2015年1月31日土曜日

本場のブルースとイギリスのブルース、そしてクリームのこと


今年も友人のI君から年賀状が届いた。彼は古くからの友だちで、学生時代の私のロック仲間だ。
彼の年賀状には、音楽生活に関する近況が添えてある。今年の年賀状によると、昨年の彼は古いロックからどんどんさかのぼってブルースを聴くようになり、ブルースの3大キングを経て、ついにはロバート・ジョンソンに行きついたとのことだった。

これを読んで私も久々にブルースが聴きたくなった。そこでCD棚の奥から手持ちのブルースのCDを引っ張り出してきたのだった。しかし久しぶりに聴くブルースの音は、何だか今ひとつ耳にしっくりこない。粗野なヴォーカルと、ペケペケと鳴るギターの音色が何ともなじめない感じ。
ロックの源流とはいえ、ブルースはロックそのものとは明らかに大きな隔たりがある。そう感じる人は少なくないだろう。

私も含めてロック・ファンの少なくない数の人たちは、ブルース・コンプレックスを抱いているのではないだろうか。あこがれのロック・ヒーローたちがリスペクトしてやまないブルースという音楽。興味をひかれて実際にブルースを聴いてみると、どこがいいのかよくわからない。そこで、自分にはブルースの良さがわからないというコンプレックスを抱くようになるわけだ。

それでもこの正月は、ひととおり自分の手元にあるブルースのアルバムを順繰りに聴いてみた。耳が慣れてくると、それなりに面白くなってくる。自分の好みに合うものと、合わないものがわかってくる。
I君がたどり着いたロバート・ジョンソンの良さは、じつは私にはわからない。クラプトンやキース・リチャードもこの人を敬愛していることはよく知られているが、私には縁がないようだ。
私がいいなと感じるのは、巨匠では、エルモア・ジェイムスや、ジョン・リー・フッカーや、ハウリン・ウルフたち。たしかにロックの根っこはここにつながっているような感じだ。もうちょっと新しい世代では、オーティス・ラッシュと、そして何といってもフレディ・キングがいい。このへんはもうほとんど、ロックと地続きと言ってもいい。

そんなわけでブルースを聴いていたら、イギリスのバンドがカヴァーしている曲がいくつも出てくる。フレディ・キングの「ハイダウェイ」とか、ハウリン・ウルフの「スプーンフル」、「シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド」、「キリング・フロア」(ツェッペリンの「レモン・ソング」)などだ。

それでついでにイギリスのブルース・バンドのCDも引っ張り出して聴いてみた。フリートウッド・マックとか、チキン・シャックとか、サヴォイ・ブラウンとかだ。この三つは、ブリティッシュ・ブルースの3大バンドと言われているらしい。それと、ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズ。
これらのバンドのやっていることは、やっぱり本家米国のブルースとはかなり感触が違う。カヴァー曲をオリジナルと聴き比べるとその違いは明らかだ。本家のブルースが持っている乾いた感じがない。ブリティッシュ・ブルースは、もっとセンチメンタルで、ウエットだ。そしてまさにそこが魅力なのだ。
ブルース・ギタリストで、ブルースに関するライターとしても知られる小出斉は、ブリティッシュ・ブルースから聴き始めて、しだいに本場のブルースにはまっていったと、どこかに書いていた。しかし、同じようにブリティッシュ・ブルースを聴いていても、結局私のように本場米国のブルースには行かなかった(行けなかった)人も多いはず。ブリティッシュ・ブルースは本場のブルースとは異質であり、ブリティッシュ・ブルースなりの独自の魅力を持っている。ロック・ファンの多くは、まさにそちらの方に強くひかれていたからだ。

ブルース・ブレイカーズつながりで、ついでにクリームのアルバムも聴きたくなった。あらためて聴いてみると、やはりクリームはいい。すごいバンドだったことを、今更ながら痛感した。
ブルースのカヴァーをよくやっているとは思っていた。思ってはいたけれども、あらためてカヴァー曲を原曲と聴き比べてみると、その違いに驚く。
それまでのブリティッシュ・ブルース・バンドは、原曲をなぞるように演奏していた。クラプトンが参加していたブルース・ブレイカーズの「ハイダウェイ」(フレディ・キング)なんかもそうだった(ギターのソロ・パートは別だが)。
ところが、クリームの場合は、カヴァーといっても、ほとんど彼らのオリジナルと言ってもよいくらいに改変されている。「スプーンフル」、「シッティン・オン・トップ・オブ・ザ・ワールド」、そして「クロスロード」など、どれも斬新な解釈と、クールでダークなセンスが光っている。これはまさにロックだ。ブリティッシュ・ブルースと、ブルース・ロックの境界はこのあたりにあるんじゃないかと思う。

クリームの「カヴァー」曲の中でも素晴らしいのはクラプトンの「クロスロード」だ。
クラプトンのオールタイム・ベスト・ワンと言えば、私は断然この曲だ。「ホワイト・ルーム」や、「サンシャイン・オブ・ユア・ラヴ」や、「レイラ」や、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」や、「ティアーズ・イン・ヘヴン」もある(以下省略)。けれども、やはり最高なのはこの曲に尽きる。
でも、この曲のオリジナルであるロバート・ジョンソンの「クロス・ローズ・プルース」(2テイクある)は、クラプトン版とは全然違っている。これを聴いても、うっかりするとクラプトンの原曲とは気付かないくらいだ。そこには、クラプトンの「クロスロード」で特徴的なあのリフもない。
「クロスロード」と言えば、本場のブルースを聴いているときに、いくつか気がついたことがある。
ジョン・リー・フッカーに、「ダスティー・ロード」という曲がある。ヴォーカルのフレーズが「クロスロード」にちょっと似ていて、歌詞も少し共通している。全体にせわしなく、たたみかけるような曲調で、クラプトンの「クロスロード」のアレンジには、もしかするとこの曲からの影響が少しばかり反映されているのでは…と思った。
それからハウリン・ウルフの「ダウン・イン・ザ・ボトム」のリフが、クラプトンの「クロスロード」のリフと似ている。正確に言うと、クラプトンのリフの前(まえ)半分を繰り返しているような感じなのだ。
クラプトンは、ウルフ・バンドのギタリストであるヒューバート・サムリンの影響を受けている。当然この曲もよく知っていたわけで、「クロスロード」のリフのアイデアは、こんなところから得た可能性もわりと高いんじゃないか思われる。
でももちろん「クロスロード」が最高なのは、リフだけでなく、そのギター・ソロの素晴らしさによるんだけれど。

オシャレ系音楽から始まった(前回の記事参照)今年の新年は、いきなりブルースに飛んで、結局クリームに落ち着いたわけだ。はたして今年の私の音楽生活は、どんな展開になることやら。


2015年1月22日木曜日

私の好きな「オシャレ」音楽


私はロック・ファンとしては「硬派」だ。「硬派」のロック・ファンとは、どういうことかと言うと、ロックの中でもとりわけプログレッシヴで、アヴァンギャルドで、アグレッシヴなものを好むのだ。ひとことで言えばシリアスなロックが好き。ポップなものも嫌いではないが、イギリス的なねじれたセンスのポップが好きだ。そういうわけでロックでも、安直でお気楽(きらく)で能天気なのはノー・グッド。
しかし、そんな「硬派」な私でも、ときおり「オシャレ」で気の利いた音楽が聴きたくなることもある。そういうときに私が聴くのが、シャーデーと、スティーリー・ダンと、ホール&オーツだ。それぞれCDを数枚ずつ持っている。
じつは、この寒かった年末年始(2014年から15年にかけての)に、もっぱら聴いていたのが、この三つのグループだった。そこで、今回は私の好きな「オシャレ」音楽についてのお話。

ところでこの3組の共通点を強いて挙げるとするなら、いずれも音作りに関して完璧主義ということになるだろうか。そしてジャジーだったり、ソウルっぽかったりするが、とにかく高度に洗練されていること。オシャレだけれども、けっしてお気楽ではない。
この完璧主義がピークに達しているのが、シャーデーなら『ラヴ・デラックス(Love Deluxe)』(1992)、スティーリー・ダンなら『彩(エイジャAja)』(1977)、ホール&オーツなら『プライベート・アイズ(Private Eyes)』(1981)あたりということになる。これらは、いずれも名盤であると同時に、それぞれの代表作ということになっている。

でも私の好きなのは、じつはそういうアルバムではなくて(一応持ってはいるのだけど)そこに至る少し手前の時期のアルバムなのだ。完璧になる前の、まだちょっとユルさのある音がいい。
シャーデーは、1984年に『ダイアモンド・ライフ(Diamond Life)』でデヴュー。いきなり独自のジャジーで洗練されたサウンドを確立した。その後『プロミス(Promise)』(1985)、『ストロンガー・ザン・プライド(Stronger Than Pride)』(1988)と、さらに洗練の度を高めていく。そして4年間のブランクをおいて発表した『ラヴ・デラックス(Love Deluxe)』(1992)は、まさにダイアモンドの結晶のようなアルバムだった。確信に満ちたサウンドが、美しく屹立していた。
面白いのは、アルバム・ジャケットの雰囲気も、こうしたサウンドの進化を何となく反映していること。どのアルバムもヴォーカルのシャーデー・アデュの美しいポートレイトなのだが、ファーストの『ダイアモンド・ライフ』のジャケットでは、まだどこか媚を売るようなメイクだった。それが、アルバムを重ねるごとに、どんどん自立&自律した女性へと存在感を増していく。
そして『ラヴ・デラックス』では、黒く硬質なひと固まりのオブジェと化したヌードで登場している。さらにその後に出たベスト・アルバム『Best Of Sade』(1994)では、ジャケットいっぱいにクローズアップされたアデュの顔が、悠然とまっすぐこちらを見つめているのだった。
私はフェミニストのつもりだし、自立した女性は好きだが音的には、完璧な『ラヴ・デラックス』よりも、もう少し穏やかな音を好む。アルバムでいうと、セカンドの『プロミス』あたり。スモーキーなアデュのヴォーカルが漂わす、はかなげな風情が何ともたまらない。

スティーリー・ダンの二人(フェイゲン&ベッカー)も完璧主義だ。職人的、もしくは病的といってもいいくらいに。そのこだわりが頂点を極めたのが、1977年の『彩(エイジャ)』ということになる。
当時、愛読していた『ミュージック・マガジン』誌上でも、このアルバムは大きな話題になった。超一流のスタジオ・ミュージシャンをぜいたくに起用した演奏の完璧さと、細部までこだわり抜いた精緻な音作りが絶賛されていた。以後、『彩(エイジャ)』はロック史に輝く名盤という定評を得ることになる。私にとっても発売と同時に購入して繰り返し聴いた思い出深いアルバムだ。
しかし、今はほとんど聴かない。なるほど演奏もサウンドも完璧かもしれない。だが、肝心の曲そのものに魅力がないのだ。スティーリー・ダンの曲と言えば、「ドゥ・イット・アゲイン(Do It Again)」(73)とか「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」(74)が印象深い。けれども、『彩(エイジャ)』には、これに匹敵するような名曲が一曲も入っていないのだった。

というわけで私的には1974年のサード・アルバム『プレッツェル・ロジック(当時は副題が「さわやか革命」)』あたりが好きだ。のちにドゥービー・ブラザースに入るジェフ・バクスターがまだバンド・メンバーだった頃の作品だ。この人の豪快でおおらかなギター・プレイが、このアルバムにほんの少しだけ泥臭くてのどかな雰囲気を付け加えていた。そこがよいのだ。

ダリル・ホール&ジョン・オーツは、言うまでもなく80年代のオシャレ音楽界を席巻したグループである。そんな彼らのサウンドのピークを記録したのが、3枚のセルフ・プロデュース作、すなわち『モダン・ヴォイス(Voice)』(1980)、『プライベート・アイズ(Private Eyes)』(81)、そして『H2OH2O)』(82)ということになる。いずれも完璧なサウンドによる怒涛の勢いのヒット曲が並んでいる。ほとんど「産業ロック」とも呼べそうなのだが、その手前で何とか踏みとどまっている感じだ。それはこの人たちが完全な商業ベースではなくて、その根っこにかろうじてロック・スピリットを持っていたからではないかとも思う(とくにダリル・ホールの方。彼はクリムゾンのロバート・フリップとも共演している)。

しかし、やっぱり私が好きなのは、ちょっとくつろいだ感じのある彼らの初期のアルバムだ。中でもセカンド・アルバム『アバンダンド・ランチョネット(Abandoned Luncheonette)』(1973)がいい。ジャケットは、郊外の打ち捨てられたレストラン(つまりこれがアバンダンド・ランチョネット)。タイトル・ソングは、過去を回想しながら人生の機微を歌ったものらしい。しかし、ジャケットに写る都市の郊外のひなびた情景に、私はのどかな空気感を感じてしまう。そして、このアルバム全体の音にもまた、こののどかさを感じてしまうのだ。そこが気にいっている。

私の「オシャレ」音楽について、はこれでおしまい。
ここからはおまけ。今回の記事を書くにあたってネットを見ていたら、面白い話を見つけたので紹介しよう。
ひとつは「シャーデーの白いドレスの行方」(ブログ『STRONGER THAN PARADISE 踊るシャーデー鑑賞記』) 。アデュがライヴで着ていた白いドレスが、何とシニード・オコナーに受け継がれたという話。しかも、シニードは、例の事件の時、まさにこのドレスを着ていたというのだ。
そしてもう一つ、「ダリル・ホール&ジョン・オーツ Abandoned Luncheonetteの逸話」(ブログ『Entertainment Everyday ONE』)。これは、アルバム『アバンダンド・ランチョネット』に写っている件の廃屋となった実在のレストランをめぐる話だ。ホール&オーツのファンがここに立ち寄っては、記念に破片をもぎ取っていき、ついには消滅してしまったという。
どちらも興味深くてぐいぐい読ませる。文章もうまい。ネットの音楽についての記事と言えば、表面的な感想に終始したつまらないものが大半だが、その中で珍しく良質な読み物に出会えてうれしくなった。

えっ、おまえのこの記事も「表面的な感想に終始」してるだろうっ…て。その通りでした、すみません。