだ。その周囲に少しだけ赤いスープの「水面」がのぞいている。
レンゲでスープをすくう。どっぷりレンゲを入れる隙間がないので少しずつすくう。今日のスープは脂と甘さがやや控えめで、その代わり旨みが濃いめ。美味い。そして久しぶりの再会がうれしい。久しぶりなので辛く感じるかと思ったが、さほどでもない。
二口、三口とスープを飲み続けているうちに何だか止まらなくなる。十口以上飲んだところで、やっと一息つき、ご飯を二口、三口食べる。それでも気がすまなくて、またレンゲに持ち替えてスープを飲み続けてしまった。

それからやっと具材と麺に取り掛かる。しばらく麺を放って置いたので、そのままだと麺がからまったままになってしまう。そこで、具材の下の方から麺を引っ張り出してはほぐす。しかし、ちゃんとほぐれるのを待ちきれずにさっそく何本かを手繰ってみる。
例によってモチモチの歯応えがおいしい。最後までこの食感のままだと良いのだが、何しろ熱いスープの中なので、だんだん変化していくのが残念だ。そんな心配もあって今度は、どんどん麺を食べ続ける。食感が単調になるので、別盛りのネギも盛大に投入する。そこへカウンター上の壷から唐辛子をさじ一杯追加する。

その後、無心になって麺、もやし、肉、スープ、ご飯と交互に食べ続ける。丼の表面をいっぱいにおおっていた具材と麺が減ってきて、赤いスープが見えてきた頃、だんだん辛さが立ち上がってきた。その辛さとぐいぐい押し合いをし、ときどき押し返されて立ち止まりながら食べ進んでいく。これがこのラーメンの最高の醍醐味なのだ。

食べ始めてすぐ、例によって鼻水が出始め、カウンターのボックス・ティッシュで鼻をかみ続けていた。そこに汗も出始める。最初は額から。次に目の下あたり。そしてだんだん後頭部から首筋あたりまで、汗がしみ出してくる。私の経験では、とくにネギは発汗作用が強いような気がする。
箸とレンゲを持ち替える合間に、頻繁にティッシュで鼻をかみ、ハンカチで汗を拭う。とにかく忙しい。まあ、いつものことなのだが。

 気がつくとどんぶりの底にスープがあと少しの状態になっている。それをきれいに飲み干して完食だ。お腹はぱんぱんの満腹。ああ満足だ。鼻水と汗が落ち着くのもそこそこに、店内も込んできたので早々に立ち上がる。ご馳走様でした。
外に出る。後頭部の汗が風に冷たかった。

いよいよ来月2月は、「極辛麻婆らーめん」と「極辛麻婆つけめん」が食べられる年に二回の限定月間。楽しみだ。今日はちょうどその良い準備体操にもなった。

2013年1月18日金曜日

P-MODEL 「美術館で会った人だろ」

<『イン・ア・モデル・ルーム』について>

P-MODEL(ピー・モデル)のアルバム『イン・ア・モデル・ルーム(IN A MODEL ROOM)』(1979年)は、私にとって思い出深いアルバムだ。まだ社会人になったばかりのハードな日々の中で繰り返し聴いたせいでもある。
これはP-MODELのデヴュー・アルバムだが、この頃の彼らはテクノ・ポップのバンドと言われていた。久しぶりに引っ張り出して聴いてみると、このアルバムは日本のパンク/ニュー・ウエイヴの流れにおける名盤の一つだとあらためて思った。

アルバム全体に、シンセを前面に出したチープなアレンジで、リズム・ボックスやシンセ音のギミックが散りばめてあって、いかにもテクノ的な装いをしている。しかし、バンドの演奏そのものはあくまでパンキッシュだ。
ただ疾走感はあるが、ストレートな怒りをぶつけるというスタイルではない。シニカルで冷めていて、曲の構造はシンプルだがセンスはネジれている。その点では、前年(1978年)に出た、ディーヴォのデヴュー・アルバム『頽廃的美学論』なんかを思わせる。

ほとんどすべての曲は、文明や現代社会をシニカルに批判する内容だ。ただしその批判の仕方が、わりと単純で底が浅い。曲の構造がシンプルなだけに、よけいそれが気にならないではない。まあそこがパンクっぽいとも言えるのだが…。

アルバム前半は何となく言いたいことが空回りしているような感じもある。
しかし後半、「KAMEARI POP」から「偉大なる頭脳」を経て「アート・ブラインド」に収束する展開では、平沢進の思いとセンスが全面展開されている。
とくに「偉大なる頭脳」が良い。シュールな歌詞が、音と一体となってぐりぐりとねじれていくプログレ・ソング。彼らの前身がプログレ・バンドだったことを思い出させる。

<「「美術館で会った人だろ」」>

アルバムの中で一番印象的なのは、やはり「美術館で会った人だろ」。この曲はアルバムに先立ってデヴュー・シングルとして発売されている。
シングル発売を意識したのか、シンセによるテクノ風味が強めの軽快なポップ・ソングだ。だが歌詞はシュールかつ不気味かつ暴力的で、やはりどうしようもなく歪んでいる。

私なりにこの曲を解釈してみよう。

美術館で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ
美術館で会った人だろ
そうさあんたまちがいないさ

きれいな額をゆびさして
子供が泣いていると言ってただろ

(中略)

なのにどうして街で会うと
いつも知らんぷり
あんたと仲よくしたいから
美術館に美術館に美術館に
火をつけるよ

(「美術館で会った人だろ」 詞・曲 平沢 進)

「美術館」は厳密な規律と価値観に支配された空間だ。ここでの「美術館」は、たぶんわれわれが生きているこの社会そのもののメタファーなのだと思う。
この社会で起こる出来事の背後には、さまざまな悲劇や悲惨が潜んでいる。しかし、それらは、何事もなかったかのように隠蔽され、取りつくろわれている。この状態がつまり「きれいな額(=絵)」だ。
美術館で出会ったその「人」は、「きれいな額をゆびさして 子供が泣いている」と言った。うわべのきれいさの陰に隠された悲惨(「子供が泣いている」)を感じ取ってしまうセンシティヴな人なのだ。ゆえに主人公は、この「人」にひかれ、「仲よくしたい」と思う。
しかしこの「人」は、たぶんそれでもまだ「美術館」の規範にとらわれているのだ。そのために「いつも知らんぷり」をする。主人公は彼女をその規範の束縛から解き放ちたいと思う。だから「美術館(=社会)」に「火をつけるよ」なのだ。火をつけて「美術館」を破壊し、人々を自由にし、自分も自由になろうとするのだ。

この曲に漂うどうしようもなくもやもやした不満と怒りは、この解釈のとおりではないかもしれない。しかし、そんな「気分」がここにあることだけは間違いない。
悲惨を抱えた社会、人の感覚を束縛する社会。それに火をつけたいと私も願いながらこの曲を何回も聴いていたものだ。

<テクノ・ポップの時代>

P-MODELは、ヒカシュー、プラスチックスとともに「テクノ御三家」としてくくられている。1980年代のはじめ、当時ブームとなっていたYMOに続くテクノ・ポップの有望株と目されていたわけだ。
1979年のテレビ番組『パイオニア・ステレオ音楽館』(東京12チャンネル)は、いち早く「テクノ・ポップ」を特集し、この三つのバンドを並べて紹介していた。この番組の映像は今でもユー・チューブで見ることが出来る。

このときの演奏をあらためて観てみた。三つのバンドの違いばかりが目に付いて、「テクノ・ポップ」という共通項はさっぱり見えてこなかった。
この中でもっとも「テクノ度」が高いのがプラスチックス。
リズム・ボックスとピコピコの電子音で、あえてチープな音作りをしている。デザイナーやスタイリストなどオシャレ業界の人たちが「お遊び」でやっているバンドと思っていたが、一応ギターなんかは弾いている。
テクニックから解放され、ミュージシャンとして「稚拙(シロウト)」であることを逆手に取って、センスのみで勝負しているところは、パンクやニュー・ウエイヴの精神と同じだ。そこを突き詰めていけば、ワイアーみたいに新しい地平を切り開けたはずなのだが…。
この人たちは所詮「オシャレ」でやっているので、たしかこの後何の展開もなくすぐに消えてしまったのだった。

しかし本当にシロウトばかりだったら、ここまでの展開もあり得なかったはず。そんな彼らの音楽面を支えていたのが、メンバー中、唯一のミュージシャン、元四人囃子の佐久間正英だ。
ところで佐久間は、P-MODELの『イン・ア・モデル・ルーム』のプロデュースも担当している(メンバーと共同で)。もしかすると『イン・ア・…』のテクノ風味は、この佐久間による仕掛けなのではないかという気もするのだが。

ヒカシューは、この番組の映像を見る限り、どこが「テクノ」なのかさっぱりわからない。
そんなレッテルとは関係なくこのバンドの曲と演奏のエキセントリックさは尋常ではない。
ロックの文脈とは無縁。大正ロマンから昭和歌謡にいたる邦楽的な曲調と歌唱とコスチューム。そして、何より狂気に満ちた歌。異様で濃密な世界がそこに出現している。巻上公一はなかなかの異才だ。
で、これってテクノなの?

P-MODELの演奏はとにかく激しく熱い。フロントのギターとベースは、動き回りシャウトする。歌が社会批判だから、まったくパンク・バンドだ。ここにはシニカルで冷めた感じは全然ない。シンセの音が、申し訳程度に「テクノ」っぽいが、やっぱり飛び上がったりして弾いている。
この演奏だけで、彼らをテクノと呼ぶには無理がある。

この番組が作られたのは、1979年のこと。テクノ・ポップのブームが蔓延するのは80年代に入ってからだから、かなり早い時期の放映ということになる。
だからたぶんこの三グループを集めたことに、それほどの深い考えはなかったのではないかと推測する。しかしその後この取り合わせがひとり歩きをして「テクノ御三家」と称されるようになったのではないだろうか。今となっては、このくくりはむしろじゃまというほかない。

P-MODELは、その次のアルバム『ランドセル』も買ってよく聴いた。しかしその後は、彼らもどんどん変わっていき、そして私も変わっていったために、ご縁はなくなってしまった。メンバー・チェンジを繰り返し、音楽性も紆余曲折を経たらしいが、今どういうことになっているのかはまったくわからない。
しかし、このデヴュー・アルバムの放つ輝きは、やっぱり今も失われていない。

2013年1月15日火曜日

「ニッポンのギタリスト名鑑」

『レコード・コレクターズ』誌2013年1月号の特集は「ニッポンのギタリスト名鑑」。今回はこの特集を見て感じたことをあれこれ記してみる。
年末年始でもたもたしているうちに次の2月号が出てしまって、古い話題になってしまったけれど御容赦を。なお2月号のクラプトン『スロー・ハンド』特集についてひとことだけ文末で触れたので、これも読んでみてほしい。

さて今回のギタリスト特集は、なかなか力の入っているのがわかる内容で、私の知り合いやネットの上ではおおむね好評のようだ。しかしじつは私(わたし)的には今ひとつ、という感じ。
特集では、日本のギタリスト112人を紹介している。「名鑑」だからランキングの順位はつけていないが、取り上げ方は三段階に分れている(これが評価?)。1ページ全部を使って紹介している人が5人。半ページで紹介している人が20人。そして残りは、三分の一ページずつ、つまり1ページに三人ずつ掲載という扱いだ。そしてそれぞれのパート内の順番は生年順になっている。

まず冒頭の1ページずつ紹介されている5人だが、これが私には何とも興味の薄い人たちばかりなのだ。
何しろ最初が寺内タケシだからね。いくら生年順とはいえ、これではいきなりの肩すかしだ。この人は、たしかに日本におけるエレキの「伝道師」かもしれないけれど、もはや本来のロックの人ではないでしょ。

鮎川誠とCharの二人は、それなりのロッカーらしい。しかしこの人たちの「歌謡曲」を聴いて、私はすっかり気持が萎えてしまい、以来興味を持てなくなってしまった。その曲とは、鮎川はシーナ&ロケッツのヒット「ユー・メイ・ドリーム」(1979年)、Charの方は大ヒット曲「気絶するほど悩ましい」(1977年)。どちらも売れ線ねらいの駄曲だ。ロッカーが「ユー・メイ」(有名)になりたくて「歌謡曲」に手を出すと、こうやってファンは去っていくのである。

渡辺香津美は、うまい人だけれどあまり個性を感じない。だから魅力も感じない。KYLYNやYMOとのライヴで聴いても、やっぱり全然印象に残らないのだ。
魅力がないという点では、日本のフュージョン系のギタリストは、私にはどれもみんな同じ。

そして鈴木茂。はっぴいえんどは私の大好きなグループだ。だからというわけではけっしてないのだが、この人の印象に残っているプレイは、結局はっぴいえんど時代のものだ。
ソロの代表作と言われている『バンド・ワゴン』は、ヘタウマ(?)のヴォーカルは置いておくとしても、演奏うんぬん以前に曲そのものに魅力がない。

というわけでいきなり斬りまくってしまった。
特集の全体を見わたしてもあんまり関心がわかない。その理由の一つは、この雑誌のこのての特集でいつも感じる「ロック度」の薄さだ。まあ今回の特集の前説でも「ジャンル横断で紹介」と広言しているわけだし、それがこの雑誌の持ち味でもあるのだが…。

フォークの石川鷹彦、中川イサト、村上律からなぎら健壱にいたる名手たちが入っているのはまあ問題ない。ロック・ファンにとってもかなり身近な面々だからね。
でもジャズの人たち、高柳昌行、増尾好秋、川崎燎などは、ややロックからのご縁は薄い。そして田端義夫、木村好夫など歌謡曲の人をあえてフィーチャーしたのは、選択の幅広さをアピールしたのだろうけど、もしかして奇をてらったのでは、とかんぐりたくなってしまう。 

しかしこんな「ロック度」が云々という前に、この特集に私の気持が盛り上がらない本当の理由がじつは別にある。それは、そもそも日本のロック・ギタリストって結局、外国のモノマネしてるだけじゃないの、という思いが私の中にあることだ。まあ、今さらの話なのではあるのだが。英米のロックのモノマネで終わっていて、自分なりの表現になっていなければ、聴く意味はないとも思っている。
そのような意味で今回の特集の中でわずかに私の目に留まったのは、たとえばこんな人たちだ。遠藤賢司、ツネマツマサトシ(フリクション)、山本精一(ボアダムス、ROVO)。他にもいるのだろうがが、残念ながらこれまで私には縁がなかった。 
この人たちはギタリストとしてどうこうという以前に、ともかく音楽そのものが独自で個性的だ。唯一無二 ワン・アンド・オンリー…。その音楽が素晴らしいのはもちろんだが、その志の高さにも惹かれてしまう。

反対にクロス・オ-ヴァー/フュージョン系の人たちはテクニシャンだけどつまらない。日本に影響を与えた海外ギタリストとして今回の特集でも紹介されているアール・クルー、リー・リトナー、ラリー・カールトンらの影響を受けた、というかマネをしてる人たちだ。いちいち名前は挙げない。
フュージョンてしょせん「商業音楽」でしょ。BGMにはいいかもしれないけど、まともに聴く音楽じゃない。

ところで、この特集の記事で知った事実がひとつ。
一風堂の土屋昌巳は、ジャパンのライヴ・アルバム『オイル・オン・キャンヴァス』での客演が印象に残っている。このアルバムで聴ける彼の演奏は、エイドリアン・ブリューばりのヘタウマなギターで、私はこれが土屋のスタイルなのかと思っていた。そしたら、この特集で彼がじつは多彩なスタイルのオール・マイティーなギタリストであることを知ったのだった。

今回の特集で懐かしい名前に出会った。
成毛滋(p.61)、陳信輝(p.64)、竹田和夫(p.51) 森園勝敏(p.54)…といった日本のロック黎明期のギター・ヒーローたちだ。久しぶりに彼らのアルバムを引っ張り出してきて聴いてみた。
成毛滋は、ストロベリー・パス『大烏が地球にやってきた日』(1971)、ソロ作(?)『ロンドン・ノーツ』(1971)、フライド・エッグ『ドクター・シーゲルのフライド・エッグ・マシーン』(1972)、『グッバイ・フライド・エッグ』(1972)など。
陳信輝は、フード・ブレインの『晩餐』(1970)、ソロ作『SHINKI CHEN』(1971)、スピード・グルー&シンキ『イヴ』(1971)と『スピード・グルー&シンキ』(1972)などなど。
すっかり御無沙汰していたので、この二人については、こんなCD持っていたことを自分で忘れていた。
他に竹田和夫のブルース・クリエイション時代の『白熱のブルース・クリエイション』(1971年のライヴ)とか、森園勝敏は四人囃子のデヴュー作『一触即発』(1974)なんかも聴いてみた。

彼らはとにかくうまい。たいていはクラプトンか、ブルース・ロック系のギター・スタイルをベースにしている。が、本家のクラプトンには当然及ばない。モノマネを越えて独自のスタイルを作り出しているかといえば、それも疑問だ。
しかし彼らの音楽には英米のロックへの強い憧憬がある。そしてさらには、それを乗り越えてやろうという意欲がひしひしと伝わってくる。全然商業的でないし、実験精神にあふれている。
その姿勢にはやっぱり共感するし、感動してしまうのだった。モノマネにもそんな聴きどころはある。そんなことにあらためて気づくきっかけになってくれた今回の特集だった。感謝、感謝。

以下は、おまけでひとこと。
今号(2013年2月号)のレコ・コレ誌の特集はエリック・クラプトンの『スロー・ハンド』。
この特集の前説(p.40)に次の一文がある。
「『スロー・ハンド』は、『461オーシャン・ブールヴァード』と並んで、クラプトンの全キャリアを通じての最高傑作とされています。」
えっ、そんなこと、いつ誰が決めたの?
『スロー・ハンド』がクラプトンのAOR期の「最高傑作」と言うなら、「お好きにどうぞ」というだけのことだ。しかし、これが「全キャリアを通じての最高傑作」だとなると、これは聞き捨てならない。   レイド・バックする以前のクラプトンは全部無視するわけ?。
私は以前「エリック・クラプトンのアルバム5選」というのを選んだことがある。私のセレクションが正しいと言うわけではけっしてないが、世間にはいろいろな見方、考え方があるわけなのだから、「これこれが最高傑作とされている」みたいな、まるで定説のような言い方をするのはよくないと思うよ。

2013年1月10日木曜日

ユーミンの歌がリアルだった頃

昨年2012年は、ユーミンのデヴュー40周年だった。記念のベスト・アルバムが発売されたりしてだいぶ話題になっていた。
記念アルバムの新聞広告は、全面を何ページも使ったもので、そのド派手さ加減にちょっとびっくり。こんなことしなくたって、このアルバムは飛ぶように売れるだろうに。あい変わらずのバブリーぶりだ。

かつてロック少年だった私にも、ユーミンの歌を好んで聴いていた時期があった。今となってはちょっと恥ずかしい過去だ…。
私の好きだったユーミンは、荒井由美の時代だ。デヴューした1972年から76年くらいまで。アルバムでいうと73年のファースト・アルバム『ひこうき雲』、74年の『MISSLIM(ミスリム)』、75年の『COBALT HOUR (コバルト・アワー)』、そしてここまでのベスト盤である76年の『YUMING BRAND (ユーミン・ブランド)』くらいまで。
荒井由美名義ではこの後もう一枚『14番目の月』というのが出たが、これは聴かなかった。この辺からユーミンは何となく遠い存在になる。ただしこれ以降では唯一81年のアルバム『昨晩お会いしましょう』も気に入っている。
この中で私がリアルタイムで買ったのは3枚目の『コバルト・アワー』だったが、結局一番よく聴いたのは、ベスト盤の『ユーミン・ブランド』だ。オリジナル・アルバムではないけれど、ある意味でこのアルバムがユーミンの最高傑作ではないかとも思う。

後の松任谷由実と違って荒井由美の歌は、私にはとてもリアルに心に響いた。
この時期の荒井由実の歌は、あんまり明るくない。どのアルバムにも翳りがある。軽快なアメリカン・ポップ・チューン「ルージュの伝言」でさえ、内容は夫(マイ・ダーリン)が浮気して不安な気持になっている妻の話だ。
アルバムが全体に暗いのは失恋の歌が多いせいでもある。のちにユーミン自身が認めているように、この頃の彼女のアルバムには、「私小説」的な側面があるとのことだ。でも、翳りはあるがけっして湿っていないところがいい。

たとえば彼女の失恋ソングの最高峰(?)「海を見ていた午後」。横浜の山手にある海の見えるレストラン「ドルフィン」で別れた彼とのことを思い出している主人公。

ソーダ水の中を貨物船がとおる
小さなアワも恋のように消えていった
(「海を見ていた午後」『ミスリム』)

ここでは、失恋の痛みがクールな詩によって昇華されている。そんなクールさがよかった。
この頃の荒井由実のヒット曲の多くはこんな失恋の歌だ。「あの日にかえりたい」(シングル)、 「魔法の鏡」(『ミスリム』)、「12月の雨」(『ミスリム』)、「翳りゆく部屋」(シングル)等など。どれもそれなりに良い曲で、失恋の痛みはそのままに、その思いをクールでハイ・センスな歌の世界にまとめている。
バックのキャラメル・ママ/ティン・パン・アレイの演奏や山下達郎によるコーラス・アレンジも、この洗練された世界に大きく貢献している。

80年代以降のユーミンが、だんだんプロジェクト化するのに対し、この頃の荒井由実のアルバムには、まだ等身大の一人のシンガー・ソングライターの姿がある。
とくにあのあまりうまくないヴォーカルが逆に変にリアルだった。美声ではないし、声に伸びがなくて声域も狭い。でもそこが生々しかった。
たとえば「きっと言える」。転調してキーが上がると、サビの高音が苦しくなる。

あなたが好き きっと言える
どんな場所で出会ったとしても
(「きっと言える」『ひこうき雲』)

繰り返されるこのフレーズを一生懸命にせつせつと歌う姿が、ひたむきで健気(けなげ)で、そして切なかった。

この頃の曲の中で、とりわけ印象的なのは「ベルベット・イースター」と「やさしさに包まれたなら」の2曲だ。
「ベルベット・イースター」は、次のフレーズのイメージが素晴らしい。

空がとってもひくい
天使が降りてきそうなほど
(「ベルベット・イースター」『ひこうき雲』)

4月の小雨の日曜日の朝。低く垂れ込めている雲を、「天使が降りてきそうなほど」低いと形容している。「天使が降りてきそうな」というのは、たぶんイースター(復活祭)からの連想なのだろうけれど、とてもうまい。
けっして失恋の歌ではないのだが、しっとりと落ち着いた曲調も雲が低い日曜日の朝の雰囲気に合っている。
そして後半の一連のフレーズも新鮮だ。

ベルベット・イースター
きのう買った
白い帽子花でかざり
ベルベット・イースター
むかしママが好きだった
ブーツはいてゆこう
(「ベルベット・イースター」『ひこうき雲』)

ちょっと気取っているけれど、シンボリックな雰囲気もある。キラキラと清新なイメージが散りばめられた素敵な一節だと思う。これがデヴュー・アルバムの曲とは驚き。本当に「天才」だったのかもしれない。

もう一曲の印象深い曲「やさしさに包まれたなら」は、現在では超有名曲になってしまった。1989年のジブリのアニメ映画『魔女の宅急便』のエンディング・テーマになり、JR東日本のキャンペーン・ソング、そしてテレビ・ドラマの主題歌などでも使われてすっかりおなじみの曲になっている。
この曲にはバージョンがふたつあって、『魔女の宅急便』に使われた軽快なアップ・テンポのアルバム・バージョンの方が現在では広く知られている。しかし、私は断然、スローなシングル・バージョン(『ユーミン・ブランド』に収録)が好きだ。

この曲の何が良いかといえば、ここには幸福感があふれていることだ。まず誰もが大事に抱えている子供の頃の幸せだった感覚が次のように描かれる。

小さい頃は神様がいて
不思議に夢をかなえてくれた

あるいは次のヴァースでは

小さい頃は神様がいて
毎日愛を届けてくれた
(「やさしさに包まれたなら」『ミスリム』)

そんな子供の頃のような幸福感が、大人になって現れる瞬間がこの歌のテーマとなっている。

カーテンを開いて 静かな木漏れ陽の
やさしさに包まれたなら きっと
目にうつるすべてのことは メッセージ
(「やさしさに包まれたなら」『ミスリム』)

コーラスで繰り返されるこの一節。至福の時間にいるとき「目にうつるすべてのことは メッセージ」というのは、文学的だけれど、とてもリアリティを感じる。そんな幸福感は、シングル・バージョンの落ち着いたテンポの方がじっくり伝わってくる気がする。

その他に私が好きな曲としては、しっとりとした失恋ソング「雨のステイション」とか80年以降につながる吹っ切れた「チャイニーズ・スープ」(いずれも『lコバルト・アワー』)などがある。
荒井由実の曲は、翳りを感じさせながらオシャレで気が利いていた。バックの演奏も含め気取っていたり、背伸びしている部分もあり、そういうところは今から振り返ると正直、古臭くなってしまっている。しかしそんな部分も含めて、そこには等身大のシンガー・ソングライターとしての荒井由実がいた。オシャレな表現の中にも心に響くパーソナルなリアル感があった。

学生運動の余熱が消え去っていったあの頃。理想実現の闘争も自滅して、挫折感と無力感の中で、みんな呆然としていたあの頃。「就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くないさと 君に言い訳したね」(「いちご白書をもう一度」詞・荒井由美)の時代。
そんな中で折しも私は思春期を送っていた。不安で無力で自意識過剰な青少年だった。そんな呆然としていた自意識過剰の心に、荒井由美の翳りのあるしかもクールな歌は 不思議にリアルに響いたのだった。

その後80年代になってアルバム『昨晩お会いしましょう』で再びユーミンに出会うことになる。
そこでのユーミンは、自分のヴォーカルの弱点をもう完全に個性として活かしきっていた。歌の世界もかなり作り込んであって、どの曲も短編小説のようによく出来ている。あの頃はこのアルバムをBGMとしてずいぶん何回も聴いたものだった。
これに味をしめて、この後に出た82年の『パール・ピアス』や、83年の『リ・インカーネーション』も聴いてみたが、だんだんユーミンは遠いところへと去っていったのだった。

『昨晩お会いしましょう』はそれなりに良いアルバムだが、ここにいるユーミンは、職人としてのソングライターであって、その歌には荒井由実の歌がそうであったような個々の心に響くパーソナルなリアルさはもうなくなっていた。
心の中の微妙なニュアンスを切り捨てて、最大公約数的な紋切り型表現の音楽へと彼女は進んでいった。たとえば「春よ、来い」みたいなね。その結果、ユーミンが大衆の絶大な支持を集めたことは御承知のとおり。
アルバムを出せば必ずチャート1位。派手なコンサートは常に話題になり、まさに「日本の恋」のカリスマとなったのだ。そんな人気も最近は一段落したようだが…。
「ユーミン」とはもう巨大な音楽産業と化したプロジェクト名のように見えてしまう。一人のシンガー・ソングライターであった荒井由実の時代が今は懐かしい。

思い出にひかれて
ああ ここまで来たけれども
あのころの二人はもうどこにもいない
(「カンナ8号線」『昨晩お会いしましょう』)